晴れのち曇り、時々パリ

もう、これ以上、黙っていられない! 人が、社会が、日本全体が、壊れかかっている。

森に囲まれた『シャンティイ城』はフランスの歴史の歩みと美術の生き証人。

2011-08-28 23:13:22 | 歴史と文化
今週の【フォトの旅】は、『シャンティイ城』をご紹介します。



パリから北へ45キロ。
宏大な森「シャンティイ」を抜けると、こつ然と現れる優美な館。

16世紀『ヴァロア朝』と、17ないし8世紀『ブルボン朝』にまたがって、王家と共に歩んだ大領主達の城『シャンティイ城』は、フランスの発展期と絶頂期の王朝文化を、今日に留めている。


     
     シャンティイ城全景


パリから車で45分。

高速A1号線を北上し、シャルル・ド・ゴール空港の次の出口で、旧道へ降りる。
パリ首都圏、今の行政区分で言えば『イル・ド・フランス地方』、封建時代の地名で言えば『フランシリアン地方』を出て、フランク族の最初からの領地であった『ピカルディー地方』に入るかどうか、と言う辺り。

シャンティイの森は、王家の狩猟場であった。
国王が狩りにやって来たとき泊まる城が築かれた。

13世紀には、既に歴史に登場する城があり、国王の飲料(ワイン)を管理する要職『酒庫の守』の地位に有った有力貴族が、守っていた。


列車で行くなら、パリ『北駅』から、45分。


     
     地方圏の列車


首都圏電車よりやや長距離を走る「地方圏列車」は、とても素敵な、二階建て。


     

     
     内部は、ブルーとオレンジのツートンで、豪華なシート。


16世紀、スペイン王にして、フランドル伯、ドイツ皇帝、オーストリア大公、イタリア王、かつモロッコ王で有った『カール5世』と、生涯覇権を争ったのが、フランスの『フランソワ1世』であった。

彼は、イタリア戦役で、スペイン軍に捕虜となり、トレドとヴァリャドリードの城に留め置かれ、その城の巨大さに、スペインの国力を見せつけられる。

戦役で転戦したイタリアでは、かの地の文化の先進性に、強く打たれる。

その、イタリア文化とスペインの国力の、双方に引けを取らない国家建設に、終世を費やした。

大航海時代に乗り出し、王室艦隊は北米大陸に到達して、『ケベック』と呼ぶ植民地を築く。
大河『ミシシッピ』を発見し、遡上して『セントルイス(サン・ルイ)』や『ニューオリンズ(ヌーヴェル・オルレアン)』等を築いた。

レオナルド・ダ・ビンチをフランスに招き、『モナリザ』その他、本人が最も気に入っていて、肌身離さず持ち歩いていた5点の絵画をフランスにもたらし、更にフランスで余生の3年を暮らすうちに、もう一点名画を物にした。

その為、完成画の極めて少ない「ダ・ビンチ」の、完成画の中の最高の6点がルーブルに有る。



その、フランソワ1世の「王室最高司令官」で『大元帥』の地位に有った貴族が、『アンヌ・ド・モンモランシー』という。

何故だか、<アンヌ>という女性の名前がつけられている。

そのモンモランシー大元帥が、16世紀に当地に城を新たに築いた。


     
     アンヌ・ド・モンモランシーの騎馬像


城の入り口に向かい合って、彼の騎馬像が威風堂々と、立っている。

常備軍と言うシステムが無かった時代、夫々の軍の位階を有する諸公が、夫々の軍装を調えて「フランス王国軍」が形成されていた時代である。

国王の直属の「近衛隊」など、精々50騎と言う時代に有って、アンヌは前後を200名の騎士に囲まれて移動し、パリに宮殿を4館、フランス全土に城を400有していた。

その彼は、次のアンリ2世、その息子達の代に渡って、『大元帥』の地位を守り通したが、「ユグノー戦争(宗教戦争)」のさなかに、新教徒軍の矢玉を無数に受けて「立ち往生」する。

その間、フランソワ1世の息子、『アンリ2世』と、妃『カトリーヌ・ド・メディシス』の3人の息子達が順次即位し、世継ぎを持たずに無くなって、『ヴァロワ王家』が絶える事になる。

その際、フランス王家の筆頭親族であったのが、ピレネーからスペインにまたがる小国『ナヴァーラ王国』のアンリで、フランスを継ぎ、宗教戦争を終わらせ、『アンリ4世』として『ブルボン王朝』が、スタートする。

フランス史上最も「ドンファン」だった彼の行く手に、抵抗出来る女人は居なかった、と言われるが、最後の老いらくの恋の相手が、シャンティイの城主、モンモランシー家(当時は分家になっていた)の娘、14歳のシャルロット姫であった。

当然、彼女は爺になど、なびかない。

焦ったアンリは、彼女の部屋に忍び込む為に、先ずは彼女を誰かと結婚させてしまおうと、考える。
「人妻」の部屋の窓に、男の影が見えても別に不思議では無い。

そこで彼は、自分の親戚の中から、何でも言う事を聞く若いプリンスを、彼女の夫にする事にした。
当然、人妻の部屋に忍び込むのは、夫をさておいてアンリ4世の筈であった。

ところが、その『ブルボン・コンデ家』の、若きリュクセンブルグ公アンリと、シャルロット・ド・モンモランシーは、手に手を取って、新郎の領地ベルギー方面に逃げ出してしまう。

怒り狂ったアンリ4世は、なだめ、すかし、恫喝し、ついには「ローマ法王」に仲立ちを頼む、等とあらゆる(恥ずかしい)騒ぎを引き起こすが、若い二人はそんな事等、どこ吹く風であった。

ついに、彼は若い二人を、フランス王国から「追放処分」にしてしまう。

結局、アンリ4世が没して後、二人はフランスに帰朝し、シャンティイの城に落ち着く事となる。

その二人の間に生まれた男子が『コンデ大公』と呼ばれ、フランス・ブルボン王室の大元帥を務め、四代続き、最盛期を迎えた。

その1代目の「コンデ大公」が、17世紀の城館を建てた。
2代目が、見事な大厩舎を建てた。


ルイ15世をして言わしめた、名高い言葉が残っている。

『朕は、(ルイ14世から世界を受け継ぎ)持たざるものは無い、と思っていたが、コンデ家の厩舎だけは持って居ない…』


コンデ大公の建てた17世紀の城館は、18世紀の内装が、見事に保存されている。


     
     純粋な『ルイ15世様式(ロココ)』の内装


その18世紀、貴族階級が「豊かさの頂点」に達して、実に優美で典雅な装飾美術様式が生まれた。

数多くの「ビー玉」を坂道でまき散らすと、弾け、跳ね、転がって行く。
その「飛び跳ねる流れの線」を拾い、つなぎ、ねじり、組み合わせた、曲線の破連続の連続のレリーフで、壁や天井を飾った。

その装飾様式を、『ローカイユ(石っころ)様式』と呼び、その後各地でなまって『ロココ』と呼ばれて全欧に広がって行った。

ただ、オリジナルの装飾は、中々残っていない。
つまり、次の王の為に『ルイ16世様式』に作り替えて行ったからである。


更に、豊かさの極みに有った王侯貴族達は、エキゾティックな物を求めた。
その結果『シノワズリー』と呼ばれる、東洋風の装飾や家具等も、好まれた。


     
     シノワの間の天井


シャンティイ城内にも、シノワズリーの部屋がある。
18世紀、ブーシェ、フラゴナールやヴァットー等の典雅な絵を、淡い色調で織り出した絹を壁面に張ったりしたが、ここでは更に凝って、そのような布が「張られている様に」見える『騙し絵』で
壁を飾っている。


     
     「シノワの間」の壁のディテール、『猿の教育』の部分


     
     同『猿の楽師』の部分


そして、大コンデ大公の、戦いの歴史を壁に壁画で飾った「戦いのギャラリー」が、伸びている。


     
     「戦いのギャラリー」


フランス大革命の際、4代目コンデ大公は戦死、息子の『オルレアン公』は、ドイツへ亡命する。
そして、16世紀の『モンモランシー』の城は、基礎部分を残して削り取られて撤去されてしまった。

革命終了後、亡命地から帰還したオルレアン公は、パリでの館『パレ・ロワイヤル』に戻り、シャンティイと違って、「パレ・ロワイヤル」が破壊されずに残った事を感謝し、嬉しさの余り中央大階段に膝まづいて、口づけをした。

それを目にしていた、息子の(次のオルレアン公爵)『アンリ・ドーマル(オーマル公アンリ)』が、モンモランシーの城を、基礎の上に再建した際、パレ・ロワイヤルの中央大階段と同じ物を作らせた。


     
     パレ・ロワイヤルの階段を模して作られたシャンティイの階段


     


その、オーマル公爵は、歴代コンデ大公の菩提寺となる「シャペル」も建立した。


     
     シャペルの祭壇


その礼拝堂の左右の壁面に、アンヌ・ド・モンモランシーと、その奥方を描かせた。


     
     アンヌ・ド・モンモランシー

     
     アンヌの奥方


その礼拝堂は、天井も見事である。


     
     天井の装飾画


そして、その礼拝堂の奥の祭壇の、そのまた奥に『コンデ家の墓所』が安置されている。


     
     コンデ家の墓標


コンデ家の発祥の地、ブルゴーニュ地方のコンデ村の教会に有った、このブロンズ製の見事な墓標群は、当時の墓守が「革命政府」の金属供出令で溶かされるのを恐れて、漆喰で塗り固めていて、残されていた。


シャンティイの城は、もう一つ『コンデ美術館』としても世界的に名高い。

革命後に16世紀の城を再建したオーマル公爵は、大の美術コレクターで、ユーロッパ中の競売に参加しては、絵画を買い集めた。

オーマル公に後継ぎが居らず、彼は城と領地(宏大な森)とを、内装と美術品のコレクションすべと共に、一括して『フランス学士院』に遺贈した。

したがって、『コンデ美術館』の名で学士院が所有公開している。

作品は、16世紀「ルネッサンス」に始まり、17世紀「クラッシック様式」と18世紀「ロココ」並びに、19世紀「ネオ・クラッシック」更に『ロマン主義」から、バルビゾン派等「自然主義」にまで及ぶ、素晴らしい作品が集められ、「所狭し」と並べられている。


     
     ラファエロの小品「聖母子」(16世紀初頭)


     
    ムリリョ「幼子イエスと聖ヨハネ」17世紀


     
     アングル「ヴィーナスの誕生」(19世紀後半)


     
     ヴァン・ダイク「オルレアン公爵」17世紀初頭


このヴァン・ダイクには、面白い逸話が有る。

19世紀後半、イギリス国王がパリを訪れた際、ナポレオン3世が「シャンティイ城」に招いた。
この城の歴史を聞かされ、オルレアン公アンリ・ドーマルの事を聞いて、英国王室がヴァン・ダイクのオルレアン公の肖像画を種有しているので、さし上げよう、と言い出した。

その「オルレアン公爵」は、ルイ13世の弟で、オーマルとは時代も違い、何ら血縁関係もないのだが、せっかく「ヴァン・ダイク」をくれると言うのに、「違う人物だ」と断る手は無い、とばかりに、貰ってしまったそうだ。


     
     アンリ・ルソー(バルビゾン派)「風景」19世紀後半


そして、私が一番好きな絵が、次の「ミニャール」の『モリエールの肖像』です。


     
     ミニャール「モリエールの肖像」17世紀後半

ミニャールは、ルイ14世がんヴェルサイユ建設にあたって、美術総監督に指名された「ニコラ・プッサン」の次に、ヴェルサイユの装飾全般の指揮を執った画家である。

ある日の午前中、親友モリエールを訪れて描いた。

旅の一座を率いていたモリエールは、前夜の公演の後、たいてい翌日の午前中は寝ている。
起こされて、不機嫌になりそうながら、親友には怒る訳にもいかず、何とも微妙な表情をしているのが、実に生き生きと描かれている。

前夜の公演の舞台化粧が、うっすらと残った顔で、充血した目で、ミニャールの方を向いているモリエールの、人間を感じさせる名画だと、思っています。


そして、ここ「コンデ美術館」の最高の作品が、ラファエロの『ロレットの聖母』である。


     
     ラファエロ「ロレットの聖母」


この作品は、長らく所在不明で、恐らく何らかの理由で既に実在しなくなってしまった、と信じられていた。

各地に残された、コピーの一枚だと思われていた、このシャンティイに保存されていた物が、『本物』であった事が判明して、まだ半世紀しか経っていない。



その他、かって使用された食器やグラスも、残されている。


     
     エナメル装飾のガラス器


     
     セーブルと見まがう「シャンティイ焼き」


     
     食卓に並べられた「ヴェルメイユ(銀の土台に金貼り)」の燭台


さらに、シャンティイ城は、庭園が素晴らしい。


     
    堀の代わりの池に映る城


     
     大理石の彫刻も数多い


     
     遥かかなたに佇む東屋


     
     小径を横切るガチョウ


そして、極めつけが「ルイ15世」に羨ましがらせた、コンデ大公の厩舎。

この厩舎によって、シャンティイは、競馬場が直ぐ前に有り、競馬でも世界的に名高い。
厩舎では、王朝時代の馬坊や馬具が展示されて居り、馬の調教と訓練の実演も、見学出来る。


     
     シャンティイの大厩舎


では、次回をお楽しみに。

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