東海道珍道中 <戸塚~藤沢>
平成23年4月2日(土) 第6回の珍道中を行った。約一ヶ月ごとに一回の割合で行ってきていたが、地震の影響で何回か延期して、世の中が少し落ち着いてきた?ということで、決行した。でも実は今日は4月10日(日) いつもなら次の日にはこのブログを書き、載せていたところだが、4月1日から職場が変わり、毎日が慣れないためか時間的に余裕がとれず、齢のせいか、疲れも極地に達していて、今日に至ってしまった。それに、一週間もたつとだいぶ記憶がぼやけてきて、また感動も薄れてきて、意欲が消失しつつあるのが正直な気持ちである。そんな訳で少し手抜きの珍道中記を始めよう。
9時30分 千明さんが車で家の前まで来てくれ、それから淵野辺駅のパーキングに停めて、JR横浜線で横浜まで行き、そこから東海道線で戸塚の駅に到着した。車中ではずーと立ちっぱなしで私が新しい職場の様子などを話していた。回りは静かで、電車が走っている音だけだから私たちの話は近くの人に筒抜けになっていたかも知れない。
いよいよ戸塚駅から出発である。戸塚駅には前回の終盤に通った「吉田大橋」の広重が描いた絵が大きく壁に描かれていて、それを見て、さあ歩くぞーとスイッチが入った感じがした。
戸塚駅からまずは富塚八幡宮を目指して歩く。この富塚八幡宮は「とつかはちまんぐう」と読み、この場所の地名「戸塚」の由来になったらしい。富塚八幡宮に向かう旧東海道の道は、もうしっかり整備されていて、片側2車線の大きな道路であったが、一軒だけこの街道にあって、昔の面影を残している古い家があった。頑固にもまだ住んでいるようであり、是非とも私たちみたいなにわか旅人を楽しませてほしい。
富塚八幡宮は奥州を平定した、源頼義・義家親子に感謝して建てられた。この源頼義・義家親子は、千明さんが以前読んでいたく感激した「炎立つ」に出てくる御仁である。こうやって歩いているとそういう関係者に出会うから、面白くて止められないとつくづく思う。そこでお参りをしていたら、お宮参りをしている若い夫婦がいた。
この辺ではお宮参りを拝んでくれるのはここしかないということで少し遠くからやってきたと言っていた。
このまま街道沿いに歩いていくと、「お軽・勘平の碑」なるものがあった。歌舞伎や浄瑠璃の話に出てきて有名なんだそうだが、そこで私が驚いたのが、お軽という人物は実在していて、赤穂浪士の内蔵助の山科での愛妾だったんだそうだ。
しばらくそのまま歩いていくと、「原宿一里塚跡の碑」が建てられていた。日本橋から11里目にあたる。一里は約4キロだから44キロになる。この説明板に、前回行った保土ヶ谷宿の「品濃一里塚」が原形を残しているのに対してここはほとんどない、ということが書いてあって、つながっているなーと感じた。実は私は簡単に読んでそのことに気が付かずに行こうとしたのだが、千明さんがしっかり読んで教えてくれたのである。
道路を隔てて、浅間神社があった。各地でよく浅間神社を見かける。何でかなーと二人で話してみたが、埒が明かない。看板には富士山信仰と書いてあったが、どうもしっくりいかない。富士山の近くにある千明さんのパワースポットである浅間神社の話で盛り上がるが、私の中では疑問が残っていた。そこで帰ってから、主人に聞いてみたところ、「浅間山(あさまやま)を鎮めるために建てられた神社である」とのこと。以前よく浅間山は噴火して、冷害を引き起こしていたらしい。江戸時代の大飢饉も浅間山が大噴火して、関東や東北地方に塵や噴煙を撒き散らし、これが原因でひき起されたらしい。昔の人は拝むことで神の力を借りて、鎮めようとしていた。健気である。
藤沢バイパスを過ぎて、藤沢市内に入っていく。その街道には松並木が若干残っていた。松喰虫にやられてしまったらしいが、残っていて街道を埋め尽くしていたとしたら見事だったろう。トイレとのどの渇きを癒すために、コンビニに入り休憩をとる。
そのまま、遊行寺(ゆぎょうじ)に入る。大きなお寺で、相模原の当麻山無量光寺に祭られている一遍上人が謳っている時宗の総本山である。正式な名称は藤沢山(とうたくさん)無量光院清浄光寺という。このお寺が有名なのはいくつかあるが、一つは戦国時代、応仁の乱のときに住職尊恵(そんね)上人は負傷者を敵見方の区別なしに治療し死者を弔ったことで、供養等が立てられ、有名にしている。また境内にある籐嶺藤沢高校は野球が強くて有名であるが、もともとは坊さんになるための学校で生徒たちはみんな丸坊主だそうだ。隣接してあるのが、長生寺で、そこには相模原の伝説にもなっている照手姫のお墓があることでも有名である。そこに書いてあった看板の内容を紹介すると、常陸の小領主である小栗判官は足利持氏に謀反を起し攻められる。10人の家臣を連れて逃げる途中で豪族であった横山大膳の館に立ち寄ったが、そこで毒を盛られて重臣たちは殺害され、小栗判官親子は大膳の娘である照手姫の密告で命は助かり、逃げることができた。その後判官たちを弔うために照手姫はこの長生寺を建てたということである。お寺には小栗判官のお墓や照手姫のお墓、そして照手姫が建てたという地蔵様が三体まつられていた。相模原との関連はこの説明によると無いようだが、おいおい調べていきたい。
また、遊行寺は由緒ある寺で、明治天皇をはじめ、まだ各地に行くのに時間がかかった時代、皇族方々が宿泊をしたところでもあった。ちゃんと碑が建てられていた。
そして、奥に入ると「めだかの学校」なるものがあり、純粋の日本のめだかが少なくなり、外来種を入れない純粋の日本のめだかを育成する池を設けていた。ただ、そこには鯉や金魚やらが泳いでいたので、私の経験からめだかはいないのではないかと推測する。何故かというと、実は私は水槽にめだかと金魚を入れて、めだかが食べられてしまったという大失敗をした経験があるのです。可哀そうなことをしました。それ以来二度と一緒にはしていません。
遊行寺を出て、昭和初期の古い写真が載っている古い地図を買い、今度は義経の首洗い井戸を目指す。東北地方で首を切られた義経だが、検分のために鎌倉に送られてきて、それを見終わった後に捨てられ、潮にのって川を上り、それを拾った里の人がここで首を洗って弔ったということである。本当か?路地を入ると民家の庭先みたいなところにその墓はあった。一緒に弁慶らも葬ってあった。
この日は昼を食べずにここまで来てしまった。16:20頃に藤沢本町駅に到着。遅い昼を駅近くの喫茶店「凛」でとり、私は和風スパゲティ、千明さんはカレーを食べ、ゆっくりする。このカレーは本場新宿中村屋のよりおいしいと千明さんは絶賛していた。焼きたてのスポンジケーキは格別であった。またいつものように、旅を振り返り、こんなご時勢の中、気ままに歩けることの幸せをかみしめながら、締めくくる。
17689歩 約10キロ
平成23年4月2日(土) 第6回の珍道中を行った。約一ヶ月ごとに一回の割合で行ってきていたが、地震の影響で何回か延期して、世の中が少し落ち着いてきた?ということで、決行した。でも実は今日は4月10日(日) いつもなら次の日にはこのブログを書き、載せていたところだが、4月1日から職場が変わり、毎日が慣れないためか時間的に余裕がとれず、齢のせいか、疲れも極地に達していて、今日に至ってしまった。それに、一週間もたつとだいぶ記憶がぼやけてきて、また感動も薄れてきて、意欲が消失しつつあるのが正直な気持ちである。そんな訳で少し手抜きの珍道中記を始めよう。
9時30分 千明さんが車で家の前まで来てくれ、それから淵野辺駅のパーキングに停めて、JR横浜線で横浜まで行き、そこから東海道線で戸塚の駅に到着した。車中ではずーと立ちっぱなしで私が新しい職場の様子などを話していた。回りは静かで、電車が走っている音だけだから私たちの話は近くの人に筒抜けになっていたかも知れない。
いよいよ戸塚駅から出発である。戸塚駅には前回の終盤に通った「吉田大橋」の広重が描いた絵が大きく壁に描かれていて、それを見て、さあ歩くぞーとスイッチが入った感じがした。
戸塚駅からまずは富塚八幡宮を目指して歩く。この富塚八幡宮は「とつかはちまんぐう」と読み、この場所の地名「戸塚」の由来になったらしい。富塚八幡宮に向かう旧東海道の道は、もうしっかり整備されていて、片側2車線の大きな道路であったが、一軒だけこの街道にあって、昔の面影を残している古い家があった。頑固にもまだ住んでいるようであり、是非とも私たちみたいなにわか旅人を楽しませてほしい。
富塚八幡宮は奥州を平定した、源頼義・義家親子に感謝して建てられた。この源頼義・義家親子は、千明さんが以前読んでいたく感激した「炎立つ」に出てくる御仁である。こうやって歩いているとそういう関係者に出会うから、面白くて止められないとつくづく思う。そこでお参りをしていたら、お宮参りをしている若い夫婦がいた。
この辺ではお宮参りを拝んでくれるのはここしかないということで少し遠くからやってきたと言っていた。
このまま街道沿いに歩いていくと、「お軽・勘平の碑」なるものがあった。歌舞伎や浄瑠璃の話に出てきて有名なんだそうだが、そこで私が驚いたのが、お軽という人物は実在していて、赤穂浪士の内蔵助の山科での愛妾だったんだそうだ。
しばらくそのまま歩いていくと、「原宿一里塚跡の碑」が建てられていた。日本橋から11里目にあたる。一里は約4キロだから44キロになる。この説明板に、前回行った保土ヶ谷宿の「品濃一里塚」が原形を残しているのに対してここはほとんどない、ということが書いてあって、つながっているなーと感じた。実は私は簡単に読んでそのことに気が付かずに行こうとしたのだが、千明さんがしっかり読んで教えてくれたのである。
道路を隔てて、浅間神社があった。各地でよく浅間神社を見かける。何でかなーと二人で話してみたが、埒が明かない。看板には富士山信仰と書いてあったが、どうもしっくりいかない。富士山の近くにある千明さんのパワースポットである浅間神社の話で盛り上がるが、私の中では疑問が残っていた。そこで帰ってから、主人に聞いてみたところ、「浅間山(あさまやま)を鎮めるために建てられた神社である」とのこと。以前よく浅間山は噴火して、冷害を引き起こしていたらしい。江戸時代の大飢饉も浅間山が大噴火して、関東や東北地方に塵や噴煙を撒き散らし、これが原因でひき起されたらしい。昔の人は拝むことで神の力を借りて、鎮めようとしていた。健気である。
藤沢バイパスを過ぎて、藤沢市内に入っていく。その街道には松並木が若干残っていた。松喰虫にやられてしまったらしいが、残っていて街道を埋め尽くしていたとしたら見事だったろう。トイレとのどの渇きを癒すために、コンビニに入り休憩をとる。
そのまま、遊行寺(ゆぎょうじ)に入る。大きなお寺で、相模原の当麻山無量光寺に祭られている一遍上人が謳っている時宗の総本山である。正式な名称は藤沢山(とうたくさん)無量光院清浄光寺という。このお寺が有名なのはいくつかあるが、一つは戦国時代、応仁の乱のときに住職尊恵(そんね)上人は負傷者を敵見方の区別なしに治療し死者を弔ったことで、供養等が立てられ、有名にしている。また境内にある籐嶺藤沢高校は野球が強くて有名であるが、もともとは坊さんになるための学校で生徒たちはみんな丸坊主だそうだ。隣接してあるのが、長生寺で、そこには相模原の伝説にもなっている照手姫のお墓があることでも有名である。そこに書いてあった看板の内容を紹介すると、常陸の小領主である小栗判官は足利持氏に謀反を起し攻められる。10人の家臣を連れて逃げる途中で豪族であった横山大膳の館に立ち寄ったが、そこで毒を盛られて重臣たちは殺害され、小栗判官親子は大膳の娘である照手姫の密告で命は助かり、逃げることができた。その後判官たちを弔うために照手姫はこの長生寺を建てたということである。お寺には小栗判官のお墓や照手姫のお墓、そして照手姫が建てたという地蔵様が三体まつられていた。相模原との関連はこの説明によると無いようだが、おいおい調べていきたい。
また、遊行寺は由緒ある寺で、明治天皇をはじめ、まだ各地に行くのに時間がかかった時代、皇族方々が宿泊をしたところでもあった。ちゃんと碑が建てられていた。
そして、奥に入ると「めだかの学校」なるものがあり、純粋の日本のめだかが少なくなり、外来種を入れない純粋の日本のめだかを育成する池を設けていた。ただ、そこには鯉や金魚やらが泳いでいたので、私の経験からめだかはいないのではないかと推測する。何故かというと、実は私は水槽にめだかと金魚を入れて、めだかが食べられてしまったという大失敗をした経験があるのです。可哀そうなことをしました。それ以来二度と一緒にはしていません。
遊行寺を出て、昭和初期の古い写真が載っている古い地図を買い、今度は義経の首洗い井戸を目指す。東北地方で首を切られた義経だが、検分のために鎌倉に送られてきて、それを見終わった後に捨てられ、潮にのって川を上り、それを拾った里の人がここで首を洗って弔ったということである。本当か?路地を入ると民家の庭先みたいなところにその墓はあった。一緒に弁慶らも葬ってあった。
この日は昼を食べずにここまで来てしまった。16:20頃に藤沢本町駅に到着。遅い昼を駅近くの喫茶店「凛」でとり、私は和風スパゲティ、千明さんはカレーを食べ、ゆっくりする。このカレーは本場新宿中村屋のよりおいしいと千明さんは絶賛していた。焼きたてのスポンジケーキは格別であった。またいつものように、旅を振り返り、こんなご時勢の中、気ままに歩けることの幸せをかみしめながら、締めくくる。
17689歩 約10キロ