wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

台湾は暑いくらいだった。

2016-12-28 08:04:27 | 旅行記
平成28年12月24・25・26日と、今年は天皇誕生日の23日から冬休みに入ったので、少し長い休みを利用して、思い切って台北に行ってきました。
行きも帰りもほぼ一日かかる日程で、観光は中日の25日のみというのも、ゆったりしていて余裕があってよかった。

一日目、成田発15:15のキャセイパシフィック航空でいざ台北の桃園空港へ
フライトは約4時間位。映画「アナと雪の女王」「超高速、参勤交代」の2本も見てしまった。まあ、参勤交代のほうは、時間が足りなくなって後半は早送りになってしまったが・・・。
台湾は漢字の国。外国都市を漢字表示していた。馬尼良(マニラ)、雅馬伊加(ジャマイカ)
    

そして、ホテルへ。ビップホテルという割には、ピップではなかった。
テレビのチャンネルが多いこと100以上あった。日本語放送は一つだけ。
14チャンネル。NHKが番組を組み合わせて放送していた。
時差は1時間。日本のほうが早い。

2日目。暑い位に天気がいい。半袖の人もいた。
この日は観光三昧。
まず、行天宮(ぎょうてんぐう)。道教の神様が祀ってある。関帝の銅像があった。
沢山の人がお参りをしていた。赤いお札を貰いに長い列になっていた。
    


忠烈祠(ちゅうれつし)。日本の靖国神社みたいなところだそうだ。門兵の交代式が見られた。
     

台湾はお茶が有名で、煎れ方にも独特なものがある。セミナーで飲む。また、蘭も有名だそうだ。

車窓から総督府を見る。
 

中正記念堂(ちゅうせいきねんどう)。蒋介石が亡くなった後に、記念に作られた、台湾一立派な建物だそうだ。
       

101のビル。形良く、商業ビルだそうだ。
 

昼食は、小籠包(しょうろんぽう)、人気店らしく、一般に来たら、2時間は待ったようだ。次から次へときて、お腹いっぱいになった。
 

いよいよ、白菜でおなじみの「故宮博物館」。ヒスイで創られたものが、たくさん展示してあり、清の皇帝に嫁がせるために、高価なものを作らせ送り、その中の一つが、この「翠玉白菜」である。
                 

「千と千尋の神隠し」で有名な「九ふん」散策。昔金が取れた場所で、人が集まっていたが、取れなくなってからは、夜景がきれいなので、観光で潤っているらしい。私は、このツアーで行くまで全く知らなかった。宮崎駿が映画で参考にしたとかしないとか。確かに、行くまでにトンネルがあり、通り過ぎてから世界が変わったような??
湯婆婆の館の看板もあった。宮崎駿さんが飲んだお茶屋さんにも案内された(一人1200円)
        

3日目。帰りも天気が良く、飛行機からの景色が素晴らしいかった。
        

無事到着。いつもながら、こうやって好きなところに行って、おいしいものを食べて、楽しい経験が出来て、知らない場所に行って新しいことを知ることができて、ほんと幸せである。周りの人たちや見守ってくれている人たち・平和な世の中に感謝である。
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「悪魔祓い」上田紀行著

2016-12-04 12:19:40 | 読書日記
新聞の書評され、この題名に興味を持ったので、読んでみた。

上田紀行氏は、スリランカへ「悪魔祓い」の儀式を研究に行く。そして、実際に何度も見て、この悪魔祓いの権威になっていく。病人と悪魔祓い人とが、イメージを働かせながら、呪文を唱えたり、踊ったり、供物をお供えしたり、自分自身を暗示に掛けていく?セルフコントロールをするサイモントン療法みたいに。でもほんとに殆どの人は悪魔祓いによって病気が治る。悪魔が出て行ってしまう。

本を読んでいて、目に見えないものを、見えたり、考えたりして、想像していくのって、果たして、難しいし、私達みたいな一般人には、理解できないところがある。それでも、現実は、悪魔に取り付かれた人が、治って、普通の生活をすることが出来るようになっている。やっぱり不思議な世界だ。

     


現代のこのストレス社会をズバッと切っていた。ストレスが、身体に影響し、バランスを崩し、免疫力が低下していく。
また、かわいがられたり、話しかけらりして、育てられたウサギは、動脈硬化の発病率が、低いと研究された。
何よりもリラックスすることが大切で、イメージ療法により、右脳を活発に活動させ、アルファ波やドーパミンが出るようにすると精神的にリラックスできて良いそうだ。
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「大谷吉継」の謎を解く

2016-12-04 10:54:14 | その他
平成28年11月27日(日)、恒例の古民家園歴史講座へ行ってきた。
今回は、真田信繁岳父という触れ込みで、「謎多き義将 大谷吉継」の題目で、講演会を聞いてきた。
   

私達が、以前行った、滋賀県の琵琶湖の北に、「小谷」と書いて、「おおたに」と読ませる地名があり、そこは大谷吉継の出生地だという噂を聞いて、訪ねたことがあった。
果たして、今回その地名が出てきて、納得した限りだ。

『兼見卿記』(かねみきょうき)という本によると、お母さんが、「東殿」といって、秀吉の正室「ねね」の側近で、年齢は、天正20年(1592年)に「刑部少輔甘八才」と記述してあるという。

初めて、公に記述として登場したのは、天正5年(1577年)秀吉の馬廻り衆「大谷平馬」と、『武功夜話』にあるらしい。石田三成を補佐し、九州征伐にも行っている。越前敦賀城主になり、小田原征伐の時は、有名な忍城攻めにも参加している。

朝鮮出兵も参加するが、進行性の病気により、奉公職を離れて帰国している。
『兼見卿記』によると、天正18年(1590年)母東殿は、息子の為に、病平癒の祈祷依頼をしている。

文禄3年(1594年)直江兼続宛てに、草津温泉から書状を出し、病の為、花押ではなく、印判を用いるとある。

慶長5年(1600年)7月会津の上杉景勝征伐の為に討伐軍に参加。途中、三成の息子を参加させるために、佐和山城へ行く。その時に、家康討伐の意向を告げられて、迷った挙句に、同調を決意した。

五大老の一人、前田利家が死に、嫡男利長が当主となり、家康暗殺を画策それが発覚し、母を人質に出す。それによって、前田家は家康方になる。

吉継の計略により、前田軍の進軍を1ヶ月遅らせ、関が原に着いたのは、9月22日終わったあとだった。

吉継は、9/3には関が原の西の山に布陣をしいていた。
9月15日午前8時ごろ合戦が始まる。正午頃、小早川秀秋が東軍になびき、大谷隊総崩れ、家臣湯浅五助の介錯により自害。家臣三浦喜太夫により首を埋めた。

新たに知ることもあり、歴史の面白さを知る。

病押して 義理人情に 散る雲雀
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