平成28年6月26日(日)、梅雨の晴れ間の蒸し暑い中、
「小早川秀秋 裏切りの真相」という歴史講演会が、古民家園で行われるというので、行ってきた。
徳川家康の確認から豊臣秀吉との関係、小早川秀秋の確認、関ヶ原での東軍西軍の配置等、細かく説明して下さり、その度々に、それに纏わるうんちくを散りばめていて、1時間半がとても短く感じられた講演会でした。
まずは、資料を載せておく。
簡単にいうと、小早川秀秋は石田三成を裏切ったと私は思っていたけれど、そうではなく、さんざん秀吉には辛酸を舐められていて、豊臣家憎しと思っていた。秀吉の死後、五大老である家康には旧領・筑前30万石を拝領され、恩義も感じていた。そんな中で、家康と密約し、表向きは西軍でも心の中では、東軍側に汲みすると分かっていた。それに、吉川家も毛利家を動かさないと分かっていたから、家康は関ヶ原の真ん中まで出てこられたんだと納得いった。実際、関ヶ原に行ってみると、何でこの布陣(東軍を挟み撃ちできる)で、西軍が負けるのか不思議に思っていたから。
この小早川秀秋は、政所の兄の子供であり、幼少の頃から、継承者として重宝されたけど、秀頼が生まれてからは、小早川に養子縁組させられたり、朝鮮出兵で、大将になったが、三成に疎まれ、三成の言によって減封させられたり、散々な目にあう。秀吉・三成憎しと思っていた一人である。
また、まだこの関が原の時は、家康は、5大老の筆頭で、一番家督を多く持っていたけれど、豊臣家の家臣であった。その立場で、上杉征伐をしている途中で、石田三成の反乱を知って、取って返す。
この時、淀君は「石田三成を退治してください」と、家康に手紙を書いたと言われている。だから、あくまでも、この戦いは豊臣家の家来同士の戦いなのである。
小牧長久手の戦いで、家康は勝っていながら、実際は上洛して、秀吉に臣下の礼をとって、苦渋の選択を強いられている。早めに、家督を秀忠に譲って、駿河に隠居しつつ、豊臣家が台頭してこないように、目を光らせて、徳川家の磐石を狙っていて、大阪の陣につながるのである。
徳川260年の流れの中で、小早川秀秋が裏切り者とレッテルを貼られた。歴史は勝者の都合の良い方に作られるのである。
「小早川秀秋 裏切りの真相」という歴史講演会が、古民家園で行われるというので、行ってきた。
徳川家康の確認から豊臣秀吉との関係、小早川秀秋の確認、関ヶ原での東軍西軍の配置等、細かく説明して下さり、その度々に、それに纏わるうんちくを散りばめていて、1時間半がとても短く感じられた講演会でした。
まずは、資料を載せておく。
簡単にいうと、小早川秀秋は石田三成を裏切ったと私は思っていたけれど、そうではなく、さんざん秀吉には辛酸を舐められていて、豊臣家憎しと思っていた。秀吉の死後、五大老である家康には旧領・筑前30万石を拝領され、恩義も感じていた。そんな中で、家康と密約し、表向きは西軍でも心の中では、東軍側に汲みすると分かっていた。それに、吉川家も毛利家を動かさないと分かっていたから、家康は関ヶ原の真ん中まで出てこられたんだと納得いった。実際、関ヶ原に行ってみると、何でこの布陣(東軍を挟み撃ちできる)で、西軍が負けるのか不思議に思っていたから。
この小早川秀秋は、政所の兄の子供であり、幼少の頃から、継承者として重宝されたけど、秀頼が生まれてからは、小早川に養子縁組させられたり、朝鮮出兵で、大将になったが、三成に疎まれ、三成の言によって減封させられたり、散々な目にあう。秀吉・三成憎しと思っていた一人である。
また、まだこの関が原の時は、家康は、5大老の筆頭で、一番家督を多く持っていたけれど、豊臣家の家臣であった。その立場で、上杉征伐をしている途中で、石田三成の反乱を知って、取って返す。
この時、淀君は「石田三成を退治してください」と、家康に手紙を書いたと言われている。だから、あくまでも、この戦いは豊臣家の家来同士の戦いなのである。
小牧長久手の戦いで、家康は勝っていながら、実際は上洛して、秀吉に臣下の礼をとって、苦渋の選択を強いられている。早めに、家督を秀忠に譲って、駿河に隠居しつつ、豊臣家が台頭してこないように、目を光らせて、徳川家の磐石を狙っていて、大阪の陣につながるのである。
徳川260年の流れの中で、小早川秀秋が裏切り者とレッテルを貼られた。歴史は勝者の都合の良い方に作られるのである。