wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

江戸六地蔵尊 完了

2015-06-15 13:21:27 | 江戸六地蔵巡り
平成27年6月14日(日)  朝、少し雨が降っていたので、どうしようか迷ったが、前回延期したので、少々の雨ならと強行した今回のウォーキングだったが、強行して正解だった。結局は雨に当たらず、却って、日差しが出て、暑いくらいのウォーキングとなった。

今回は、前回六つのうちの四つの地蔵尊を拝顔しているので、残りの二つの地蔵尊とその近くにある、東海道を歩いていて時間が遅くなって入ることができなかった泉岳寺に行くことにした。

それに、千ちゃんが、「新宿歴史博物館」が太宗寺の近くにあることを調べてきてくれ、それがまた新宿の歴史が縄文の昔から現代まで、えらく細かく分かりやすく展示されていて、また、見学者が少ないものだから、私たちにたっぷり時間をかけ、学芸員さんが説明してくれて、興味深いたくさんの知識を知ることができた。

それでは、行った順に、説明していくことにする。

まずは、新宿御苑近くにあり、甲州街道の入口にある太宗寺。

   

甲州街道は日本橋から甲府までを結んだ街道で、第一の宿は高井戸宿で、日本橋から遠かったので、新しい宿、新宿が誕生したという。この宿場は現在の「新宿御苑」一帯にあった内藤家という大名の屋敷であった土地を、敷地としたため「内藤新宿」と呼ばれたという。
だからこの新宿に地蔵尊が建立している。また、この寺には閻魔様が祀られていて、子どものしつけとして、使われたと書かれていた。「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるぞ」的なことをこの怖い閻魔像を見せて、親の威厳を保ったのであろう。

内藤新宿の玄関口でもある「四谷大木戸」を通った。
  

全く昔の面影はない。碑があるだけである。
また、そこの近くには、江戸市中に上水道を送るための水番所があり、門番がいた。そして、ここから石樋や木樋の水道管を使って武家屋敷や町に水を送っていたとの説明板があり、驚いた。
 


次はこの内藤新宿のジオラマが展示してある「新宿歴史博物館」に歩いていく。
   

内藤新宿は、京都の方面から「上町」「仲町」「下町」となる、三つの町からなっていて、現在の新宿駅の方が上町となる。
宿場には高札場や問屋場が必ずある。問屋場というのは、何かを卸す問屋ではなく、馬とかかごとか人足とかを手配するところだそうだ。

また、富士山が世界遺産に登録されて見直されたのが、山岳信仰の一つの「富士講」「富士塚」という行いで、「講」というのはグループということで、一年に一回、山開きに代表が富士山を拝みに行っているという。女子供は富士にかたどった小高い塚を代わりに登るらしい。それでご利益を得るらしい。それの発祥の地が新宿なのだという。

細かいことを教えてもらったので、箇条書きにして残しておく。
・「落合」というところで、縄文時代(5000年前位)の横穴式墓地が見つかった。新宿 に縄文人が住んでいた
・骨はだいたい100年で、風化してしまうが、貝殻の成分はその風化を妨げることが できるらしい
・その落合は、風光明媚で、なぜそれが広まったかというと、「望月帳」という日本で 初めての名所案内本を四方赤良(蜀山人)が出したから
・色付きが錦絵、白黒が浮世絵
・田辺茂一、紀伊国屋創始者
・林芙美子の豪邸が落合にある
・坪内逍遥は二葉亭四迷と親友だった。彼にはかなわないとイギリスに留学し、シェー クスピア劇場を作る
・大久保百人組のパレードが9月にあり、火縄銃を空打ちする
・中村屋はアンパンで儲かったが、娘の旦那さんがインド人で、それでカレーを販売し て、当たった。
・小泉八雲、ギリシャ人で帰化、右向きの写真が多い。左目が悪いかららしい
等々、新宿はまだまだ面白いことが、発見されそうだ。

次に、新宿の駅方面まで歩き、中村屋の12階でバイキングを食す。 

バスで、泉岳寺へ。バス停留所からの道がわからなかったけど、ホント今は便利。スマホのマップを利用して、近道を教えてもらって、無事泉岳寺へ。
赤穂浪士46人の墓があり、一人は後から加えた感じになっていて、大石主税の墓石には線香の煙が手向けられていた。
吉良こうづのすけの首を洗ったという井戸もあった。
        

この寺には、関ヶ原で功績のあった「竹中重門」の墓があるそうで、聞いてみたが細かいことは教えてくれなかった。

歩いて、品川宿に行く。そして東海道の入口にある品川寺(ほんせんじ)の地蔵尊を拝みに行く。そこで六ヶ所全て拝んだことになり、ご利益もあるのではと、頑張る。

品川宿を歩いていると、今大河ドラマで脚光を浴びている「久坂玄瑞」が使った宿があったり、新選組の「久方歳三」が寄っていたりと、また、江川太郎左衛門がこの辺に台場を作っていたりと、なかなか面白いところだなと感じた。
     

品川寺、これで「ほんせんじ」と読む。意外と道のりがあって、なかなか着かなかった。5時過ぎてしまい、本来は締まって拝むことも記帳もダメなんだけど、特別に開けてくれ、拝むことができた。
    


今回はだいぶ歩いた感じがする。
約26000歩(15キロ位)だった。

いつもながら、こうやって歩けることに感謝して、筆を置くことにする。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸六地蔵参りに挑戦

2015-04-18 18:46:03 | 江戸六地蔵巡り
平成27年4月18日(土)久しぶりの晴天で、気持ちよい風の中、六街道の起点にあるお地蔵様を拝みに行ってきました。

そして、今回から「御朱印帳」(お寺の場合は正確には、御経印帳というそうである)を記載してもらおうと、巣鴨で買ってから地蔵様を拝した。

地蔵坊正元という人が24歳の時に大病を患って、親御さんと共に一心不乱に地蔵菩薩に祈ったら、奇跡的に回復したということから、修行の旅の際立ち寄った京都では、街道口に地蔵を建立して、祀っているのを見て、江戸の街道口にも六地蔵を建立しようと考え、
六地蔵が建立された。

まずは、巣鴨駅近くの「眞性寺(しんしょうじ)」
中山道を行き交う人々や地域のお人々の願いがお地蔵様に込められてきているという。
とげ抜き地蔵の近くにあった。
     

次に、山手線を右回りに回った感じで行って、「東禅寺」
奥州街道の入口にあたる。
浅草駅よりバスに乗って、東浅草バス停で下車。そこには木村屋のパンの元祖様がこの辺に住んでいて、そのお二人の銅像が、地蔵様と一緒に建立されていた。
     


次に、清澄白河駅の近くの、「霊厳寺」。これは水戸街道の入口である。
ここは、実は、一度来ていて、行ってみて気がついた。
深川の芭蕉の「奥の細道」の出立の地ということで、この近くまで来た時に、この霊厳寺に来ているのである。
このお寺には「徳川定信」(吉宗の孫)のお墓もあった。
      


この日の最後は門前仲町駅の近くの「永代寺」千葉街道の入口だということである。
だからか、成田山の鳥居があった。
霊厳寺からは歩いて30分位の位置にある。ここには、明治時代の廃仏毀釈により、地蔵様はもう現存していなくて、納経印は頂けるということで行く。
ここでも、行ってみて、前に来ていたことを思い出した。
  

13928歩、約8、3キロ歩いた。
あと二つの地蔵様は、次回にすることにした。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする