wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

伊豆の魅力、再発見

2018-08-26 16:59:41 | 旅行記
平成30年8月25日(土)、26日(日)と、職場の仲間20人と伊豆へ行ってきた。

修善寺を通り、河津の方へ。バスの中では、通り過ぎる修善寺のことを少し説明したり、次に見学する「浄蓮の滝」の雰囲気を少しでも実感して欲しくて、石川さゆりの「天城越え」をみんなで何度か熱唱したりしながら行く。

ちなみに、修善寺は正岡子規が「この里は 悲しき二つのことがあり 範頼の墓と頼家の墓と」と、詠んでいる。
源頼朝の弟の範頼。兄に忠実に従っていたのに、嫌疑をかけられ修善寺に幽閉される。将軍二代目の頼家。体を壊して、息子の一幡に職を譲ろうとするが、北条時政が一幡の母方の比企氏が台頭するのを恐れ、比企氏を謀殺する。怒った頼家が時政を討とうとするが時はすでに遅し、和田義盛らに声をかけるが、兵は集まらず、反対にやられるのを恐れる北条政子は頼家をこの修善寺に閉じ込める。が、何か月後かに入浴中に殺されてしまう。源氏が三代で終焉してしまう悲しい出来事の数々である。

河津といえば「わさび丼」。昼食に食したかったが、残念ながら大きなバスを停めるような所ではそういうものは出していないということで、普通の定食を食べる。
その後、その食したサービスエリアから、浄蓮の滝まで、10分ほど下る。
      


次に「河津七滝」(かわずななだる)を歩く。川のそばを歩くので、思いの外涼しく、マイナスイオンもたくさん浴びながら歩く。滝のことを「だる」と言うのも初めて知る。
                 

途中、「大岩成就」なるものがあり、願い事をしながら小石を投げ、かごに入ったら成就できるというのでやってみたが、完敗。

次に、「ループ橋」なるものをバスで通ってきた。以前「ブラタモリ」でやっていた、この伊豆の地形は段差が大きいので、それを埋めてつなげるために、ループにしたと。先人の知恵にすごいなと感心していたので、ぜひとも通ってみたいと思い、今回無理して走ってもらった。なるほどすごいと、感嘆した。

ホテルの食事でみんながおいしいと言っていたのは、生アワビの蒸し焼き。まことに美味しかった。蒸すと身も柔らかくなるんだなー。

夜は、伊東の花火。
  


次の日は、「伊豆山神社」へ行く。急な170もの階段を上って社に行く。頼朝と政子が寄り添って座ったという石の椅子があったり、頼朝が亡くなって一周忌に政子は自分の髪を曼荼羅に込めて一緒に織ったものが、資料館ではレプリカが展示してあったり、高麗神社から送られた、触るとご利益があるという「パワースポットの石」があったりと、なかなか由緒あるところだ。昨日もだいぶ歩かせたが、今日も170段もの階段を上り下りさせてしまった。みんな疲れたことだろう。
        


帰る途中に、「石橋山」の地名があり、ここは、源氏の源頼朝が初めて平氏に対して戦いを臨んで、負けた戦いである。その戦いでは、杉山に潜んでいた頼朝が、梶山某に助けられたエピソードが有名である。
真鶴から安房に逃れ、そこで待ち受けていた時政と「いざ鎌倉」と兵を挙げ、鎌倉幕府を立ち上げる。
安房の村人に良くしてもらった頼朝が、「もし天下を取ったら、安房一国をあげよう」と言ったら、穀物の粟と勘違いした村人は、「粟なら畑でとれるから、その代わり、苗字が欲しい」といい、それを聞いた頼朝は、欲がないなと思い、「そうか、ばかだな」と言った。村人はそれも勘違いして、「そうか」さんと「まか」さんができたということだ。

この旅行のネーミングを考えた。
「たくさん歩いて 足が疲れた 伊東旅行」
次の日に職場のみんなに報告するのに、「たくさん歩きすぎて、のどが痛い私です。」と、笑いをとった。

滝の散策は思いのほか好評だった。みんなが笑顔になれた旅行であった。感謝感謝!
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相馬野馬追、戦国絵巻、見事なり

2018-08-01 05:05:56 | 旅行記
平成30年7月28日(土)、29日(日)、主人が予てから行きたがっていた「相馬野馬追」へ行ってきた。

それというのも、主人の祖父は、福島の郡山の生まれで、結婚してから、北海道の江差という所に開拓に行った人で、自分の裏山に、相馬の「中村神社」の分社を建てたということだ。義母は新婚旅行に、祖父からぜひ行ってこいと言われ、その中村神社に行ったと話していた。

何か月も前に、「戦国絵巻、相馬野馬追と会津名所めぐり」という丁度いいツアーがあり、会津には4,5年前に職員旅行に行ったことがあったが、それはそれとして、参加した。

1日目は会津名所めぐりで、最初に、下野街道の「大内宿」に行った。お殿様が参勤交代の時に利用したという。ここでは、とちもち(ドングリをつぶして餅にしたもの)を食べたり、古代米のおむすびを食べたりと、昔の食べ物を食べてみた。
             

次に、「会津鶴ヶ城」、丁度幕末の戊辰戦争や白虎隊のことが展示していた。
1866年第2次長州征伐から
1867年大政奉還、
1868年鳥羽伏見の戦い、そこで徳川慶喜や松平容保(かたもり)は江戸に逃げ、江戸城が開城され、会津戦争とつながる。白河城や二本松城が落城し、飯盛山での白虎隊の自刃になる。
        

白虎隊が自刃した「飯盛山」へ行く。
自刃の際に一人生き残った人の墓や、イタリアのムッソリーニーはこの白虎隊の話に感動して、大きな塔が贈られたという。また、会津の武士の奥さんは、夫が出兵する際に夫が気兼ねなく戦えるように、負けて辱めを受けないように、自刃する。家老の西郷頼母の家でもそのようなことが起きていて、でも一人の娘さんが死にきれずに息をしていた時に、敵の武将がきて、殺してもらったという逸話もある。その武将はその後政治家になって、国会でその話をして、それ以来、同じ日本人同士が殺し合うという不幸な出来事は起きていない。
会津には、黒い看板のセブンイレブンがあった。どうも「景観条例」なるもので、観光地や指定されたところでは、派手な景観は罰せられることがあるとか。かえって目立った感じであったが。
             

2日目に念願だった「相馬野馬追」へ。
馬追の由来は、相馬家の祖といわれる「平将門」は一千年前の昔、新しい軍事力として馬の活用を考えて、「牧」(馬の放牧場)で野生の馬を放牧し、野馬を敵兵に見立て野馬を追い、馬を捕らえる軍事訓練として、また、捕らえた馬を神前に奉じたお祭りとして行ったのが、この相馬野馬追の始まりという。その後、1323年相馬氏はこの南相馬市に移り住んでからも、代々の相馬領主が、明治維新までこの行事を連綿と続けたことが今日までつながったという。

西に進むという前代未聞の台風12号が通り過ぎたので、雨は大丈夫かと思ったが、何度も通り雨が降っては止み、降っては止みを繰り返し、合羽を着たり脱いだりを繰り返した観戦であった。
     

一人一人が甲冑を付け、馬を操り、騎馬武者たちが勇猛果敢な戦国絵巻を見せてくれた。

甲冑競馬では、神太鼓が鳴り響くと、兜を脱ぎ白鉢巻きを締めた若武者が、先祖伝来の旗指し物をなびかせて人馬一体となり走り抜けっていった。10レースがあってその都度、1着から3着までの武者にはお札が渡され、それを持ってお山の上まで駆け上る。殿さまに報告する感じで、昔からこんな風だったんだなと実感できた。
  

神旗争奪戦では、騎馬武者たちが雲雀が原一面に広がる中、天高く打ち上げられた花火からゆっくり出てきた御神旗を数百騎の騎馬武者がこの旗を目指して群がり奪い合う。そして、旗を勝ち取った騎馬武者は、会場に紹介されて、小丘を駆け上がる。その際観客は拍手喝さいを送る。

古式ゆかしい伝統行事が観戦できて楽しかったが、とにかく人が多い。これを見に、全国各地から集まっているようだ。原発事故による休止が続いていたので、福島を応援するためにも毎年賑わってほしいと思った。帰り道の常磐自動車道脇には、まだ黒く覆われた残土が所々にあったので。



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