wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

家康公生誕の地 岡崎

2013-12-28 11:20:36 | 東海道珍道中
平成25年12月21日・22日(土・日)、仕事も一息ついたので、久しぶりの東海道53次のウォーキングを行った。

前回は8月の猛暑日で、豊橋まで行ったので、今回はそれより西に位置する、「岡崎」周辺に行った。

やはり岡崎といえば、家康がメインで、そこかしこに家康や松平家関連の史跡がある。

とはいっても、家康はこの岡崎城で生まれて、幼少の時は過ごしたが、6歳から8歳までは織田信長の父の人質になり、8歳から19歳までは今川義元の人質になって、桶狭間で信長が義元の首をとって、やっと岡崎に帰ってこられたのである。その後も浜松城に行き、それから秀吉に「お前は東を守れ」と言われて、東の関東一体を任されるようになったのである。そう考えると、家康は生まれてからあまり岡崎には長くいなかったな~。

今回行って、一番印象が残っているところは、「大樹寺(だいじゅうじ)」である。
    

徳川将軍家の菩提寺で、松平八代と将軍家康までの墓があった。また、家康公の命によ
り松平八代と徳川歴代将軍の位牌を安置している。徳川将軍の位牌は何と等身大で作られているという。ちなみに家康は159Cm、秀忠は160Cm、家光は157Cmで昔で言えば、徳川三代は大男の部類に入るだろう。

また、松平家から徳川家に苗字が変わる経緯も、書いてあり、特に千ちゃんは、以前私が職員旅行で行った、「新田庄」で、そこに「徳川発祥の地」と立て看板が書いてあったことを話すと、甚く不思議に思っていて、「いろいろ調べてみたが、見つからなかった」と話していたので、今回詳しく分かりとても喜んでいた。もちろん私も嬉しかった。

その経緯はこうである。

源義家(八幡太郎)の孫の新田義重の息子義季(よしすえ)が新田荘に住み「得川」と名乗っていた。その後八代目の得川有親・親氏親子はこの地にちなみ、「世良田姓」を名乗るようになる。有親・親氏親子は、何かの戦いに敗れ諸国を放浪していた時に、三河の地に辿り着き、松平家の重臣である酒井家の養子に入り、松平家に婿入りしたことにより、松平を名乗るようになったということである。それが松平家初代の松平親氏である。家康の祖父は「世良田二郎三郎清康」と名乗っている。

今日(12/29)テレビ欄を見たら、「影武者 徳川家康」西田敏行主演のお正月ドラマで、この影武者が「世良田二郎三郎」という名前で、びっくりした。どうういうつながりで、出てくるかわからないけど、きっと太田市の世良田出身の武士なのだろうか。

1566年の桶狭間の戦いから6年。三河統一をした家康は三河守にしてくれと頼んだが、官職は由緒がなければダメだというので、自分は清和源氏の子孫であるということを主張するために、この系図を作ったと言われている。

もう一つこの寺で、家康に纏わる事と言えば、桶狭間で、義元が倒れたと聞いて身の危険を感じた家康は、この大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした。それを13代住職は「厭離穢土、欣求浄土」(おんりえど、ごんぐじょうど)ー戦国乱世を住みよい浄土にするのがお前の役目ーと家康をさとし、翻意をさせたという。また、家康をおう野武士の一隊が大樹寺を囲んだが寺僧らが門のカンヌキを引き抜いて打って出て、退散させたという。家康はこのカンヌキを「貫木神」(かんぬきしん)と崇め奉っている。
           

ここでは、手ぬぐいをお土産に買ってきた。歴代の将軍の名前と家康の訓示が染めてあったから。
   


長々と大樹寺のことを書いてしまったが、それでは順を追って今回の旅を書いていこう。

まずは、21日、上溝駅7時15分の電車に乗る。JRは豊橋までなので、名古屋鉄道に乗り換える。12時36分着。各駅では5時間半も愛知県まで行くのにかかる。お金を取るか、時間を取るかということで、結局あまりにもかかりすぎるというので、次回からはホテルと新幹線を予約できる格安チケットで行くことになりそうだ。

名鉄東岡崎駅に着く。実は一本乗り遅れて次に来たのが、この線で、急行なので、降りたかった駅には止まらず、結局は東岡崎駅近くの岡崎城と家康館からの見学となった。

岡崎城では、松平家やこの辺の三河の歴史等を細かに紹介していた。家康館では、家康が天下を統一した関ヶ原の合戦を大型映像と大型ビジョンと武将フィギュアと可動式ジオラマでダイナミックに再現していた。刀や甲は思いのほか重たいのが分かった。
                            

ここでは、記念に日付と名前が入る岡崎城と葵の御紋が描かれているキーホルダーを買う。600円也。
  

近くに矢作川が流れていて、矢作橋が架かっている。
そこは、秀吉が、蜂須賀五六と出会ったところで、「出会いの像」があると楽しみに行ったが、橋の改修により、どこかに移されてしまったようで、見当たらなかった。残念。
  


ホテルに向かって歩いていると、岡崎城からどこからかにサーチライト、青い光の線が頭上を走っている。あーこれが、パンフレットにあった、家光が家康のために、菩提寺である大樹寺から岡崎城が一望できるように整備したという「ビスタライン」かと、納得し、こんなに大事にしている寺(北に3キロの所にある)なら明日はぜひ行ってみたいとなって、次の日の一番に行ったのである。

やっぱり歴史は裏切らなかった、その門の荘厳さといったら、私も数々の門を見てきたが、この大樹寺の門は三本の指に入る。

ホテルでは、乙川がすぐ脇を流れ、景色が良かった。スケートの日本選手権を見て、羽生の完璧さと高橋の危うさが心配しながら見ていたが、久しぶりのウォーキングで疲れたのか、見終わって、シャワーを浴びたら爆睡してしまった。

22日(日)風は冷たかったが快晴。朝食は洋食。目玉焼きが2個付くと豪華に見える。

まずは、例の大樹寺に行く。
あまりにも面白くて、じっくり見すぎて、時間を取りすぎた。

次に、本宿駅近くの「法蔵寺」というところに行く。
ここは、家康が幼少の頃、手習いをしたところとされている。
それと、これは、資料が出てきたから、本当のことだと思うが、あの新撰組の「近藤勇」の首を埋めた「首塚」であるという。三条河原でさらし首にされていたのを、家来が取ってきて、ここの住職を頼って、弔ってもらったという。
   


藤川宿(昔は藤河宿と書いていたらしい)に行く。ここは道の駅が整備されていて、車で来てる人が多くいた。またここで食べた昼食が、この地の特産の紫小麦を使ったうどんで、コシがあってとても美味しかった。
  


この藤川宿は、昔の街道の趣をよく残していて、道の両側には古い家並木もあった。
芭蕉の句碑や宿場の端を示す「東棒鼻」「西棒鼻」なるものがあるのを初めて知った。
               


帰りは、豊橋を6時半になってしまって、結局家に着いたのは、12時過ぎであった。やっぱり時間がかかりすぎるので、新幹線を利用したほうがよさそうである。
でも、ゆっくり帰ったぶん、十分に今回の旅も振り返ることができた。満足である。

いつも思うことであるが、こうやって歩けるのも、家族が健康で理解があるからである。感謝してやまない。
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久しぶりにスケールの大きな面白い本に出会う「ジェノサイド」高野和明著

2013-12-26 16:20:06 | 読書日記
   


何しろ、今地球上にいる人間よりはるかに知能が高い新人類が誕生し、それはアフリカ大陸の奥地で、現人類と隔離された環境で特異な進化をしている背の低い「ピグミー族」から突然変異で生まれたのだが。

それを脱出させるために、それより何年か前に日本の科学者がそのピグミー族の妊婦を妊娠中毒症のためアフリカから日本に連れ帰って生んだ子が、同じように現人類より何倍も知能が高く、その子の立てた計画によって、脱出していくという。

それもアメリカの大統領やCIA・アフリカの部族闘争、それに難病の新薬を開発するという、色々な要素を織り込んで、とんでもないスケールの大きな小説である。

仕事が立て込んでいたので、やっと2か月間くらいかけて読み終わった。

コメント (1)
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