晴れのち曇り、時々パリ

もう、これ以上、黙っていられない! 人が、社会が、日本全体が、壊れかかっている。

『凱旋門』は、英雄の栄光と落日を見続けて来た、近代以降のパリの歴史の檜舞台。【フォトの旅】

2011-11-20 23:03:47 | 歴史と文化

貴方は、「パリ」と聞いた時、先ず最初に頭に浮かぶ記念物は、何でしょうか?


くれぐれも言いますが、『ルイ・ヴイトン』などと言ってはいけませんよ。

「欲しい物は」とは、聞いて居りません。
「記念物」と聞いて居ります。


世界中の人達が、パリと聞いて先ず頭に浮かぶ記念物の、最大公約数の答えは『エッフェル塔』だそうです。

僅差で、「二番目」に答が多いのが『凱旋門』。



     
     『エトワールの凱旋門』


この二つの、パリを代表する記念物は、僅差ながら「一番と二番」とは、ひっくり返らないのです。


何故なら。

<凱旋門>は、古代ローマ以来、各地に存在する。

しかし、<エッフェル塔>の如き「鉄の建造物」は、人類史上それ以前には無かった。


「史上始めて」

そして、それが「現代文明」を語る上で、欠かせない要素となっているのです。

だから、『エッフェル塔』が、常に一番。



でも、二番は二番でも、パリの二番はダテでは無い。

ところで、パリで「単に」凱旋門と言えば、実は四つあるのです。

1680年代に、アウグスブルク戦争他、二度のドイツ戦役に勝利して帰還する「凱旋国王、ルイ14世陛下を、パリ市にお迎えする為」に、パリ市当局が造営した二つ。

『サン・ドウニの門』
『サン・マルタンの門』

この二つは、その後ルイ14世自身が撤去する事になる城壁にそって、造られた。


その城壁の「空堀」を埋めた跡に造られた通り、俗に『グラン・ブールヴァール』と呼ばれる大道りに、今日も残っている。


残りの二つは、ナポレオンが造った。

時は1805年、ナポレオンの指揮するフランス軍は、ヨーロッパの五大大国連合軍を相手に闘った。

世に言う『オーステルリッツの戦い』である。

ロシア、プロシア、プロシアを除いたドイツ連合、オーストリア、イタリア連合、この五カ国連合軍の兵力を迎えるに、フランス軍は数的にかなり劣っていた。

誰しもがフランスの敗戦を予測し、大激戦の末、ナポレオンは劇的大勝利を手にする。

その、戦勝を記念して、ナポレオンは「パリに凱旋門を二つ造ろう!」と決定した。



     
     リュード作「ラ・マルセイエーズ」


パリの内側から見た正面、つまりシャンゼリゼ大通りに向き合う側の、向かって右脚部のレリーフが、『ラ・マルセイエーズ』と題された、名作のレリーフである。

革命初期、マルセイユの義勇軍がパリを目指した際、皆が口ずさんだ歌を、対オーストリア宣戦布告を聞いたストラスブール駐屯軍の将校「ルージェ・ド・リール」が、一夜で曲を付けた。

フランス国歌である。


     
     同じレリーフを横から見ると…



ちなみに、ナポレオン自身の失脚により、凱旋門の建設は中断され、流刑地で没した後に、工事は再開される。

完成は、ナポレオンが造らせ始めて30年後の事であった。

従って、周囲の装飾が、複数の彫刻家にバラバラに委ねられた為、統一感が失われている。


     

     

     



やはり、リュードほどの才能の有る作家達では無い為、見比べれば、見劣りがするのは否めない。


     

     

     

     



頂上のテラスに出ると、パリの絶景が360°のパノラマで広がる。

眼下は、直径200mの円形の広場で、周囲に12本の大通りが放射状に伸びて行く。

正しく「星のきらめき」で、『エトワール(=星)』広場と呼ばれた。


戦後、「シャルル・ド・ゴール将軍」の栄誉を称えて彼の名が冠されたが、人々はそのまま『シャルル・ド・ゴール・エトワール広場』などとは呼ばずに、未だに『エトワール』と読んでいる。

ちなみに、地下鉄の駅名は『シャルル・ド・ゴール・エトワール』。


凱旋門から、シャンゼリゼ通りを遥か見晴らすと、奥に「ルーブル宮」が立ち塞がる。

その一番奥、ルーブルの中庭に、ナポレオンが同時に造らせた、もう一つの凱旋門がある。

肉眼では良く解らないが、『カルーゼルの凱旋門』である。


     
     シャンゼリゼ大通りを見晴らしてルーブル宮に至る


ルーブル宮は、アルファベットの<A>の字の様な形で建っていて、両足が西側に開いた形となってる。

その中庭から西方向に、視線の届く限り「何も視界を妨げる物が無い」空間が、一直線に遥か伸びている。

世界中、どの国のどの町でも、その町のどこに立とうと必ず何か視界を妨げる物が、存在する。

パリは、街のほぼ中央に、かっての大宮殿『ルーブル』の、中庭から西方向に、視界の届く限り「何も視界を妨げる物が無い」空間が、一直線に遥か伸びている。

このような空間の存在は、行き当たりばったりに町づくりをしていては、存在しない。


その線上に、ナポレオンは凱旋門を二つ建てた。

従って、ルーブルの一番奥に立つと、目の前に『カルーゼルの凱旋門』が建って居り、そのアーチの中に『エトワールの凱旋門』が、スッポリと重なって見える事となる。

普通、都会には存在しない「視界を妨げない」一直線の空間が存在し、かつ凱旋門を二つ建てる歴史的背景が無いと、そのような光景は産まれない。

それがパリ。

その直線を、パリジャン達は「勝利の大通り」と名付けて、パリの街の構造と美観の<軸線>を形づくっている。



     
     シャンゼリゼ通りの反対側に新都心を望む


その反対側、シャンゼリゼと逆の方向に、70年代から造られて来たパリの新都心『ラ・デファンス』が立ち塞がる。


その行き止まりに、凱旋門そっくりの構造物がある。

1989年、革命200周年を祝いつつ、新都心の一期工事完成をも祝う為に、21世紀を迎えるにあたって、新しい未来へのシンボルとして造られた、白大理石の四角いビルである。

『グランド・アルシュ(=大きな箱船)』

日本では、誰とも無く「新凱旋門」などと呼ばれてしまって、命名のニュアンスが消えてしまった。

120メートルの四角く平たいビルを、上下左右に組み合わせた、枡形の建物である。


     
     新都心の「グランド・アルシュ」


シャンゼリゼ通りの外れの「コンコルド広場」から、エトワールの凱旋門を望むと、そのアーチの中に、この新凱旋門『グランド・アルシュ』がスッポリと重なって見える。

空間の存在から言って、4世紀の「パリの市民」の町づくりの価値観の永続性を、見事に示している。



     
     エトワールの凱旋門の天井部


ナポレオンが、この凱旋門をくぐる事が出来たのは、没後19年目。

流刑地『セント・ヘレナ島』から棺となって帰還する事となったナポレオンは、1840年12月15日、パリに帰り着き、「自分の」凱旋門を始めて「無言で」くぐる事が出来た。

それ以後、凱旋門は「フランス国家の栄光の象徴」として、さまざまな儀式式典の舞台となる。



そして、20世紀。

第一次世界大戦で、フランスだけで160万名にも及ぶ戦死者を出した。

その中には、身元の判明しない戦死者が多数に及んだ。

縦横にアーチが交差する、凱旋門の真下に、その中の一人を葬って讃えた。

それ以来、単に「フランスの栄光の象徴」という存在だけでは無くなり、「祖国の為に命を捧げた」総ての人々の、共通の記念碑となる。


     
     無名戦士の墓


つまり、千鳥ヶ淵の『国立戦没者記念碑』に相当するか。

宗教性は全く無いので、日本の「靖国神社」とは全く違う、純粋な追悼の存在となった訳だ。


毎日、18時0分から、何らかの式典が行われている。

「何とかの戦いの記念日」
「どこそこの軍人会の記念日」

エトワール広場全体を埋め尽くす大規模な事も有るが、数十名しか居ない事も有るものの、毎日式典が行われる。

式服に身を固めた軍楽隊が、勢揃いするさまは、圧巻である。



     
     無名戦士を見続ける炎


     
     墓碑銘


「1914年から1918年の戦いに没した、一フランス人兵士ここに眠る」と刻まれている。


階段で50m登れば、上の部分に、無名戦士にまつわる資料の展示と、数々の式典に手向けられた「棕櫚の小枝」が飾られている。


ちなみに、第一次大戦は現代戦争の幕開けを告げる、大規模消耗戦であった。

独仏国境に近い『ロレーヌ地方』のヴェルダンの戦場では、敵味方入り混じって、数えきれない数の戦死者が、累々と横たわっていた。

その中の一人を「無作為に選んで」葬ったのだが、今では、必ずしも「フランス人兵士」とは断定出来ない、と言われている。

さらに、「在仏アルジェリア人部隊」も参戦していた為、イスラム教徒の遺骨である可能性すら、語られている。


そこでこんにちでは、あえてDNA鑑定などせず、「敵味方」を越えて、普遍的に『戦争犠牲者』を祀って、戦争と言う悲惨な記憶を風化させない様にするシンボルである、と言う事となった。



それにしても、周りを車で走る度に、このような物が存在する事自体に、感動する。

そして、実際にエトワールの凱旋門の下に立って、真下から見上げると、その「巨大さ」に圧倒されてしまう。



     


ナポレオン、偉大なり。




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4 コメント

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放射線状の大通りの素晴らしい事! (Himbeere)
2011-11-21 20:07:04
パリさま、
何時もありがとうございます。

確かにエッフェル塔ですね!近頃ラスベガスにも有りますが・・・。泊まったことが有ります。(爆)
冗談はさて置き、凱旋門の彫刻をこんなにきちんと見た事が有りませんでした。勿論首が痛くなって見ても、見れませんが・・・。^^そんなに沢山の彫刻家が作ったとは、存じませんでした。パリに行きますと、買い物とお食事に勤しみ、反省です。^^;

このルーブルまで続く一本道、本当に凄いです。上に上がればよかったです。次回は、足がモゾモゾしても、上ります。^^;
田園調布の町並みは、この凱旋門を中心に放射線状に沢山の大通りがあるここを真似した、と言われておりますね。

次回も楽しみに致しております。^^
返信する
Unknown (mido_rin5)
2011-11-21 23:17:38
こんばんは
凱旋門もシャンゼリゼ大通りの町並みも圧巻です。すばらしいですね。コウ兵衛さま、うらやましすぎます。
いつか訪れることができたらいいのですけれど・・・。夢ですね。

パリと言えば、、、確かにエッフェル塔、凱旋門ですが、私の場合はもうひとつあってそれはボンヌフです。
写真でしか見たことはないのですが、昔憧れていた人から「ボンヌフは橋という意味があるからボンヌフ橋とは言わないんだよ」と聞いたことがありまして。
他に記憶に残っていても良さそうな事はすっかり忘れてるのに、なぜかボンヌフは覚えているのです。ボンヌフって一度聞いたら忘れられない言葉な感じがしますが、そんなことないかな?ヌフって言う響きがね(笑)ヌフですもの。




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Himbeereさま。 (時々パリ)
2011-11-27 03:40:50
コメントありがとう御座いました。
お返事遅れました、お許し下さい。
ラスベガスは恐るべし(!)ですね。
ピラミッド型ホテルやら(爆笑)
パリで、お買い物とお食事は欠かせない楽しみですが、高い所も良いですよ。
エッフェル塔と、ノートル・ダムの鐘楼。
是非、高所恐怖症を克服して下さいませ。
返信する
mido_rin5さま。 (時々パリ)
2011-11-27 03:48:52
コメントありがとう御座いました。
TWではお世話になってますが、拙ブログのコメントは、もしかしたら始めてでしたか?
それなら「初めまして」。
それとも、私が忘れているのでしたら、お許し下さい。
「夢ですね」何て事は有りませんよ。
たった12時間も有れば来られます。
ヒコーキ代も、今や大安売り状態です。
「その気になる事」ですよ。
Pont(ポン)が橋。
Neuf(ヌフ)が新しい。
つまりNew Brigeと言う名前の橋です。
架けた時、一番新しい橋だから「新橋」と名付けて、その後それ以前から架かっていた橋は総て架け替えられて、名前が変わりました。
従って、今では一番古い橋で、名前は変えていないので新橋です。
『ヌ』と言う音は、何となくフランス的ですね。
わたしは「紅顔の美少年」だった頃、フランス映画だったか、小説だったかに登場する女性の名前が「ジュぬヴィエーヴ」で、もの凄くエキゾチックに感じました。
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