wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

 今日鎌倉へ 行ってきました~

2013-02-23 15:48:57 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成25年2月16日(土) 
ウォーキングには最高の日和の中、さだまさしさんの歌にあるような鎌倉に行くことにした。

頼朝の像が源氏山の頂上にたっているのを、十何年か前に行った時に覚えていて、もう一度見たいということで、それなら北鎌倉から東慶寺をまわり、源氏山に上り、ハイキングコースを歩いて大仏・長谷寺・鎌倉文学館を回る計画をした。

このハイキングコースは大人気のコースで、途中杖を持って歩いていた方がいて、一見大変そうかなと思ったが、全くそんなことはなく、何とその方がこのコースのガイドさんで、今もガイドの帰りだと話して、鎌倉で最も歩く人が多いコースだと教えてくれた。

その方に源氏山の一番高いところに、「天柱峰」と彫ってある碑が立っているところで、ここは禅宗の発祥の地で、元から来た僧侶が毎日ここで禅をくみ、祈ったところなのだと教えてもらった。
鎌倉には禅宗のお寺が多いのもこういうことなのかと思った。
 


まず始めに、北鎌倉駅を降りて、そこから東慶寺に行く。よく「縁切り寺」といわれているところである。
    


そこで一番驚いたことは、秀頼に子どもが二人もいたということである。
東慶寺に「豊臣家の最後の姫」(三池純正著)という本が展示してあり、思わず手に取り、しばらくその本を二人で読んでしまったのだが、その中に、千姫ではなく、お石の方とかいう側室に産ませた子らがいて、男の子は殺されてしまったが、女の子はこの東慶寺で、天秀尼(てんしゅうに)という尼さんになって、生き延びていたのである。
そして何とこの寺に連れてきたのが、忍城(現在の埼玉にある)城主の娘であの「のぼうの城」でも出てきた甲斐姫であるという。確か甲斐姫はあの戦いに負けて、秀吉の側室に差し出されるのだ。まんざらゼロということはないだろうと考えられる。それにこのお石は武州(埼玉あたり)出身とあったからなおさらである。
  


東慶寺では、仏像展が開いていて、そこでは「水月観音さま」が展示してあった。
この観音様は、右肘を岩にもたれかけ、脚をくずしてリラックスして岩の上に座り、水面をじーと見つめて、悟りをひらいているという姿であった。こういう姿勢は、京都には見られず、この鎌倉のみであるということである。それはこの鎌倉がそれを受け入れるだけのおおらかさを持っているからだと解説していた。なるほど。
 


この東慶寺では、面白い昔の資料が展示してあった。それは、こういう尼寺は代官所的趣があり、年間8十数件の夫婦間の訴え事案の話し合いをされていたということである。その解決を図っていたのが、「遠山の金さん」のモデルになった人だというから驚きである。その具体的な様子が書いてあって、妻からの訴えで、旦那さんがお酒を飲んで借金をこさえ、その借金の末に奥さんを売ったというのもあった。

夏目漱石が円覚寺で座禅を組んでいて、そのことを本に書いていることが、碑になっていた。
  


風が冷たく、やはり海に面しているかなと思いながら東慶寺をあとにした。
浄智寺からハイキングコースに入る。
  


木の根がむき出しになっていて、それにより滑り止めの役割となって、上り坂も無難に歩くことができた。
源氏山の頼朝像に行く途中に、葛原岡神社がある。そこは、昔処刑場であったということを聞いたことがある。日野俊基が処刑され神社で祀られていた。
     


いよいよ、頼朝像との対面であるが、その前に分かれ道があり、この道は、昔の幹線道路で、仮粧坂と呼ばれている。鎌倉方面から武蔵に抜ける道であった。かなり急な道である。
そこに昔、遊女がいてその遊女の家に、梶原景時の長男の景季と曽我兄弟の弟の五郎が通っていたという話が残っているらしい。読んだ本「曽我兄弟の密命」では弟は潔癖で女なんて引き寄せない感じに書いてあったが・・・
  


そこから源氏山公園に行き、頼朝像を見た。頼朝が幕府を開いてから800年を記念して作られた像であるらしい。なかなかどっしりと構え、凛々しいお姿であった。
  


この道を少し行くと、銭洗い弁天につく。意外と近いのに驚く。もうお金は増えなくてもいいかなと思い、そこは入らずに進む。
  


そのまま道なりに歩くと、高徳院の大仏に行く。むかーしに行った時には、入館料を取らなかったと思ったが、今はちゃんと取っている。趣も変わっていたので、久しぶりに中に入って見学する。中は、外国の方がほとんどだというくらい、外国語が飛び交っていた。
この鎌倉大仏は、頼朝の侍女であったといわれる稲多野局が発願して、お寺が勧進(資金集め)して造ったと、そこで買った「大仏」の冊子に書いてあった。奈良時代かと思ったが、鎌倉時代なんだと驚いた。
  


近くの長谷寺の長谷観音を見たくなり行く。ここは昔、水子地蔵がたくさん祀ってあったが、今はきれいに整備されていた。寒いので、甘酒を飲んで、綺麗な景色を眺めた。弁天洞窟といって、洞窟の中にたくさんの弁天様や観音様が祀られていたのが、斬新だった。

また、長谷寺には最近ちょっと評判になった「地獄と極楽」という本が売っていた。ある漫画家が子どもにこの本を読んであげたら、いい子になったとか。買うかどうか迷ったが、もう手遅れかと思い買わなかった。
       


最後に、鎌倉文学館へ行く。この屋敷は、いまテレビでやっている「カラマーゾフの兄弟」で使われていた。それに、庭や敷地でロケも行われていて、テレビで見て「ここで撮ったんだな~」と納得しながら見ることができた。
庭園はバラで有名である。
有名な作家たちが、ここで滞在していたらしい。三島由紀夫は「春の雪」という本で、ここでのことを書いている。ほかに、鎌倉に関連する作家たちがペンクラブとして、この鎌倉を中心に活躍した。芥川龍之介・川端康成・大仏次郎・小林秀雄等の経歴が展示してあった。
    


この鎌倉文学館では「ミステリー作家翻訳家展」もやっていて、斎藤栄さんは鎌倉を舞台にしたミステリー小説を多く書いていることがわかった。早速帰ってすぐに図書館にリクエストしてしまった。
時間を費やしてしまったので、建長寺や円覚寺は次回ということになった。

帰りに江ノ電に乗るために歩いていると、「盛久」という平盛久が由比ガ浜で処刑されそうになって、頼朝が助命したという、有名な謡曲の舞台になった場所の看板があった。
    


鎌倉駅に着いて、以前来た時に美味しいうどん屋さんがあったから、そこに入ろうと思ったが、運悪く貸切になるという。そこで近くのラーメン屋さんに入る。店主一人で無愛想だったけど、味は良かった。

今回も十分に堪能した。
このウオーキングの振り返りを駅の近くの「サンマルク」(実はここは千ちゃんのお気に入りの場所で、落ち着いた雰囲気で居心地がいい)でしてから帰った。

そこでは、今日の一日の歩いた経路や主だった史跡を振り返りもしたが、何だか話が鎌倉公方のことになって盛り上がったが、なんせ疲れた体と頭には理解度が低くなったので、話を打ち切り、次回ということで帰路についた。

ほんと、こうやって歴史探索や歴史談議できることに幸せを感じるし、感謝もする。
   
  18704歩 約9キロくらい歩いたことになるのかな。



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山と海が隣接している景勝地 熱海

2013-02-11 20:50:12 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成25年2月9・10日と熱海に行ってきました。

熱海は、頼朝が三所詣の一つとして「伊豆山神社」に毎年詣でていたということを知り、この夏に行ったが、それ以来である。

熱海は、坂の多いところである。海と山が隣接していて、ホテルや民家は、山の斜面を利用して建っていた。だから、ホテルも少し高く上がれば海が見えて、それはもう絶景が広がる。そういえば、ホテルの窓から、朝の日の出のオーシャンビューは見事であった。
   


まず始めに、来宮神社(きのみやじんじゃ)に行く。
ここには御神木として樹齢二千年という大楠があり、パワースポットになっている。
「不老長寿」「無病息災」の象徴とされ、二千年の長寿にあやかろうとする願いから、大樟(おおくすのき)を一周すると「寿命が一年延びる」と信じられ、願い事がある場合は、願い事を心に秘め幹を一周すると願いが叶うと言い伝えられている。
    


次に、有名な「熱海梅園」に行く。
梅はまだ三分咲きくらいであったが、天気が良く日差しを浴びて、ほのかな匂いを漂わせ
ていた。
   


韓国庭園もあった。

   


滝の裏側が見られる「裏見の滝」も造られていた。


起雲閣(きうんかく)という多くの文豪たちが執筆のために利用した旅館に行ってきた。
中でも、太宰治が山崎富栄と自殺する2・3日前にこの旅館に滞在したと書いてあったのには驚いた。
かつて私は、鎌倉の満福寺に行ったとき、近くの小動(こゆるぎ)岬で太宰治が入水自殺未遂をしたところであると知って驚いたことがある。変なつながりである。
            


最後に、福福のお湯に手をつけて帰ってきた。温かいお湯につけると幸せな気分になり、ご利益があるという。
 


いつもながら思うことは、こうやってわいわいがやがやと騒いで、飲んで食べて親交を深め、その上に好きな歴史に触れられることに、この上ない幸せを感じる。


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「清洲会議」三谷幸喜著 とても面白く読みました。

2013-02-02 17:56:08 | その他
この「清須会議」三谷幸喜著は、現代語で書かれていて、歴史初心者にはとても分かりやすい本だと思います。


この表紙を見た子どもたちは、鎧の前で武士たちが会合し、その一人がスマートフォンを耳に当てて何やら話している、そんな光景に、いたく喜んでいたっけ。

物語は燃え盛る本能寺の本堂で、煙に巻かれながら過去を回想している信長から始まり、秀吉が事実上信長の跡目になっていった清洲会議が終了し、各領地に戻っていくところで終わります。

その間、各登場人物のそれぞれの思惑が現代語で分かりやすく述懐形式で書かれています。

会議の最後に遺領配分で決まった場所がよくわからなかったので、インターネットで探したら、昔の日本の国の地名と場所を分かりやすく書いてあるブログを発見。思わず貼り付けました。

美濃国  岐阜城があり三法師が住む 後見人の織田信孝(信長三男)  信忠の遺領

尾張国  清須城がある          織田信雄(信長次男) 信忠の遺領

山城一国 丹波国             豊臣秀吉  信忠の遺領

近江長浜 秀吉の領地だった      柴田勝家  一部は光秀の遺領 

摂津国                   池田恒興  信長の遺領

近江高島                  丹羽長秀  一部は光秀の遺領

佐和山  丹羽の領地だった       堀 秀政

伊賀国                    織田信包(信長弟)


ちなみに、三法師様は、信長の長男の信忠と妻の武田信玄の娘松姫様の長男である。

そして、この三法師様は、後日織田秀信と名前を改め、岐阜13万石の当主になって、
秀吉の命で、朝鮮出兵にも行っている。

ただ、関ヶ原では西軍についたため、解役になり、高野山に追放されている。
これは、秀吉の子飼いの武将であったが、石田三成憎しから家康に味方した福島正則が、「私の功は秀信に与えてくれ」と助命嘆願したことから命だけは助かったという。

最終的には高野山からも追放され(僧呂を切ったとか?)、病死か餓死かは分らないが、26歳の若さで亡くなっている
2歳の乳飲み子が秀吉に利用されて、数奇な人生である。

また、疑問に思ったのは、ほんとにお市の方は、秀吉を毛嫌いしていて、そのことで柴田勝家のところに、お嫁にいったのかということ。実際浅井を打ったのは兄信長であり、秀吉はその命令に従ったまでのことだと思うが。
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