平成24年10月27日(土)
「風の群像」をやっと読み終えて、最後の方で直義が幽閉され、毒を盛られて自害する場面があったが、その場所が鎌倉の東側にある浄妙寺である。そこを訪ねたくて、また、鎌倉から朝比奈切通しを通って金沢八景に行く街道があって、昔は物資の流通に欠かせない街道であると何かに書いてあり、また、千ちゃんは昔から金沢文庫ってどんなところなのか気にかけていた事も相まって、今回も鎌倉ウォーキングを行った。
果たして鎌倉は裏切らないところである。
今回も、鎌倉までは小田急と江ノ電が使えるフリー切符を購入し、鎌倉ではまた、案内板のところにいるガイドさんを頼って、浄妙寺や朝比奈切通に行く最善の行き方を教えてもらう。さすがにガイドさんである。尊氏の祖父が開いたという竹寺でも有名な報国寺が近くにあることや鎌倉石(ほかの石より若干柔らかい)の発掘場所があって、その近くには馬頭観音が祭ってあるということも教えてくれた。でもこの馬頭観音は見つけることができなかったが。
でも、私が今興味を持っている関東管領の山内上杉氏と扇が谷上杉氏の地名がちょうどその地図に書いてあったので、その屋敷跡とかあるのかを聞いてみたら、あまりいい顔をしなかった。やっぱり誰にでも得意・不得意分野があるのでしょう。
では、順に説明していこう。
まずは、鎌倉からバスに乗って「報国寺」に行く。ここは尊氏の祖父足利家時が開いたお寺で、「竹の庭」の孟宗竹が見事であった。
また、ここでの発見は、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞らの戦いで亡くなった両軍の無縁仏をここで供養して弔っていることである。
次に行ったのは、私の行きたかった浄妙寺である。直義が幽閉されていたというこの境内にあったとされる延福寺は跡形もなかった。でも二人のお父さん(足利貞氏)の墓があったので、その時は二人で一緒にお葬式を上げたのであろう。格式あるお寺であった。
でも、浄妙寺では面白いものを発見した。題名にもなっている、「鎌足神社」である。
何と、大化の改新の立役者藤原鎌足が、東国に出兵した際、この由比ガ浜に泊まり、
夢のお告げで、鎌を埋めたということである。木造の藤原鎌足像が奉納してあり、鎌倉という地名はこの像に由来すると「鎌埋稲荷明神縁起」に書いてあるということである。ほー、「鎌倉」という地名は「鎌足」から変化してなったものなのか~驚いた。
朝比奈切通まで歩いている途中、石碑が目に付いた。なんとこの辺は足利公方(鎌倉公方)の屋敷があったところであるらしい。今は駐車場になっているが、昔は偉い方々が住んでられたところである。
明王院では千ちゃんがこの寺でできた梅をつけた梅干しを売っていたので買った。体力回復に梅干を食べたら、亡くなった母の味がした。
道なりに歩いていると、いよいよ朝比奈切通しに入った。
和田義盛の三男朝比奈義秀、この義秀は木曽義仲の奥さんで力が強かった巴御前を母にもつとされる大男にして力持ちで、この朝比奈切通しを一日にして作ったという伝説を持っている。その太刀を洗ったとされる滝もあった。説明板には、この切通しは切通しの中でも一番険しくて大変だと書いてあったが、実は私たちは一ヶ月前くらいに「甲州街道の小仏峠」に行っていて、それに比べたらこの切通し確かに険しいところもあるが、距離的にはそんなに長くないので、私たちは何でもないねと大口をたたいて歩いていた。
また、この切通しには、大刀洗いの滝というのがあった。どうも梶原景時が千葉常広を斬った太刀を洗ったらしい。
朝比奈切通しの途中、熊野神社があった。どうも鎌倉幕府の鬼門に当たる所に頼朝が建立したらしい。鬼門は北東に当たるところで、よく丑三つ時と言われるように、夜の2時頃を指すらしい。
次に、朝比奈切通しをぬけて、バスで金沢八景駅に行く。そこから電車で一つ目の金沢文庫駅に行く。歩いて15分くらいの金沢文庫を目指す。でも残念ながら4時には閉館になってしまって、入れなかった。近代的な建物で、当時の面影は微塵もなかった。
ここに昔は金沢文庫があったんだな~と思いながら、裏に回ってみると、そこには称名寺という北条実時が建立したお寺に通じるトンネルがあった。そこもきれいに整備されていて、金沢八景という名のとおりこの辺の景勝の浮世絵が、トンネル内に埋め込まれていた。
この金沢文庫は金沢北条三代(北条実時・北条顕時・15代執権北条貞顕)が和漢の貴重書を納めた書庫である。日本最古の図書館とも言われていたと思う。
新田義貞が鎌倉を滅ぼした時(東勝寺合戦)に、この金沢文庫の本も奪われて、残ったものが称名寺に保管されていたとされる。貞顕たちは鎌倉の東勝寺で最期を迎えたという。
その新しいトンネルの横には昔からの通路がまだ残っていて、説明板があった。昔はこのトンネルだけが金沢文庫に通じる道(隧道・すいどう)であったという。もしかしたら実時は大切な貴重書をあまり目に触れないようにしていたのかもしれないと感じた。
称名寺庭園は別名「区民の憩いの場」とも言われ、その名のとおり家族連れの人たちがたくさんいた。
実時はここを浄土曼荼羅の構図を真似て造ったと書いてあった。平等院に似た作りで、池には大きな太鼓橋がかかり、優雅に鯉や亀、水鳥が泳いでいた。お寺や門の作りも見事で、古い格式が有り、荘厳な趣を兼ね備えていた。
この金沢の地をつくったとされる室町時代の13代執権の北条実時の像が置かれていた。その子どもの顕時らのお墓もあった。
帰りは金沢文庫から電車とバスで鎌倉駅に戻る。今回はあまり食事らしい食事はしなかったので、この鎌倉で食べようということになり、小町通りあたりを探索する。
いろいろ迷ったが、駅前のうどん蕎麦屋さんに決めて入る。それが思いのほか美味しい蕎麦で、注文の時に「そばアレルギーはありませんか」と聞くくらい濃度の強いそば粉を使っているらしい。私はたちまちファンになり、次回も是非食べたいと思ったほどだった。名前は確か「川古江家」。
江ノ電と小田急で町田まで来て、東急の下の「イタリアントマト」で、いつものようにウオーキングの振り返りをし、こんな風に歩けることにいたく感謝をして、帰ってくる。
25239歩 約15キロ歩いた計算になる。ホントかな~
「風の群像」をやっと読み終えて、最後の方で直義が幽閉され、毒を盛られて自害する場面があったが、その場所が鎌倉の東側にある浄妙寺である。そこを訪ねたくて、また、鎌倉から朝比奈切通しを通って金沢八景に行く街道があって、昔は物資の流通に欠かせない街道であると何かに書いてあり、また、千ちゃんは昔から金沢文庫ってどんなところなのか気にかけていた事も相まって、今回も鎌倉ウォーキングを行った。
果たして鎌倉は裏切らないところである。
今回も、鎌倉までは小田急と江ノ電が使えるフリー切符を購入し、鎌倉ではまた、案内板のところにいるガイドさんを頼って、浄妙寺や朝比奈切通に行く最善の行き方を教えてもらう。さすがにガイドさんである。尊氏の祖父が開いたという竹寺でも有名な報国寺が近くにあることや鎌倉石(ほかの石より若干柔らかい)の発掘場所があって、その近くには馬頭観音が祭ってあるということも教えてくれた。でもこの馬頭観音は見つけることができなかったが。
でも、私が今興味を持っている関東管領の山内上杉氏と扇が谷上杉氏の地名がちょうどその地図に書いてあったので、その屋敷跡とかあるのかを聞いてみたら、あまりいい顔をしなかった。やっぱり誰にでも得意・不得意分野があるのでしょう。
では、順に説明していこう。
まずは、鎌倉からバスに乗って「報国寺」に行く。ここは尊氏の祖父足利家時が開いたお寺で、「竹の庭」の孟宗竹が見事であった。
また、ここでの発見は、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞らの戦いで亡くなった両軍の無縁仏をここで供養して弔っていることである。
次に行ったのは、私の行きたかった浄妙寺である。直義が幽閉されていたというこの境内にあったとされる延福寺は跡形もなかった。でも二人のお父さん(足利貞氏)の墓があったので、その時は二人で一緒にお葬式を上げたのであろう。格式あるお寺であった。
でも、浄妙寺では面白いものを発見した。題名にもなっている、「鎌足神社」である。
何と、大化の改新の立役者藤原鎌足が、東国に出兵した際、この由比ガ浜に泊まり、
夢のお告げで、鎌を埋めたということである。木造の藤原鎌足像が奉納してあり、鎌倉という地名はこの像に由来すると「鎌埋稲荷明神縁起」に書いてあるということである。ほー、「鎌倉」という地名は「鎌足」から変化してなったものなのか~驚いた。
朝比奈切通まで歩いている途中、石碑が目に付いた。なんとこの辺は足利公方(鎌倉公方)の屋敷があったところであるらしい。今は駐車場になっているが、昔は偉い方々が住んでられたところである。
明王院では千ちゃんがこの寺でできた梅をつけた梅干しを売っていたので買った。体力回復に梅干を食べたら、亡くなった母の味がした。
道なりに歩いていると、いよいよ朝比奈切通しに入った。
和田義盛の三男朝比奈義秀、この義秀は木曽義仲の奥さんで力が強かった巴御前を母にもつとされる大男にして力持ちで、この朝比奈切通しを一日にして作ったという伝説を持っている。その太刀を洗ったとされる滝もあった。説明板には、この切通しは切通しの中でも一番険しくて大変だと書いてあったが、実は私たちは一ヶ月前くらいに「甲州街道の小仏峠」に行っていて、それに比べたらこの切通し確かに険しいところもあるが、距離的にはそんなに長くないので、私たちは何でもないねと大口をたたいて歩いていた。
また、この切通しには、大刀洗いの滝というのがあった。どうも梶原景時が千葉常広を斬った太刀を洗ったらしい。
朝比奈切通しの途中、熊野神社があった。どうも鎌倉幕府の鬼門に当たる所に頼朝が建立したらしい。鬼門は北東に当たるところで、よく丑三つ時と言われるように、夜の2時頃を指すらしい。
次に、朝比奈切通しをぬけて、バスで金沢八景駅に行く。そこから電車で一つ目の金沢文庫駅に行く。歩いて15分くらいの金沢文庫を目指す。でも残念ながら4時には閉館になってしまって、入れなかった。近代的な建物で、当時の面影は微塵もなかった。
ここに昔は金沢文庫があったんだな~と思いながら、裏に回ってみると、そこには称名寺という北条実時が建立したお寺に通じるトンネルがあった。そこもきれいに整備されていて、金沢八景という名のとおりこの辺の景勝の浮世絵が、トンネル内に埋め込まれていた。
この金沢文庫は金沢北条三代(北条実時・北条顕時・15代執権北条貞顕)が和漢の貴重書を納めた書庫である。日本最古の図書館とも言われていたと思う。
新田義貞が鎌倉を滅ぼした時(東勝寺合戦)に、この金沢文庫の本も奪われて、残ったものが称名寺に保管されていたとされる。貞顕たちは鎌倉の東勝寺で最期を迎えたという。
その新しいトンネルの横には昔からの通路がまだ残っていて、説明板があった。昔はこのトンネルだけが金沢文庫に通じる道(隧道・すいどう)であったという。もしかしたら実時は大切な貴重書をあまり目に触れないようにしていたのかもしれないと感じた。
称名寺庭園は別名「区民の憩いの場」とも言われ、その名のとおり家族連れの人たちがたくさんいた。
実時はここを浄土曼荼羅の構図を真似て造ったと書いてあった。平等院に似た作りで、池には大きな太鼓橋がかかり、優雅に鯉や亀、水鳥が泳いでいた。お寺や門の作りも見事で、古い格式が有り、荘厳な趣を兼ね備えていた。
この金沢の地をつくったとされる室町時代の13代執権の北条実時の像が置かれていた。その子どもの顕時らのお墓もあった。
帰りは金沢文庫から電車とバスで鎌倉駅に戻る。今回はあまり食事らしい食事はしなかったので、この鎌倉で食べようということになり、小町通りあたりを探索する。
いろいろ迷ったが、駅前のうどん蕎麦屋さんに決めて入る。それが思いのほか美味しい蕎麦で、注文の時に「そばアレルギーはありませんか」と聞くくらい濃度の強いそば粉を使っているらしい。私はたちまちファンになり、次回も是非食べたいと思ったほどだった。名前は確か「川古江家」。
江ノ電と小田急で町田まで来て、東急の下の「イタリアントマト」で、いつものようにウオーキングの振り返りをし、こんな風に歩けることにいたく感謝をして、帰ってくる。
25239歩 約15キロ歩いた計算になる。ホントかな~