wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

「鎌倉」の由来は藤原鎌足・朝比奈切通しなんてへっちゃらさ!

2012-10-28 16:33:25 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成24年10月27日(土) 
「風の群像」をやっと読み終えて、最後の方で直義が幽閉され、毒を盛られて自害する場面があったが、その場所が鎌倉の東側にある浄妙寺である。そこを訪ねたくて、また、鎌倉から朝比奈切通しを通って金沢八景に行く街道があって、昔は物資の流通に欠かせない街道であると何かに書いてあり、また、千ちゃんは昔から金沢文庫ってどんなところなのか気にかけていた事も相まって、今回も鎌倉ウォーキングを行った。

果たして鎌倉は裏切らないところである。

今回も、鎌倉までは小田急と江ノ電が使えるフリー切符を購入し、鎌倉ではまた、案内板のところにいるガイドさんを頼って、浄妙寺や朝比奈切通に行く最善の行き方を教えてもらう。さすがにガイドさんである。尊氏の祖父が開いたという竹寺でも有名な報国寺が近くにあることや鎌倉石(ほかの石より若干柔らかい)の発掘場所があって、その近くには馬頭観音が祭ってあるということも教えてくれた。でもこの馬頭観音は見つけることができなかったが。
でも、私が今興味を持っている関東管領の山内上杉氏と扇が谷上杉氏の地名がちょうどその地図に書いてあったので、その屋敷跡とかあるのかを聞いてみたら、あまりいい顔をしなかった。やっぱり誰にでも得意・不得意分野があるのでしょう。

では、順に説明していこう。

まずは、鎌倉からバスに乗って「報国寺」に行く。ここは尊氏の祖父足利家時が開いたお寺で、「竹の庭」の孟宗竹が見事であった。
また、ここでの発見は、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞らの戦いで亡くなった両軍の無縁仏をここで供養して弔っていることである。
      


次に行ったのは、私の行きたかった浄妙寺である。直義が幽閉されていたというこの境内にあったとされる延福寺は跡形もなかった。でも二人のお父さん(足利貞氏)の墓があったので、その時は二人で一緒にお葬式を上げたのであろう。格式あるお寺であった。
    


でも、浄妙寺では面白いものを発見した。題名にもなっている、「鎌足神社」である。
何と、大化の改新の立役者藤原鎌足が、東国に出兵した際、この由比ガ浜に泊まり、
夢のお告げで、鎌を埋めたということである。木造の藤原鎌足像が奉納してあり、鎌倉という地名はこの像に由来すると「鎌埋稲荷明神縁起」に書いてあるということである。ほー、「鎌倉」という地名は「鎌足」から変化してなったものなのか~驚いた。
  


朝比奈切通まで歩いている途中、石碑が目に付いた。なんとこの辺は足利公方(鎌倉公方)の屋敷があったところであるらしい。今は駐車場になっているが、昔は偉い方々が住んでられたところである。
   


明王院では千ちゃんがこの寺でできた梅をつけた梅干しを売っていたので買った。体力回復に梅干を食べたら、亡くなった母の味がした。
  


道なりに歩いていると、いよいよ朝比奈切通しに入った。
和田義盛の三男朝比奈義秀、この義秀は木曽義仲の奥さんで力が強かった巴御前を母にもつとされる大男にして力持ちで、この朝比奈切通しを一日にして作ったという伝説を持っている。その太刀を洗ったとされる滝もあった。説明板には、この切通しは切通しの中でも一番険しくて大変だと書いてあったが、実は私たちは一ヶ月前くらいに「甲州街道の小仏峠」に行っていて、それに比べたらこの切通し確かに険しいところもあるが、距離的にはそんなに長くないので、私たちは何でもないねと大口をたたいて歩いていた。

また、この切通しには、大刀洗いの滝というのがあった。どうも梶原景時が千葉常広を斬った太刀を洗ったらしい。

         


朝比奈切通しの途中、熊野神社があった。どうも鎌倉幕府の鬼門に当たる所に頼朝が建立したらしい。鬼門は北東に当たるところで、よく丑三つ時と言われるように、夜の2時頃を指すらしい。
   


次に、朝比奈切通しをぬけて、バスで金沢八景駅に行く。そこから電車で一つ目の金沢文庫駅に行く。歩いて15分くらいの金沢文庫を目指す。でも残念ながら4時には閉館になってしまって、入れなかった。近代的な建物で、当時の面影は微塵もなかった。
 


ここに昔は金沢文庫があったんだな~と思いながら、裏に回ってみると、そこには称名寺という北条実時が建立したお寺に通じるトンネルがあった。そこもきれいに整備されていて、金沢八景という名のとおりこの辺の景勝の浮世絵が、トンネル内に埋め込まれていた。

この金沢文庫は金沢北条三代(北条実時・北条顕時・15代執権北条貞顕)が和漢の貴重書を納めた書庫である。日本最古の図書館とも言われていたと思う。
新田義貞が鎌倉を滅ぼした時(東勝寺合戦)に、この金沢文庫の本も奪われて、残ったものが称名寺に保管されていたとされる。貞顕たちは鎌倉の東勝寺で最期を迎えたという。

その新しいトンネルの横には昔からの通路がまだ残っていて、説明板があった。昔はこのトンネルだけが金沢文庫に通じる道(隧道・すいどう)であったという。もしかしたら実時は大切な貴重書をあまり目に触れないようにしていたのかもしれないと感じた。
   


称名寺庭園は別名「区民の憩いの場」とも言われ、その名のとおり家族連れの人たちがたくさんいた。

実時はここを浄土曼荼羅の構図を真似て造ったと書いてあった。平等院に似た作りで、池には大きな太鼓橋がかかり、優雅に鯉や亀、水鳥が泳いでいた。お寺や門の作りも見事で、古い格式が有り、荘厳な趣を兼ね備えていた。
     


この金沢の地をつくったとされる室町時代の13代執権の北条実時の像が置かれていた。その子どもの顕時らのお墓もあった。
    


帰りは金沢文庫から電車とバスで鎌倉駅に戻る。今回はあまり食事らしい食事はしなかったので、この鎌倉で食べようということになり、小町通りあたりを探索する。
いろいろ迷ったが、駅前のうどん蕎麦屋さんに決めて入る。それが思いのほか美味しい蕎麦で、注文の時に「そばアレルギーはありませんか」と聞くくらい濃度の強いそば粉を使っているらしい。私はたちまちファンになり、次回も是非食べたいと思ったほどだった。名前は確か「川古江家」。

江ノ電と小田急で町田まで来て、東急の下の「イタリアントマト」で、いつものようにウオーキングの振り返りをし、こんな風に歩けることにいたく感謝をして、帰ってくる。
   
25239歩 約15キロ歩いた計算になる。ホントかな~








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悲劇のヒーロー 太田道灌の墓は二つある。

2012-10-14 13:52:55 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成24年10月14日(日)
神奈川県の伊勢原市に太田道灌の墓があると知って、行ってみた。

以前、皇居に行った時に、江戸城を築いたのは太田道灌だということが説明看板に書いてあり、たまたま丁度その頃に読んでいた本が「のぼうの城」で、その舞台である忍城の城主成田氏長の後妻である珠はこの太田道灌の曾孫の三楽斎の娘にあたるとあったので、何か繋がった気がしてこの太田道灌の名前は頭の奥深くに刻まれていた。

太田道灌は、1432年に生まれ1486年に非業の死を遂げた室町時代後期から戦国時代初頭に活躍した武将である。父親の太田資清(すけきよ)の時から扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)に使え、相模守護代を兼務し、事実上相模・武蔵の両国を支配していた。関東管領山内家の内紛を鎮め、その武名を高めた。1478年には今川家の家督問題の調停のために駿河へ出陣して、北条早雲にも出逢っている。また、文化人としても優れていて、将軍足利義政に諮問を受けるほどの和歌が達者であったという。

しかし、あまりにも活躍したことが、主君である上杉定正の反感を招き、上杉顕定の讒言(ざんげん)を聞き入れて、相模糟屋館で謀殺されてしまったということである。

一つの墓は上粕屋の洞昌院というところで、その近くには、暗殺された時に一緒になくなった七人の墓もあった。
   


その奥の広い荒野のところには関東管領上杉家の館があったそうで、今は産業大学が建っているが、もしかしたら、そこで太田道灌は殺られたのかもしれない。
   


もう一つの墓は、下糟屋の大慈寺で、江戸時代に書かれた「風土記」にもその様子が書かれているそうです。
 


その近くにあった丸山城址公園は、鎌倉時代は糟屋左衛門という人の居跡があり、中世時代はまさに太田道灌が活躍していた時代は、相模国守護である上杉氏の城である可能性が非常に高いということである。
        


また、その丸山城の敷地内に「高部屋神社」というのがあった。そこの拝殿は総欅造りで厚い茅葺き屋根、緻密な彫り物には浦島太郎と乙姫様や竜宮城という珍しい図柄が刻まれていた見事なものであった。時代を経て存在する風格を兼ね備えていた神社であった。そこにいた人が、「今日は道灌まつりだ」と教えてくれた。いつもは見られない銅鐘も見られた。平家を祖先に持つ平の某が奉納したらしい。
また、拝殿に掲げてある看板は「山岡鉄舟」が書いたとその年配の人が教えてくれた。
        


同じ人の墓が二つあるのは何だかおかしいが、もしかしたら昔の人は死んでなおかつ恨みを持って生き返らないように分けたのかもしれない。それほど殺したほうが恨まれるような非業な死であったのかもしれない。


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やっと「風の群像」を読み終わる。尊氏・直義(ただよし)仲の良かった兄弟が何故・・・

2012-10-01 14:51:50 | その他
平成24年10月1日 杉本苑子著「風の群像」(上下巻)を読み終える。
   


図書館の本で、リクエストがされていなかったのをいいことに、何度も返しては借りてを繰り返し、5ヶ月くらいかかっただろうか。その間違う本も読んでしまったりして。

たまたま、新聞にこの本の主人公である「足利尊氏」の顔はどんな顔?の記事があった。特徴はタレ目、丸い鼻、下ぶくれであるとされ、
  


この本を読んでいて、一番嬉しかったのは、淵辺義博が出てきたことである。
後醍醐天皇の皇子である護良親王を鎌倉の東光寺(現在の鎌倉宮)に幽閉したのは足利直義であり、手厚く扱ったが、北条が叛乱した時に護良親王を生かしておけなくなって、直義の命により、この淵辺義博が自害する護良親王を介錯した。

私の住んでいる淵野辺の地名はこの淵辺義博からとったもので、大きな沼があって、その淵に住んでいたからこういう名字をつけたのであろうが、淵野辺東の所には館跡もある。
  


また、私は、鎌倉にある護良親王が幽閉されていた鎌倉宮にも行ったことがあるし、尊氏と直義が戦ったさった峠にも上ったことがある。さった峠での戦いはこの本では書いてなかったが、直義が義詮と不和になり北陸の金ヶ崎にいく。尊氏は南朝にくだって直義追討令をもらい、攻める。直義は鎌倉を目指し、尊氏は東海道を東へ東へといき、やはり鎌倉入りを目指す。なぜ鎌倉を目指すのかそこのところはよく分からないが、その途中がさった峠である。北から直義軍、西からの尊氏軍で見(まみ)えたのだろう。

直義の養子になる直冬が子どもの時に住んでいた「宝戒寺」にも偶然にも行ったことがある。ちなみにここは北条代々の当主が住んでいたところで、新田義貞が鎌倉を攻め、北条が滅ぼされた時に、後醍醐天皇の命により北条の御霊を弔うために尊氏に建てさせたものである。



物語は、鎌倉時代末期の執権北条高時の時代から始まり、鎌倉が滅び、後醍醐天皇が建武の新政を起こし、南北朝時代になり、尊氏が征夷大将軍になって室町幕府が成立し、でも安定はせず、尊氏・義詮(よしあきら・尊氏の嫡男)・高師直(こうのもろなお)対直義・直冬(ただふゆ・尊氏の子どもでありながら認めてもらえず、直義の養子になる)らとの戦い、結局駿河のさった峠での戦い(でもこの本ではこのさった峠の戦いの様子は全く書いてなかった)で直義軍が負けて、鎌倉で和睦をするが、直義は自害し、数年後には尊氏も亡くなり、物語が終わる。

尊氏は死ぬ間際、兄弟や一緒に育った家来たちと由比ガ浜で貝を拾って遊んだことや鎌倉の里、大藏ヶ谷(おおくらがやつ)で集まり語って笑いあったことを想い出す。
天下を治めるためには、そして自分の子どもを守るためには、兄弟とて刃をむけなければならなかった、欺かなければならなかった、そんな時代。宿命といえば宿命だが、なんか切ない。


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