wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

講演会 「武田家の滅亡に見る良い相続 悪い相続」を聞く

2015-07-20 16:54:47 | その他
平成27年7月20日(海の日)、梅雨が明け、海に行くには絶好な日和、私たち夫婦は、こんな題目の講演会に行った。

会社を経営しているわけではないし、ましてや子どもたちに残す遺産があるわけではないのに、歴史好きな私は、この武田氏の滅亡の真相を知りたくて、申し込んだ。
果たして、期待の裏切らない内容で、私は面白かった。
   


まずは、相模原と信玄の接点を話された。
それは、相模原にある八景(はけ)の棚には「さいかち」という樹?植物?が群生している。それは信玄が三増合戦の戦勝を祝って、植えたもので、また、中腹一帯の横穴には、敗軍の将士の自刃のところだということが、昭和43年にこの地に建てられた碑に書かれていると話してくれた。
ほー、津久井の方で勝ち名乗りを上げたと聞いていたが、景勝と言われているこの地でもこういうことをしていたんだなと感慨深く思った。
 


そして、いよいよ、武田家の滅亡の話に入る。

「戦国屈指の大名武田信玄の功績は、言うまでもないが、あまりに自分に自信があり過ぎ、自分亡き後の課題の認識が甘かったと言わざるおえない」と、講師の真崎正剛氏が熱弁を振るっていた。
なるほど、信玄の遺言を見ても、勝頼をないがしろにするようなものになっていて、真崎氏が言うように、あれじゃあモチベーションが上がらないよなと思った。

信玄の遺言というのはこうだ。

①自分が死んだら、三年間は喪を隠せ  これは有名なことだ。
②勝頼の子信勝を武田家第 28代当主とするが、16歳になるまでは勝頼を「陣代(信勝の代理)」とする。た だし、兜は使ってもよいが、それ以外のものは使ってはならない。有名な「風林火  山」の旗も自分で作れとも。   なんじゃこれ?
 勝頼の妻は、信玄の政略により、昔はまだ友好関係にあった「今は宿敵」織田信長の 養女である。だから信勝は、血のつながりはないが信長を祖父に持つことになる。
③勝頼は武田の諸将を朋輩と思うべきだ。決して家臣などと低く見てはならない。
④弟の信廉は予の影武者を務めよ

どうしてこんな遺言を書いたのか?どうも勝頼のことを嫌っていたのではなく、側室の子だという出生に秘密があるらしい。

勝頼は信玄の4番目の子で、その前の3番目までは、正室三条家の子どもである。

嫡男である義信が家督を継げば、何の問題もなかったのだが、義信は、今川家から嫁をもらっている。桶狭間の戦いで信長が義元を撃ったことで、京に上る近道は東海地方から進みたいと思った信玄は、今川義元の娘である嫁や今川家と親密な関係を持っている義信は、邪魔になると考えたらしい。義信は、30歳にして非業な最期を遂げている。病死か自刃かそれとも殺されたのか分からないということだ。次男は目が見えなくて坊さんになっていて、三男は病死。4番目である勝頼が武田家を継がなければならない状況に追い込まれてしまったということだ。

また勝頼を生んだ側室は、諏訪氏の姫で、諏訪大社の大祝(おおほうり)の一族で、一言で言えば「生き神様の一族」という、えらく由緒あるところから迎えてきた。

また、正式に「武田勝頼」に襲名したのは、信玄が死ぬたった2年前だという。そして、何の官位ももらっていない状態であったという。普通、大名が家督を相続するには、まして、源氏の流れを汲む大大名であるのだから、官位をいただくのは当たり前なのに、信玄はそういう手はずもせずに亡くなっている。可哀相といえば可哀相である。

そんな勝頼だから、自分の存在を示すためには、勝って勝って勝ちまくって、自分を誇示したかったのであろう。1574年には、難攻不落な遠江の高天神城を攻略し、領土を拡大している。
長篠の合戦では、老臣は戦わないことを勧めたが、無理強いしてこういう結果を招いてしまった。信玄が死んで(1573年、信州伊那駒場にて病死)、10年足らずで、武田家が滅亡(1582年3月、甲斐天目山にて勝頼自刃)という悲劇も起きなかったと思う。

ここに、真崎氏がいう「継がせるための教訓・継ぐがわのための教訓」を載せておく。
  
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鎌倉 足利の足跡

2015-07-18 08:27:35 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成27年7月12日(日)、友人が「鎌倉の英勝寺の門の中に特別に入れてもらって、見学してきた」と言ったことがきっかけに、何年か前に行った時に、そんな大きな門があったかなと思い、それじゃあ確認しに行こうということになった。
それに、鎌倉は、鎌倉幕府の御家人であった足利尊氏や直義が住んでいたところでもあり、何か足跡は残っていないか気になっていたところでもあったので、今回のウォーキングとなった。

果たして、実際行ってみると、偶然にも、ブラタモリで紹介された「浄光明寺」で、住職さんの詳しい説明を聞くことができたし、足利尊氏が建立したという「覚園寺」の薬師堂を見ることができたりと、得ることがたくさんあったので、面白い。

それでは、順番に、紹介していこう。
まずは、鎌倉駅を降りて、観光案内所で鎌倉市の観光案内の地図をもらう。
 

外国人がたくさん来ていて、英語が飛び交っていた。

英勝寺を目指し歩く。その途中手前に、北条政子のお墓がある「寿福寺」に寄る。
    

道なりに歩いて、太田道灌生家跡や「英勝寺」に着く。
   

この門が友人が中に入ったと言っていた門である。なるほど、門の内側に梯子が備え付けてあって、「あー、ここから上ったんだな」「こんな急で上りにくそうだな」と思った。
また、英勝寺は、家康の側室の「お梶」(道灌を先祖に持つ。戦に連れて行くと連戦連勝、関ヶ原の勝利も祝って、縁起のいい「お勝」に名前を変え、家康逝去後「英勝院」と改めたという)によって築かれた。
家康はこの英勝院に、水戸頼房の養育を命じ、徳川御三家の一つ水戸徳川家の基礎を築き上げさせた。出家後家光の配慮により、太田家ゆかりの扇が谷のこの地に、先祖の供養のお寺ができたということである。

次に、お昼は小町通りに戻ろうかとなり、まだ時間があるから、近くのお寺に行こうと、寄ったのが「浄光明寺」。全く「ブラタモリ」で紹介されたとは知らず、なんか混んでいるなと思ったくらいだった。そこのお寺は入場料をもらうのも説明するのも、住職さん?一人で切り盛りされていて、「あなた方も、ブラタモリを見て、いらしたのですか?」の質問で、初めて知った。
そこでは、鎌倉時代の古い地図が発見され、それをタモリさんはいたく感動していたという。また、鎌倉時代に彫られた「阿弥陀如来像」が展示されたあり、鎌倉時代の特色である、土文(どもん)が施され、綺麗な顔の仏様でした。これは写真撮影禁止であった。また、直義が寄進したという念持仏があったり、冷泉為相の墓が見晴らしのいいところに建っていたりした。この冷泉為相は、「十六夜日記」の作者阿仏尼の息子で、二人は、遺産相続のことを訴えに、京から鎌倉まで来たらしい。その旅日記が「十六夜日記」だそうだ。
          

その住職さんが、覚園寺に足利の歴史が残っているというので、昼はあとにして、そちらに向かう。
途中、扇が谷上杉の屋敷跡の碑があった。


宝戒寺に行く。昔読んだ本の中に、足利尊氏・直義兄弟が遊んだという記述があったような。
  


最後に「覚園寺」へ行く。なるほど、ここには、尊氏が建立したという「薬師堂」があった。ちゃんと天井に、尊氏の名前が薄くなっていたが、確認できた。

ここは、お坊さんが、一時間くらいかけて、説明をしてくれる。広い庭園は春夏秋冬、楽しませてくれる。そこで教えていただいたのは、如来=仏、菩薩=中間管理職、明王・天=お寺を守っていると。だから阿弥陀如来とあったら、阿弥陀仏と置き換えられるということだ。
   

鎌倉駅に戻る道すがら、「え柄天神社」や鎌倉幕府より500年も古いお寺「杉本寺」に寄った。杉本寺では、十二面観音菩薩像(頼朝が寄進・運慶作)があり、斎藤栄の本では足利尊氏の子供の義詮は、わずか11歳で、奥州から攻めてきた北畠をこの杉本城で、総大将となり、守っていたという。11歳と十一面が妙に心に染みつき、運命に押し流されると感慨ひとしおだと書いていた。
     


鎌倉は、まだまだ見るところがありそうだ。
いつものようにこうやって歩けることに感謝して、筆をおこう。
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後北条氏の滅亡の真相

2015-07-04 16:40:26 | その他
平成27年6月21日(日) 小雨降る中、相模川自然の村公園の中にある古民家園で、この辺の領主であった北条氏の滅亡に関する歴史講演会があるというので、千ちゃんとワクワクしながら行って聞いてきた。

室町幕府の後半、関東がぐちゃぐちゃしている折に、伊勢新九郎(のちの北条早雲)が伊豆を乗っ取り、相模を平定した。(関東は関東管領が貴族化して、守護代が実権を握るようになり、山内上杉や扇谷上杉の対立もある。)、その時には、早雲は各地にお布令を出して、平定に尽くした。相模原の当麻山にも資料が残っていると聞いたことがある。

そんな北条氏が房総半島から相模・伊豆を支配して、平和な時代を築いた。そんな時代から5代氏直で滅びるまでのことを分かりやすく話してくれた。

   


つまり、北条は佐竹と仲が悪く、それを攻めるためには、西側の徳川と仲良くなってないと、安心して、攻めることができない。それで、北条は徳川と同盟を結んだ。また、秀吉は関白になり、2年後には、徳川は秀吉と和議を結んでいる。それに伴って、北条と徳川の同盟は意味を成さなくなり、秀吉に付け入る隙を与えてしまう。

徳川は北条の沼田領有を認めるが、領主の真田氏は沼田を渡さず、家康を離れ秀吉に従い居座った。ところが沼田城代が名胡桃城を攻めてとってしまったことから、秀吉は怒って、小田原攻めになった。小田原評定一夜城が言われたこともこの時代のことがきっかけである。

室町時代から戦国時代、そして江戸時代になるまでは、とかく群雄割拠で分かりづらいところもある。でも、こうやって詳しく知ることができると、歴史がますます面白くなる。
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