晴れのち曇り、時々パリ

もう、これ以上、黙っていられない! 人が、社会が、日本全体が、壊れかかっている。

時の流れの止まった『タッシリ・ナジェール』は、人間のサハラと地球との関わりを残す。【日曜フォトの旅】

2013-02-03 23:47:53 | 歴史と文化
先週に引き続き、今週の「フォトの旅」では、アルジェリア最南部の別世界『タッシリ・ナジェール』の迷宮にお誘いしよう。


『サハラ』とは、アラブの古語で「何も無い所」「褐色の無の空間」と言う様な意味である。

アフリカ大陸の北側を、西は大西洋から東はシナイ半島を経て中東に至る宏大な砂漠のベルト地帯の、アフリカ側の呼称である。


北アフリカは、人口の殆どが地中海岸に沿った、限られた狭い沿岸部に集中している。

直ぐ背後は、幾すじかの山脈「アトラス山脈」で後背地と切り離されている。

数億年前、今のアフリカ大陸とユーラシア大陸とが衝突した際の衝撃で盛り上がった北側が「アルプス山脈」で、南側が「アトラス山脈」となった。


両大陸がぶつかり合い、押し合って山脈を形成しあと、反動で両大陸が後戻りして出来た裂け目が、「地中海」である。



     
     アトラス山脈の山中



そのアトラス山脈は、冬は冠雪する。



     
     雪をかぶった山並みが望める


     
     雪の峠越え



しかし、城壁の如くに人口集中地帯を護る三筋程に別れた「アトラス山脈」を越えると、あとは少しずつ荒涼とし始めて、やがて砂漠地帯が続く。


そして、首都アルジェから2000km南下して、最南端のオアシスの一つジャネットに至る。

そのジャネットの東北部から北側に掛けて、長さ800km、幅50km程の高台が、台地の様に連なっている。

標高千四~五百メートル、最高二千二百メートルの『タッシリ・ナジェール高地』である。

南端は、数百メートルの断崖が続く。



そのタッシリの上に、八千年間の人間の営みが「岩絵」となって残されているのだ。

それを見るのは、徒歩で最短コースで4泊5日、強行スケジュールで3泊4日を要する。


夏期は気温が高すぎて、行く事はお勧め出来ない。

冬季限定。



その南端の断崖の、ジャネットから近い峠『タファルレット峠』を登って、頂上を目指す。


午前中の、未だ涼しい時間帯で登る為に、早朝7時頃ホテルを発ち、四駆で走る事45分。

高原の南の断崖の下に着く。


あとは、歩いての登山となる。

標高差、およそ800メートル。


荷物は最低限にして、殆どをロバで運んでもらう。

人の登山道は、急すぎて段差も多く、ロバは登れない。

かといって、ロバ道を人が登ると、登山路の3倍程の時間がかかってしまうのだ。

五人のパーティーなら、案内人や料理人等の荷物も含めて8頭程のロバを使う。



     
     ロバ使いの長老



1956年、フランスの考古学探検隊「ロート大尉」が、人っ子一人り住まぬ死の台地に「岩絵」を発見して、大センセーションを巻き起こしたとき、彼等はラクダを使っていた。

探検が終わる頃、全てのラクダは脚を切り刻まれた様に傷ついて、二度と歩けない状態になっていたと言う。

それ以来、ロバを使う様になった。



     
     登山路



両側を厳しい絶壁に挟まれた隘路を、斜面、やや平、斜面、やや平、斜面と、三度の登りで頂上を目指す。



     
     最初の斜面、その後のやや平らなルートから、二度目の斜面で途中休憩



     
     頂上から、登って来た登山路を見下ろす



この写真の真下の隘路を登って来たのだ。

15分から30分毎に休憩しながら4時間程で、頂上にたどり着く。


『タッシリ・ナジェール』とは、現地の遊牧民トウアレグ人の言葉で「水の溢れる台地」と言う意味である。

文献によって「山脈」と書かれていたり、「山地」と訳されたりするが、頂上はあくまで平なので、私は「台地」と言っている。


北向きに歩くのだが、右手(東側)は50キロも行けばまた断崖で、『タドラールト渓谷(涸れ沢)』に下りて、そのまま東行すれば、リビアに入る。


黒褐色の岩面が、平に浸食し、所々に碁盤の眼の様に筋が走って、数千年単位で割れて浸食して行く形が想像出来る。

あずき粒大の小石が被う、何処までも平な頂上を、北を目指して歩く。


数千年間代わらずに、遊牧民が歩いたあとがうっすらと「道」を表し、やがて交差する所が有った。

右がリビア、左へ行くとニジェール、マリに至る。



     
     「街道」の交差点で佇むトウアレグ人二人



途中に、不思議な石積みが有った。


遊牧民達が通行中に家族を失った時に葬った、墓標である。



     
     大きい方が親、小さい方が子供



     
     



200年前のものかもしれないし、2000年前のものかもしれない。

誰も知らない。

殆ど雨が降らないこの場所では、二千年ぐらいで地表が変化したりはしないのだ。

実際、石器時代の矢じりが転がっている事が有る。



更に、同じ様な石積みでも、スペースをハッキリ区切ったものも有る。

遊牧民達が残した「モスク」である。


ちゃんと入り口があり、メッカの方向を示す祈りの対象壁「ミヒラブ」も作ってある。


     
     仲仕きりで、男と女と別れて礼拝した



通り過ぎながらの日々の礼拝なら、ただ敷物を敷いて座って行う。

このように「モスク」を建設するのは、この辺りに何日も滞在したからであろうと、思われる。


タッシリの上を行くと、このような墓やモスクはそう珍しいものでは無い。


一か所、岩絵の有るサイトに立ち寄りながら、2時間程で行く手に屏風の様に立ち塞がる岩の連なりが見えて来る。



     
     岩の屏風 



最初に野営する『タムリット』と呼ばれる場所である。


テントで一夜を明かす。

ちなみに、この「タムリット」と名づけられた場所辺りから、岩が浸食されて出来上がった、岩の林や迷路が始まる。



あとは、この世のものとは思えない、摩訶不思議な光景の中を進む事となるのだ。



     
     明らかに岩の亀裂の間を何百年も水が流れて出来た通路


岩の一部がやがて風化して「砂」に代わって行く。



     
     岩棚の下にたまったきめ細かな砂



狭い「通路」を抜けると、周りは正しく「岩の林」としか言い様が無い光景が続く。

きのこの森の中に棲む昆虫になった様な錯覚にすら、落ち入ってしまいそうだ。



     



     



数万年前は、頂上はもっと高かった。

それが、割れて崩れ、浸食されて、いまだ倒れない固い部分が樹々の様に林立している。

大きくマクロの視点で見ると、タッシリ全体と下の砂漠地帯との関係である。


命の気配がない「死の世界」タッシリ。

しかしそこに、生き物が居た。

遊牧民からはぐれてしまって野生化した山羊の子供であった。



     
     大岩の真ん前に、小さな野生の山羊の子



そして、足元が砂が多くなって来る。



     



     



     



     



まさに、岩の林と砂漠の結合部である。

そして、その岩肌の下部の岩棚の様にえぐれている部分に、人が住んだ痕跡が残されている。



     
     その側に石の塀で囲った住居跡


このようにハッキリ塞ぐ様に作られているのは希で、普通はただ石ころを並べて線を引いただけのものが多い。

それが、いにしえの遊牧民達の住居なのだ。

数千年前から、40年前に最後のトウアレグ人が下山するまで、殆ど同じ要領で人は暮らして来た。




     
     「遠慮深く」区画が表現された住居



時には、通過した遊牧民が、帰路持って行く取り敢えず必要でない物、を置いて置く事も有るらしい。



     
     誰かが所有している筈の「雑嚢」



さらには、しっかり「目張り」された、一種の倉庫みたいな物まであった。



     
     荷物が保管されているらしい「目張り」された壁龕



こんな、人間の生の営みを感じさせる物も有るものの、おそらく10平方キロに今この時生きている人間は自分達だけ。

この台地を初めて訪れたヨーロッパ人は、「死の世界」と呼んだ。


しかし、他にも生命は存在していた。


最初に野営した「タムリット」は、直ぐ近くに岩場の水場がある。

苔むした溜まり水のある岩場だが、数十年に一どの大雨が振ると河になるらしい涸れ沢があり、そこに樹齢4千年と言われる糸杉が生えている。



     
     齢四千年の糸杉


元来「糸杉」は、その名の通り糸の様に細く真っすぐ天を目指して伸びているものだ。

しかし、ここまでの樹齢ともなると、複雑怪奇な曲がりくねった瘤だらけの「老や」となるのだ。

この涸れ沢の地下には「伏流水」が流れているらしく、数キロおきにこの同じ糸杉の根っこが繋がって4本くらい、生えていると言う。

「木」の生命力、恐るべし。


更には、小さな生き物も居た。



     
     タッシリの砂の中に居たサソリ


私のテントの直ぐ外で見つけた。

同行のトウアレグの友人に「毒をもっているか」聞いたら、ケラケラ笑って「平気だよ」と返事した。


そして、正しくこんな岩だなの下の壁龕に、紀元前八千年から紀元一世紀くらいまでの、およそ8千年間の「岩絵」が残されているのです。



     
     岩絵の残された壁龕サイトの一例



1956年、フランスの考古学探検隊ロート大尉を案内して、これらの岩絵の場所を教えたトウアレグ人の遊牧民のお孫さん『バルカ』さんが、我々を案内してくれる。

ジャネットに住んでいて、時に観光客をこのタッシリに案内するプロのガイドでも、時には方向を見失う程、複雑に入り組んで克つ単調な同じ様な土地の中で、岩絵のサイトは数百か所に登る。



     
     淡いグリーンの民族服の男性が「バルカ」さん



彼は、眼をつむっていても、この土地の全てを知り尽くしている。

何故かと言うと、彼はここで生まれて、ここで育って、この高地に最後まで留まった遊牧民の最後の家族なのだ。


ジャネットに下りて、まだ四十年しか経っていない。



来週は、いよいよ「岩絵」をご紹介しようと思います。

お楽しみに。



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2 コメント

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砂漠からコンクリートへ(^_^;) (Himbeere)
2013-02-04 11:00:26
パリさま、

ここを歩いたのですね、信じられません。あの登山路、少し歩いただけで足首が挫きそうですね。何日間の旅だったのでしょう。

あの岩場の頂上は、きっと素晴らしい眺めなのでしょうが、そこに行くまで・・・(泣)^^ 約一名に、その様な旅行の趣味が無くてよかった、と胸を撫で下ろしました。^^;

ですが、お写真だけ見て居りますと、吸い込まれそうでした。

さそりちゃんが出るところには、やはり身体を横たえることは出来ません。お写真だけは、歓迎です。

次回、楽しみにしております。
返信する
Himbeereさま。 (時々パリ)
2013-02-04 21:31:20
コンクリートから砂漠へ!
壁面は急峻な断崖ですが、登山路はちゃんと歩けます。
最も必要な見学コースで、4泊ですが7泊程すれば著名な岩絵を殆ど網羅できます。
まだまだ未発見のサイトもある様です。
あの光景に身を置くと、人生観が変わります。
自民党だCIAの搾取だ、なんて事が馬鹿馬鹿しくなってきます。
ある意味で、宇宙ステーションに滞在した宇宙飛行士が人生観が変わったと言うのと、通じる所が有ると思います。
ところで野営のテントは床の部分まで一体型なので、ジッパーを占めれば「蚊」一匹入って来られませんから、サソリなんて平気ですよ(*^^*)
それに滅多に居ないです。
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