wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

東国三社と忍城の旅

2011-08-13 09:28:46 | 旅行記

平成23年8月7日(日)  今年の夏の旅行は主人の希望で東国三社めぐりと私の希望で「のぼうの城」の舞台であったさきたま古墳周辺、それに、かって、もしツアーでやっていた「袋田の滝」もそこまで行くなら行こうということで計画実行した。
 
まずは千葉県の香取神社を目指して、朝の6時、主人がいつも仕事で使っている軽の四駆の車で家を出る。台風が来ていたとはいうものの、雲を全部押し上げたのか、天気は快晴。実はこの車、あまりエアコンが効かない。エアコンは入れてはいるが、窓を全開にして、風をビュンビュン受けての走行であった。それが後々とんでもないことになるとは、今は知るよしもなかった。

町田インターから高速に入り、カーナビを頼りに首都高の分かれ道が幾方向にもある分かりづらい道を潜り抜け、時間通り9時ごろ無事に佐原香取を出た。霞ヶ浦周辺は水路が縦横に伸びていて、ずっーと平らな水田が続く豊かな田園地帯だった。中には稲穂が十分に垂れていて、収穫間際のものもあった。初めてこの地に足を踏み入れたが、こんな豊かな土地とは驚きだ。かって行ったことのある佐賀県でも同じ感想を持ったことを思い出した。

香取神社は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)が祭られている。この大神は、天照大神の命を受けて、この東国開拓の大業を果たされた建国の大功神とされている。水戸光圀公が参宮した跡が残っていたり、御神木である樹齢千余年とされる杉の木があったり、さし石(昔若者たちが力比べをした際に持ち上げた石)に名前を刻まれて奉納してあったり、要石として、この地方はもともと地震が多くてこれを鎮めるために(大鯰を抑えると考えた)石棒を地中深くさし込んで、その頭尾を示した石があったりと、うっそうとした木々に囲まれ静寂な神社であった。
     

千葉県立中央博物館大利根分館ではこういうことが書いてあった。「香取の人々は山野で狩りをし、海辺で漁をしていましたが、今から約1000年~1500年ほど前、強大な大和朝廷の勢力が関東に入り、香取の海を中心にして沿岸一帯に新しい農業文化をこの地方に開きました。この関東開拓の有力な祖神を祭ったのが香取神社と鹿島神宮である」と。また、日本書紀(奈良時代の歴史書)には香取・鹿島の神の神話が書いてあり、当時すでに東国の古社として、人々の信仰を集めていたのが分かると書いてあった。
また、源頼朝の寄進状が展示してあって、願い事がかなった頼朝は、香取神宮社領として下福田郷を寄付したとも書いてあった。

この地がなかなか由緒ある地だと分かって、車を走らせている途中、悲劇は起こった。

その前から、バッテリーのランプがついていて何だかおかしいなーとは思っていたが、信号で止まったその時、突然エンジンがストップ。うんともすんとも言わず、動かなくなってしまった。道路の真ん中なので、あせりながらも、私が運転席に座ってハンドルを握り、主人が車を後ろから押して、まずは車を歩道に移動させた。そして、まず入っている保険会社に連絡して修理やさんを探してもらう。住んでいる所と違う旅先でのこと、どこにいるか場所の説明が出来ない。目立ったものといったらJAの建物に「水郷潮来の活け造り」と大きく表示してあって、思わずそんなことを言っては見たものの、通じていなかったようだ。そして何とか地元の修理屋さんと連絡が取れ、来てくれることに。でも、何しろこの暑さである。道路の脇には水路が流れているものの、涼は取れず、ドアを開け少しでも風に当たりながら、今思うと何を話していたか思い出せない位ボーとしていた。

やっと来て、機械と取り付けて、エンジンをかけて、「やったーかかったー」という間もなく、またストップ。どうもバッテリーだけではなくその他の電気系統が悪いようである。車を整備工場のほうへ運ばなければならない。それにすぐには直らず、2・3日はかかるということである。これから先どうすればいいのか。それに、この車は四駆だから今来たレッカー車では運べないので、違うのを持って来なければいけない。まだまだ時間がかかる。結局、何やかやとこの場所を動けたのは、4時間後であった。

当初、旅行はあやぶられたが、結局、部品が月曜日に入れば火曜日9日には渡せるということなので、一日なら何とか延ばせるということで、レンタカーを借りて旅行は続行することにした。潮来駅まで送ってもらい、潮来駅にはあまり需要がないのかレンタカーを貸してくれるところはなく、電車も一時間に一本という不便なところであった。日本レンタカーに連絡したが、車が出払ってないということで、途方にくれたが、困っていたのが通じたのか、トヨタレンタカーの電話を教えてくれて、そちらに電話したら、OKの連絡。タクシーで3千円のところにあった、レンタカーやさんで車を借りて、旅行は続行できた。経費は2日間で14千円。それにガソリン代がかる。後で精算ということで、まあ仕方ないか。

不幸中の幸いは、思いのほかこの借りた車の乗り心地がいい。トヨタのビッツである。乗ってきた車が、エアコンがあまり効かないこともあって、この猛暑の中でのドライブはやはり車の中に入れば涼しめるという安心感が必要である。

また、この潮来で気がついたことは、車で走っていると段差が多く感じられた。また、道路の端の方はアスフャルトが割れて、下の土がむき出しになっているところも多くあった。まだまだ地震の影響があるんだなーと感じられ、この辺は液状化現象が進んでいると思った。

それでは、いよいよ鹿島神宮へ旅行を続行しよう。
この鹿島神宮は、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)を祭っている神社である。御神体は雷ということで稲光が模様にされていた大きな丸いお皿のようなものが重要文化財のよう門の左右に掲げてあった。

香取神社と同じように、天照大神から命を受けて、東国の国家統一の大業を果たされたということである。神宮というだけあって、とても規模が大きい。うっそうとした森の中に本殿(秀忠が奉納した)や奥宮(家康が奉納したもの)・鹿園(かっては鹿が棲息していた)・要石(香取神社と同じく地震を治めるための霊石・水戸黄門仁徳録に、七日七夜掘っても掘りきれずとある)などがあった。
また、松尾芭蕉が1687年鹿島詣で詠んだ「此の松の実生えせし代や神の秋」の句碑や「枯枝に鴉のとまりけり秋の暮」の句碑、小林一茶の「大地震(おおなゑ)にびくともせぬや松の花」の句碑もあり、この辺はやはり由緒ある土地で有名な人が訪れているのだなーと分かった。

途中鹿島スタジアムをわきを通って、今日の宿屋で常陸太田にあるビジネスホテルに直行する。明日行く袋田の滝の途中にあるところに予約してくれた。思ったよりにぎやかなところで、大きいスーパーはあるし、飲食店も多い。夕飯はスーパーで買ってホテルで食べて、お江をみて、ゆっくりと休む。

袋田の滝は日本三名瀑の一つ、別名「四度の滝」とも呼ばれている。四段に落下するからこう呼ばれているという説と、西行法師(平安時代の歌人)はこの滝を見て感嘆し、「これは季節のたびことに見なければ真の風趣は極められない」として季節の移るたびに訪れたからという説がある。なるほど、わたしも西行法師ではないが、この滝は季節ごとに違う趣を醸し出すように感じて、秋や冬にまた見てみたいと感じた。
      

次に行ったが、栃木県の宇都宮にある大谷石の採掘場である。でも、ここも地震の影響で中を見学するのは危ないということでしばらくは休館になっていた。よく見かける大谷石の塀があるが、その色の大きな小高い山もしくは岩みたいなものがそこかしこにあった。
   

ここから今度は埼玉県行田市のさきたま古墳辺りに移動である。本来なら帰り道の途中によるという感じだったが、直った車をとりに潮来の方に来なければいけない。まあゆっくり、行こう。でも、今日は月曜日博物館は休館日。残念。忍城の細かい資料は見ることはできなかった。でも、大満足。
まずは、さきたま古墳群へ。行くとすぐに「世界遺産に登録しよう」の大弾幕があった。ついこの間、小笠原列島の登録が決まったばかりで、いろいろなところが運動しているのだなーと思った。古墳が多く集まるこの場所は、広く平らな地形で川や用水路がいたる所にあって、水が豊かで水田が多く豊かな田園地帯であると感じた。
          

その中にあって、日本最大の円墳である丸墓山古墳は、石田三成が忍城を攻めた時に頂上に本陣を置いた場所である。上まで上ったら、遠くに忍城が見えた。見晴らしは良いから、水攻めにした様子をこの場所で見ていたのであろう。でも、見た感じは広く平らで、思ったよりすり鉢状でないので、水攻めにするには、とてもたくさんの水が必要になるんではないかなーと感じた。川がそのまま流れてくるような。でも結局は、本陣があるほうが土地が低くて、こちらにたくさん水がたまってしまったから、決壊して、この水攻めは失敗に終わったということである。見て納得がいった。この古墳群の中にも石田堤防跡があったが、古墳に続く道になっていた。

さきたま古墳から車で10分くらいのところに、石田堤碑と公園があった。なるほど、土が盛り上がっていて、堤防のようであった。三成は自然堤防や微高地を巧みにつなぎ合わせ、全長28キロメートルにも及ぶ堤を作ったとされている。ここに残っている堤防も自然堤防の上に1~2メートルの土を積んだものと書いてあった。がこの程度でほんと水は防げるのかと少し疑問には思った。公園には、秀吉の小田原攻めのときの様子がこと細かく書いてあって、「最後に残ったのは小田原本城と韮山城・岩付(岩槻市)・鉢形(寄居町)・八王子・忍(行田市)・津久井城を残すのみとなった」と書いてあり、相模原市に入った津久井の名が出てきて、驚いた。

忍城は三成の水攻めにも耐え、この城は水に浮くのかと恐れられたことから「忍の浮城」とも称されたという。明治維新で一度取り壊されていたが、市が城郭の面影を残そうと再建したということである。

ここで2日目8日の泊まる所を探す。行田駅に行ってみる。駅の周りはあまり人通りがなく、観光案内所もない。駅長さんに聞いて、近くのビジネスホテルを教えてもらう。一部屋二人で素泊まりで12000円。まあ仕方ないか。また近くのスーパー(意外と大きく食料品から衣料日用品もあった)で買出ししてホテルで食べて寝る。疲れが出たの二人とも爆睡。

3日目9日の朝。早めにホテルを出る。でもここまで来たので、大宮にある武蔵国一の宮の神社「氷川神社」にいく。氷川神社は須佐之男命(すさのうのみこと)を祭っていた。
          

今日は潮来まで戻って、車を取りに行かなければならない。埼玉県の行田から茨城の潮来の方に行くには、来た道をそのまま行かなければつかない。またあの分岐点がいっぱいある首都高を通るのか~憂鬱。結局一日で2回同じ場所を通ったことになった。

古来から鹿島や香取とも関係が深い「息栖神社」に行く。海から渡ってきた海人族(あまぞく)を祭っている神社である。東国三社の一つであるとされ、この神社が一番古いのではと主人は言っていた。読み方も「いきす」ではなく「おきす」ではないかと言っていた。
「この地は広大な内海であったために、香取の海といわれた古代の水郷の中で、おきすの社と呼ばれた水の神、息栖神社のあるこの息栖の地は、おきすの津(港)とよばれて、周辺の地域の交通上の船着場として大きな港の役割を果たしていた」と「おきすの津(港)と碇」と書いてある看板に説明がしてあり、その隣には古いさびた碇が立てかけてあった。それを見た柿本人麻呂は「大船の香取の海に碇おろし いかなる人か思わざらむ」と詠んだそうだ。
力石(若者たちが力を競って持ち上げ、優勝者は名前を刻み奉納できた)があったり、
芭蕉の句碑(「この里は 気吹戸主(いぶきとぬし)の 風寒し」気吹戸主は息栖神社の祭神)があったりと、まるっきり聞いたこともなかった神社であったが、香取神社と似ているようなところがあって、由緒あり趣深い神社であると感じた。さすが東国三社の一つであると言えよう。
     

お昼ごろ、修理をお願いした吉崎モーターズに電話をしたら、1時ごろ来てくれということだったので、近くでお昼を食べて、取りに行く。修理代は内金で2万円を払っていたので、あと4万円を払って、6万円かかった。でも仕方ない。レンタカーを借りたことで快適なドライブ旅行が出来たと考えて、この程度のトラブルでよしとしなければいけない。

私がレンタカーに乗り、主人が直った車に乗ってまずはレンタカーを返しに行く。わたしはずーと主人が運転していたので久しぶりの運転で緊張したが、ナビを頼りに行く。そしたら途中ナビが、高速道路に乗れと指定してくる。そんなー一度も高速に乗ったこともないのに・・・。ナビを無視してまっすぐに進み、事なきを得たが、こういう緊張もあった旅行でもあった。

レンタカーを返して、無事帰路につく。こんなアクシデントもあるんだなーと、思ったが、生きていること自体が旅と同じようなもので、いろいろなことが付き物だ。そう思った方がよさそうだ。このくらいで済んだことを反対に幸せに思おう。

ちなみに、埼玉から戻ってきた時に、偶然にも初日に車が動かなくなった場所、暑い中4時間も立ち往生した場所を通った時は、思わず車を止めて、写真を撮って感慨にふけってしまった。今回の旅行で一番思い出に残った場所である
     


相模原市陽光台→首都高速→千葉県佐原(香取神社)→茨城県潮来→鹿島(鹿島神宮)→常陸太田(ビジネスホテル)→袋田の滝→栃木県(下野しもつけ)宇都宮(大谷石)→埼玉県行田市(さきたま古墳)→埼玉県大宮市(氷川神社)→首都高速→茨城県神栖(息栖神社)→潮来→首都高速→相模原市

走行距離約900キロの道のりであった。
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東海道珍道中<国府津~小田原>

2011-08-03 16:53:39 | 東海道珍道中
東海道珍道中<国府津~小田原>

平成23年7月30日(土)31日(日) 天気は雨が降りそうな曇り。ここ最近天気がはっきりしない。まだ7月なのに夏が終わりかけている感じで蜩が鳴く日もあるくらいだ。今回は初めて、泊りがけでのウォーキングを行った。千明さんがインターネットで予約してくれて、安心して出かけた。 

が途中、ホテルの住所を調べるために(私は今回通販で手に入れたGPS対応の文庫本位のナビを持っていった)ナビに住所を入れるために出した紙を見た千明さんが「あ”~大変」と絶句。何とひと月後の8月30日を予約していたのだ。二人で顔を見合わせ大爆笑。あわてて電話を入れて、顛末を話すと、ダブルからシングルにはなったが、今日の30日に変更が出来て事なきを得た。こういううっかりもある。これも旅の思い出である。

今回は相模線の「上溝駅」を待ち合わせとした。9時30分。務さんに送ってもらって、25分くらいに着いたら待ちくたびれたような千明さんの様子。子どもさんの都合に合わせて9時頃に送ってもらったそうである。連絡してくれたらもう少し早く行ったのに。水臭いですよ。

上溝から茅ヶ崎に行き、東海道線に乗り換えて、国府津(こうづ)駅で降りる。前回は大磯だったから、本来なら大磯から歩くのがホントなんだけど、大磯から国府津まではあまり名所もないので、歩きは省略して電車で行くことにした。

国府津は小さい駅である。国府津からは国道1号線に沿ってほぼ海岸線を歩く。駅前に「神戸屋」のパン屋さん。お決まりの小腹ごしらえ。クリームパンを賞味。もちっとした食感でクリームは程よい甘さで、さすが神戸屋と思った。

しばらく海岸線を歩いていくと、酒匂(さかわ)川に出た。酒匂川は川幅が広いけど、所々に土が堆積していて、中洲が出来ていた。昔はこんな川幅があると越えるのが大変だったろうと感じた。勤勉家で有名な二宮金次郎はこの川の近くに住んでいて、度重なる酒匂川の氾濫に苦労したらしい。どんな橋を作っても流されるので、冬季は土で作った土橋といっても土を積み重ねるだけだろうが、それを架けることを提案したらしい。さすが、計算高い。

酒匂川を過ぎて、しばらく歩くと、新田義貞の首塚があった。建武の中興の柱石であった新田義貞が、北陸を転戦中に首を切られ、足利尊氏によってその首を晒されていた。家臣である小田原城主宇都宮某がその首を奪い返して、義貞の本国である上野国(群馬県)にその首を葬るために下ったが、この酒匂川近くで、病に罹り、やむなく義貞の首を埋葬して、自分もここで没したということである。主君のために妻子とも別れ、一人寂しく、ひっそりとその生涯を閉じる人もいる。

また、ここの近くに戎社(えびすやしろ)というところがあり、何と壬申の乱で負けた大友皇子の霊を奉っているということであるが・・・

このまま旧東海道を歩いていくと、江戸口見附跡にぶつかった。ここは小田原城址であり、ここから小田原宿に入るのである。小田原北条氏は秀吉の小田原攻めに対し、総構(そうがまえ)といわれる周囲9キロの堀や土塀を構築し、城のみならず、城下町までも取り込んだ戦国期最大級の城郭を築き、この江戸口見付辺りは総構の南部分にあたる。小田原合戦のときは家康が対峙したとされている。江戸時代には小田原城下に出入りする最も重要な門として役割を担っていたということだ。

小田原城に入る前に、遅い昼を食べようということで、探しながら歩く。「小田原どん」と書かれた看板が目に付くお店に入る。うどんでも食べさせてくれるのかなと思ったら、どうも小料理屋さんで、刺身やてんぷらがメイン。高いのかナーと心配したが、今日はランチが1000円と、とてもリーズナブル。ラッキー。てんぷら定食を注文。梅漬けが最初に冷えて出てきたり、自分のうちでつけたという辛さが程よい塩辛が出てきたり、メインのてんぷらもからっと揚げていて、とってもおいしくいただきました。それにとても親切な女将さんで、小田原城の馬出門(うまだしもん)を4億円もかけて修理して新しくなったということや無料で休憩できる小田原宿なりわい館があるということを教えてくれたり、行かなかったけど夜のオカリナコンサートのチラシをくれたりととても気さくに話してくれました。割烹「繁幸」さん。ご馳走様でした。教えてくれたなりわい館で「小田原どん」というのは、小田原の特産物を使った料理を出しているお店が掲げることが出来る看板らしいと、分かる。よくぞ気づいてくれた、千明さん。

その近くにある、「外郎(ういろう)」に寄る。外郎は名古屋が有名であるが、もともとはここが発祥の地で、創始者が、中国から渡ってきた帰化人で薬の処方を伝え、薬もお菓子もどちらも「外郎」と呼ばれたということである。そのとき仕えていた職人等によってお菓子の外郎は全国に広まっていったということである。江戸時代、のどを痛めた歌舞伎役者が飲んでよくなり、それを「外郎売」という歌舞伎の演目にして、舞台で演じている。上品なお抹茶と和菓子をいただき、昔の薬の製造に使った道具や保存する甕等が展示してある200年位前の昔の蔵の中を拝見させていただきました。

いよいよ小田原城の敷地入る。この日はちょうちん祭りと銘打って、二の宮の広場には屋台やテントが所狭しと立ち並んでいて、舞台の方からは歌や踊りのにぎやかな音が聞こえてきていた。
ボランティアのお年寄りの方たちがで無料でお城の説明をしてくれるという看板が目に付いたので、お願いしたら時間がないからとやんわりと断られ、お城に入るなら急いだ方がいいと急き立てられ、小走りにまずは小田原城へ。着いてみたら、夏休み中は閉館時間を延長するとの張り紙、知らないのかな~。

小田原城はお城お城した荘厳な面構えでそびえ立っていた。苔むした城壁と周りのお堀には蓮の花や大きな葉が咲き乱れ、小田原城に色を添えていた。
天守閣までは4階で構成され、各階ごとに小田原城に関係ある資料や地図や貴重な品物等が展示されてあった。もちろん北条早雲をはじめ北条氏の最後の将軍である五代北条氏直までの人となりや功績、また将軍の自画像や歴史的史実が事細かに掲示されていたし、4代目氏政5代目氏直が驕った結果、周囲を包囲され降参してしまう豊臣秀吉の小田原攻めの時の細かい資料や布陣など、それはそれは興味深いことが目白押しに展示されていた。明日の31日にはその小田原攻めで有名な石垣山の「一夜城」や本拠地にした早雲寺に行く予定なので、興味は尽きることない。私たちは、じっくりと時間をかけて、天守閣まで登っていった。ちなみに、北条早雲と2代氏綱は目と鼻がとてもよく似ていた。3代氏康は上二人と全く似てなくて上品な顔立ちになり、氏政・氏直も現代的なきれいな顔つきであった。

天守閣からの眺めはまた格別で、小田原の城下はもちろん、なだらかの海岸線を要した海は見えるし、周りの山々も見渡せる。なるほど、3~4キロ先の石垣山に、お城が短期間にどーんとそびえ立っていたら、それはもう驚くし、もうだめだと戦意を失うのもうなづける。
しばらく眺めて、みなちゃんのお土産を物色して、色々迷ったけどキテイーちゃんの寄せ木作りのストラップを買って、下に降りる。

お城から出たら、ちょうちん祭りの真っ只中。ちょっと覗いてみようと、寄る。そこで、ちょっとビールでもから落ち着いてしまい、結局フライドポテト・たこ焼き・お好み焼き・サツマイモフライを食べて夕飯を済ましてしまう。

だいぶ夕涼みをしたので、取り直した宿へ行く。話の中で昨日見たNHKの「未解決事件を追う・森永グリコ事件の真相」の続きをやることを思い出し(偶然にも二人とも見ていて、気になっていた)、そして私の好きなドラマ「ドンキホーテ」も今日であるので、それも見ようとなり、宿屋へ急ぐ。

シャワーも浴びずに、テレビをつけ、二人して「犯人が目の前に居るのに、どうして職質しないの?したら捕まえられたのにね」などと感想を言いながら見入る。この番組は面白い。まだまだ未解決な事件は多い現実なのでこれからも期待していきたい。途中「ドンキホーテ」を見て、松田翔太よりも高橋克実の演技のギャップがいいと感心する。最後はどういう結末なのか見ていきたい番組だ。

次の日の朝、バイキングの朝食で、私はご飯を2杯も食べて元気いっぱいだったけど、千明さんはどうも浮かない顔。昨日最後に食べた「サツマイモフライ」が胸にもたれている様子。頑張れ。

今日は大河ドラマ「お江」の中で、秀吉が小田原攻めのときに各武将を労うために細君をこの一夜城に呼び寄せて、お茶会を開いたとされ、自分もお茶々の方も呼び寄せていたことをやっていた。そこで、秀頼も授かったとされる。そんな場所、石垣山の一夜城に行く。まずは、小田原駅の観光案内所に行き、一夜城と早雲寺の無駄のない行き方を教えてもらう。丁寧に教えていただき、その上アンケートに答えたら、北条氏綱の名前が書いてある木製のストラップをもらえた。

まずは一夜城。東海道線で早川駅に行き、そこからは登っていく。思ったより角度のある坂で、最初から呼吸が乱れるほどの坂をだらだらと登っていく。道の両側は土砂が流れないように石垣が築かれ、その山の斜面には多くはみかん畑が広がっていた。見晴らしはいい。途中振り返ると小田原の城下が見渡せて、風が気持ちよい。汗をぽたぽたとたらしながら、「ヨイショ・ヨイショ」と二人でかけ声をかけながら、登っていくこと50分。やっと着く。私たちはこんなに疲れたけれど、きっと当時の人間はこんなことは大変なことではなく、辛いとも思わなかっただろう。それに、石垣山にたくさん積んであるあの大きな石、いったいどうやって運んできたのか。人界戦術なのか。

本丸があった辺りに展望台があり、そこに着くと、3人ほど先人がいて、その中の一人が何やら携帯で誰かに話していた。聞くともなしにもれ聞こえた会話が「どっかの山」「誰かが作った」等。せっかく来たのにな~と思ってしまった。きっと連れてこられただけだったんだね。
そこからの眺めは、やはり小田原城を上から見下ろす感じであったが、とても良かった。、小田原が一望でき、山や海の配置がくっきりと分かる。秀吉はここから見て、武将たちがちゃんと布陣しているかを見張っていたのであろう。説明板によると、小田原城よりも227mも高い位置にこの一夜城は立ってらしい。どうりで見晴らしがいいはずだ。また、看板には小田原攻めの布陣が細かに書いてあり、海から攻めるもの、小田原城の総構の周りに陣をとっているもの。その中で伊達政宗の名前がなかったので、不思議に思ったが、秀吉に従い小田原攻めに加わるか迷っていたため、遅れてきたらしい。

帰りはやはり下り坂なので、足なみ軽やかにすたこら歩く。「石垣山に参陣した武将たち」という立て看板を探しながら。行きは違った道だったので、看板は見当たらなかった。順番に、豊臣秀吉・淀殿・千利休・羽柴(豊臣)秀次・徳川家康・宇喜田秀家・伊達政宗・堀秀政が掲げられていた。

早川駅に戻り、小田急線で箱根湯本駅へ。観光地だけあって賑やかである。早雲寺は三浦氏を滅ぼして相模の国を手に入れた北条早雲の遺命によって、その子氏綱が建てた寺である。早雲寺に行くまでには、裏の山側から入ったので、それを登らなければならない。それがとても急な山道で、険しい。千明さんは近くにあった木の枝を杖代わりに使って登っていた。私もそれを見習い近くにあった棒切れを手にとって杖代わりにと使ってはみたが、如何せん太すぎて使いこなせることが出来なかった。すぐ投げて、自分の足だけで頑張って登る。やっと到着。境内は禅寺特有の閑静さを保ち、あたかも時が止まったような感覚を覚える。北条五代の墓が右から早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直と横一列に並んで供養してあった。北条が祭ってあるにも拘らず、秀吉は小田原攻めの本拠地にしたという。皮肉な話だ。本堂の前には広い庭があり、それを縁側から座って眺めている秀吉が想像できる感じであった。

雨が本降りになってきた。でもここまで来たら、曾我兄弟が供養されている正眼寺に行きたい。傘を差しながらなかなか着かないと心配しながら、頑張って歩く。この辺はほんと温泉宿が多い。ピンからキリまであるなーと感じながら歩く。
やっと着く。細長いお寺だ。ひっそりと曾我兄弟の墓があり、芭蕉の句の碑もあった。「山路来て 何やらゆかし すみれ草」だったかな?

雨が降り続く中、箱根湯本の駅に戻る。その途中三枚橋を渡り、旧東海道を歩いていたのが分かる。箱根湯本で遅い昼を食べ、私はそば定食。千明さんは温かいうどん。まだ本調子ではないらしい。ゆっくり胃に負担をかけないように食べていた。箱根湯本では「うさぎの月見」という有名なお土産を買ったり、おばあちゃんにはかまぼこを買った。次回の箱根越えで周遊のバスがあるということを聞いて、近くまでバスで行けることが確認できてよかった。また、次回が楽しみだ。

小田急線で町田まで戻り、いつものように、夕飯とお茶をする。途中三男から電話があり、意味深なことを言って、電話を切るものだから、心配で早めに切り上げて、帰路を急ぐ。
無事に歩いてきたことに感謝して、また、こういうことの出来る幸せにも感謝して、今日も締めくくる。

一日目 16779歩 約9.6キロ
二日目 20314歩 約12キロ








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