予てより「右翼」が『日教組』を亡国集団呼ばわりしていた。
私自身は、それには賛成しかねる立場であった。
学生、生徒時代を通じて、私は「先生」に憧憬の念を抱いて来た。
尊敬して来た。
ところが、近年「国歌」と「国旗」への拒否反応と、その感情の生徒達への伝達手段に、多いに疑問を抱かざるを得ない状況になって来ている。
『君が代』を嫌悪する。
『日の丸』を忌み嫌う。
個人的な「嗜好」は、各自夫々であり、政治的価値観や思想信条も各自各々違っていて、当然である。
その点に関しては、一切の異議はない。
そして、国歌を拒否する、国旗を否定する人々の意見も心情も、理解出来る。
だがしかし。
それらの「国歌と国旗とへの嫌悪感」の表明は、あくまで「個人的問題」である、と考える。
しかして、「教師」は一部私学の教員を除いて「公務員」である。
そして、公務員は国家の定めに従わなければならない。
個人的思想信条や好き嫌いの感情の表現は、「私人」としての立場ででしか、なされてはならないと考える。
それが、公務員と言うものだ。
生徒や父兄の前で、式典に臨む教師が「国歌」を歌う事を拒否し、生徒に「歌わせない」様に騒動を起こす事は、公務員の立場として許されない事だと、考える。
もし、国歌を歌わされる事が嫌なら、公務員としての教師をお辞めなさい。
もし、国旗に敬意を払う事を拒否したければ、国の禄を食む事を、お止めなさい。
もし、公務員で居たければ、公人としての立場の機会では、国の旗と国の歌とを、騒ぎを起こして否定するべきでは無い。
たとえ、血塗られた旗であっても。
たとえ、子供達を戦地に送り出した旗であっても。
公的に国を代表する立場の公務員が、公衆の面前で「騒ぎを起こして」否定する事は、立場上許されない事である筈だ。
私はこの場で、『日の丸』と『君が代』との<正当性>について論じるつもりは、無いのです。
あくまで、公務員としての「立場」の持つ意味を忘れてはならない、と言いたいのです。
職業選択の自由は、憲法で認められている。
公務員が、国家に忠誠を尽くすべき事も、法制上決まっている。
だったら、話は簡単である。
職業を選ぶか。
国旗と国家を否定する「哲学」を選ぶか。
違うだろうか。
日に丸の歴史的背景を否定するのであれば、その旗を「国旗」では無くす様に、運動すれば良い。
君が代を認めないのであれば、その歌を廃止する様な、社会的運動を造り出せば良い。
もし、卒業式の「父兄席」に座っている立場であれば、式典の最中に「大声で」君が代斉唱の邪魔をしても、構わない。
式典の雰囲気をぶちこわしてしまう事が、全く些細な事であると判断するのなら、そうすれば良い。
しかし、国家試験を「自らの意思」で受験して、教員資格を授けられているのならば、その「雇い主」である『国家』の定める行動規範は、遵守しなければならない。
どうしても、「君が代」を歌う事が自分に対しても、他人に対しても、許せないのであれば、教師にならなければ良い。
卒業式で、国歌斉唱時に起立する事を拒否する教師は、立場をはき違えている。
そして。
▶都教組「竹島、日本領と言えぬ」内部資料で政府見解否定(産経見出し)
>東京都教職員組合(都教組)が今夏の中学校教科書採択にあたり、教員向けに各教科書を比較検討した資料の中で、日本固有の領土である竹島について「日本領と言える歴史的な根拠はない」と、日本政府の見解を否定していたことが27日、分かった。公教育の現場で誤った領土認識が教えられている疑いがある。
>「もし、この記述通り『竹島は日本固有の領土』『韓国が不法に占拠』という政府の一方的な見解を学校で教えることになれば、『感情的なナショナリズム』を子供たちに植えつけることにもなりかねない」と懸念。
>その上で「竹島は尖閣諸島や北方四島と違い、『日本固有の領土』と言える歴史的な根拠はない」と断定している。
>都教組は産経新聞の取材に対し「竹島についての記述は日本政府の見解だけでなく、相手国にも意見があることを子供たちに教える必要があるという意味で書いたもの」としている。
【産經新聞/10月28日(金)7時55分配信】
『東京都教職員組合』の組合員教師に問う。
君たちは、誰に雇われているのだ?
その前に、君たちは「なに人」なのか?
>「もし、この記述通り『竹島は日本固有の領土』『韓国が不法に占拠』という政府の一方的な見解を学校で教えることになれば、『感情的なナショナリズム』を子供たちに植えつけることにもなりかねない」と懸念。
なんだって?
そのようなへ理屈では、君たち教師達は『偏狭な』亡国思想を、子供達に植え付けて恥じないと言う事になる。
>「竹島についての記述は日本政府の見解だけでなく、相手国にも意見があることを子供たちに教える必要があるという意味で書いたもの」
なんって?
「相手国に意見が有って」当たり前だ。
各国それぞれ主張は有る。
君たちは、なに人で、どこの国の子供達の為に「教師」をしているのかを、問いたい。
日本の学校の教室で、日本人の子供達に、『竹島』が日本固有の領土であると言う、「日本の見解を教える代わりに」、日本国政府の見解とは異なる国の、異なる見解が有る事だけを教えたいのなら、日本国の見解と異なる見解の国で、教師になられるが宜しかろう。
即刻日本の「教員免状」を返還されたい。
▶都教組の反政府的資料 イデオロギー押し付け(産経見出し)
>東京都教職員組合(都教組)が教員向けに作成した各教科書の比較検討資料は、日本政府の見解である竹島の日本領を根拠なく否定するなど、反政府的な組合のイデオロギーを採択に反映させ、子供たちに押し付けようとするものだ。
>「教科書を実際に使う教員の意向を尊重すべきだ」という組合側の主張は一部には聞こえはよいのだろうが、公教育の現場で政府見解に反するイデオロギーが尊重されるという事態があってはならない。
【産經新聞/10月28日(金)7時55分配信】
今回に限り、(おそらく唯一の)例外として、私は『産經新聞』の論調を支持する。
労組が左翼的立場に立つ事は、世界的な傾向である。
その心情は、痛いほど理解出来る。
私自身が、若かった頃は「左翼の立場」に居た訳だし、「国家権力」に激しい憎悪を持って、デモに参加したりもしていた。
未だに、「権力」とか「国家」とか言う言葉には、自然に体が反応してしまう所が残っている事を、否定しない。
さらに、「教師」も労働者で有る、と言う立場も理解する。
労働者である以上、「労組」を組織して「国家」に立ち向かう必要が有る事も、理解する。
しかし。
教組が、単なる労組と同じになってしまっては、混乱が生じるのでは無いか。
少なくとも、日本の共通認識と「異なる政治信条」を、或は「異なる歴史観」を、<教師の立場>で生徒達に押し付ける事には、私は組みしない。
反戦思想を教える事は、大切な事である。
過去の負の歴史を「隠す事無く」次の世代に伝えて行く事は、不可欠なことである。
そのような「思想教育」は、夫々の先生方の「自然を愛する心根」や「人間を大切にする価値観」などの<日常の態度>から、生徒達に充分受け伝えられて行く筈だ。
日の丸が、かつてどのような使われ方をしたのか。
日の丸と対をなして、君が代が、どのような歌われ方をしたのか。
そもそも、「君が代」と言う歌の国家としての正当性や、存在意義はどうなっているのか。
こう言う事は、常日頃の行動で「平和」と「反戦」と「人間愛」とを通じて教えて行く。
その上で、日本国民として、日本国の国土で暮らしている以上、「国に属する個人」との感覚は、育ててやらなければならない。
嫌でも「日本人」なのだから。
そして、日本人である以上、時と場合に因って「国旗」や「国歌」には『敬意』を払わなければなら無い事も、教えなければならない。
その上で、日の丸や君が代が嫌であるのならば、それを「合法的手段」で変えて行く行動を、社会に生み出して行かなければならない。
その上で、自分達が納得出来る「国旗」なり「国歌」なりを、作れば良い。
その原則論に立って、敢えて言うが。
教師と言う「公人」の立場で、国旗や国歌を拒否してみせる事が、平和教育では無い。
白状すれば、歴史的背景を一切抜きにして、私は「日の丸」と「君が代」は嫌いでは無い。
拙ブログで、以前から散々論じて来た通り、私個人は「お花畑」的反戦論者で、護憲主義者である。
それなのに。
「日の丸」は美しいと思っている。
「君が代」は、荘厳だと思っている。
もし、新たに国旗と国歌を制定するとしても、これ以上の物は出来ないだろうと、思っている。
日の丸が悪いのでは無い。
日の丸を利用して、戦争政策へと突っ走った、その一団と、それを拒否しなかった国民とが、悪いのだ。
増々増えて行く「差別用語」と同じ事。
言葉に罪は無い。
それを、差別の意識を持って使う側が、悪いのだ。
差別の意識を持って使うから、差別になってしまうのだ。
その延長線上に、日教組の行動様式の勘違いも有ると思う。
国家が、国民の安全と財産とを踏みにじる様な政策を取る様な事が有れば、躊躇無く立ち上がらなければならない。
体を張って、抵抗しなければならない。
教師である、無い、は関係ない。
政府が「反国民的」になった際は、立ち上がって反抗する事は、全国民の義務である。
しかし、『竹島』を日本の固有の領土である、とする事が、反国民的政策だと言えるのか?
例えば日教組は、なぜ<TPP>に反対しないのだ。
農村部の学校の教師達は、なぜTPPに反対の声を上げないのだ。
経済学部を目指す生徒達の指導に当たっている教師達は。
医学部進学を目指す生徒達を指導する立場の教師達は。
なぜ、PTT反対を唱えないのだ。
なぜ、体を張った行動をとらないのだ。
原発事故で、放射性物質が降り注ぐ地域の教師達が、なぜ子供達に疎開を勧めないのだ。
放射線で汚染されている可能性が極めて高い食品を、なぜ給食に使わせて黙っているのだ。
その給食を、なぜ子供達に食べさせて平気なのだ。
その給食を拒否して、弁当を持参したい生徒達を、なぜ「非国民」呼ばわりするのだ。
やっている事は、日の丸を振り立てて「戦地」へ出征する子供達を送り出した、あのときの教師達と、同じでは無いか。
戦争と、死への疑問を口にしただけで、生徒達を非国民扱いした、当時の教師達と、どこが違うのだ。
大真面目で『ご真影』に一礼し、全員揃って大声で「君が代」を歌わせていた、当時の教師達と、どこが違うのだ。
答えられるなら、答えてみよ。
そんな教師達に、公務員の立場もわきまえず「君が代」斉唱を妨害し、日の丸掲揚を拒否する資格など、無い。
ましてや、国土の領有権に関する問題に、「相手国」の立場に立って生徒を誘導する事など、許される事では無い。
再度、敢えて「都教組」の組合員達に問う。
『韓国』の教師達が、「独島の帰属には韓国政府の見解だけでは無く、相手国にも意見が有る事を、子供達に教える義務が有る」なんて言うだろうか?
「『独島は韓国固有の領土』『日本が不法に領有権を主張』という政府の一方的な見解を学校で教えることになれば、『感情的なナショナリズム』を子供たちに植えつけることにもなりかねない」と懸念、するだろうか?
何に反対せねばならないのか。
何を護らねばならないのか。
自分は、どちらの立場の人間なのか。
どこの国民なのか。
どこの国から、俸給を得ているのか。
どこの国の政府に雇われているのか。
どこの国で、生きているのか。
考えよ。
考えた上で、このような大マヌケな行動をとり続ける事は、これをもってキッパリと止める事だ。
教員には、崇高な義務が有る。
次世代の国民を、正しい人間に育てる事。
同胞の子弟を、偏った思想の持ち主には、育てない事。
自分を愛し。
親や兄弟や、家族を愛し。
友人や、周囲の総ての人々を愛し。
自分が生まれ育った、かけがえの無い大地を愛し。
その大地が生み出して来た、素晴らしい独自の文化を愛し。
それらが総て包括されている、自分の国家を愛する。
そのような、次の世代の国民を育てる事。
それが、教師である君たちの使命である筈だ。
国家の主権に関わる事を、「利敵行為」に等しい態度で、子供達の感性をねじ曲げる様な事は、やってはならない。
如何しても、そのような運動をしたければ、教職を辞して、市民運動家にでも、新左翼の活動家(未だに居るらしいですね)にでも、なるが良い。
或は、居留民団か朝鮮総連にでも、雇って頂く事を強くお勧めする。
右翼が『街宣車』から喚き立てている通り、「日教組」とは売国者集団だったのか…。
そして、以上の事は、霞ヶ関に救っている総ての官僚達に、等しく言える事である。
日本の国益に背く事を、日本国民の生活と安全とを売り渡す様な事を、如何してもやりたければ、とっとと日本から出て行け!
私自身は、それには賛成しかねる立場であった。
学生、生徒時代を通じて、私は「先生」に憧憬の念を抱いて来た。
尊敬して来た。
ところが、近年「国歌」と「国旗」への拒否反応と、その感情の生徒達への伝達手段に、多いに疑問を抱かざるを得ない状況になって来ている。
『君が代』を嫌悪する。
『日の丸』を忌み嫌う。
個人的な「嗜好」は、各自夫々であり、政治的価値観や思想信条も各自各々違っていて、当然である。
その点に関しては、一切の異議はない。
そして、国歌を拒否する、国旗を否定する人々の意見も心情も、理解出来る。
だがしかし。
それらの「国歌と国旗とへの嫌悪感」の表明は、あくまで「個人的問題」である、と考える。
しかして、「教師」は一部私学の教員を除いて「公務員」である。
そして、公務員は国家の定めに従わなければならない。
個人的思想信条や好き嫌いの感情の表現は、「私人」としての立場ででしか、なされてはならないと考える。
それが、公務員と言うものだ。
生徒や父兄の前で、式典に臨む教師が「国歌」を歌う事を拒否し、生徒に「歌わせない」様に騒動を起こす事は、公務員の立場として許されない事だと、考える。
もし、国歌を歌わされる事が嫌なら、公務員としての教師をお辞めなさい。
もし、国旗に敬意を払う事を拒否したければ、国の禄を食む事を、お止めなさい。
もし、公務員で居たければ、公人としての立場の機会では、国の旗と国の歌とを、騒ぎを起こして否定するべきでは無い。
たとえ、血塗られた旗であっても。
たとえ、子供達を戦地に送り出した旗であっても。
公的に国を代表する立場の公務員が、公衆の面前で「騒ぎを起こして」否定する事は、立場上許されない事である筈だ。
私はこの場で、『日の丸』と『君が代』との<正当性>について論じるつもりは、無いのです。
あくまで、公務員としての「立場」の持つ意味を忘れてはならない、と言いたいのです。
職業選択の自由は、憲法で認められている。
公務員が、国家に忠誠を尽くすべき事も、法制上決まっている。
だったら、話は簡単である。
職業を選ぶか。
国旗と国家を否定する「哲学」を選ぶか。
違うだろうか。
日に丸の歴史的背景を否定するのであれば、その旗を「国旗」では無くす様に、運動すれば良い。
君が代を認めないのであれば、その歌を廃止する様な、社会的運動を造り出せば良い。
もし、卒業式の「父兄席」に座っている立場であれば、式典の最中に「大声で」君が代斉唱の邪魔をしても、構わない。
式典の雰囲気をぶちこわしてしまう事が、全く些細な事であると判断するのなら、そうすれば良い。
しかし、国家試験を「自らの意思」で受験して、教員資格を授けられているのならば、その「雇い主」である『国家』の定める行動規範は、遵守しなければならない。
どうしても、「君が代」を歌う事が自分に対しても、他人に対しても、許せないのであれば、教師にならなければ良い。
卒業式で、国歌斉唱時に起立する事を拒否する教師は、立場をはき違えている。
そして。
▶都教組「竹島、日本領と言えぬ」内部資料で政府見解否定(産経見出し)
>東京都教職員組合(都教組)が今夏の中学校教科書採択にあたり、教員向けに各教科書を比較検討した資料の中で、日本固有の領土である竹島について「日本領と言える歴史的な根拠はない」と、日本政府の見解を否定していたことが27日、分かった。公教育の現場で誤った領土認識が教えられている疑いがある。
>「もし、この記述通り『竹島は日本固有の領土』『韓国が不法に占拠』という政府の一方的な見解を学校で教えることになれば、『感情的なナショナリズム』を子供たちに植えつけることにもなりかねない」と懸念。
>その上で「竹島は尖閣諸島や北方四島と違い、『日本固有の領土』と言える歴史的な根拠はない」と断定している。
>都教組は産経新聞の取材に対し「竹島についての記述は日本政府の見解だけでなく、相手国にも意見があることを子供たちに教える必要があるという意味で書いたもの」としている。
【産經新聞/10月28日(金)7時55分配信】
『東京都教職員組合』の組合員教師に問う。
君たちは、誰に雇われているのだ?
その前に、君たちは「なに人」なのか?
>「もし、この記述通り『竹島は日本固有の領土』『韓国が不法に占拠』という政府の一方的な見解を学校で教えることになれば、『感情的なナショナリズム』を子供たちに植えつけることにもなりかねない」と懸念。
なんだって?
そのようなへ理屈では、君たち教師達は『偏狭な』亡国思想を、子供達に植え付けて恥じないと言う事になる。
>「竹島についての記述は日本政府の見解だけでなく、相手国にも意見があることを子供たちに教える必要があるという意味で書いたもの」
なんって?
「相手国に意見が有って」当たり前だ。
各国それぞれ主張は有る。
君たちは、なに人で、どこの国の子供達の為に「教師」をしているのかを、問いたい。
日本の学校の教室で、日本人の子供達に、『竹島』が日本固有の領土であると言う、「日本の見解を教える代わりに」、日本国政府の見解とは異なる国の、異なる見解が有る事だけを教えたいのなら、日本国の見解と異なる見解の国で、教師になられるが宜しかろう。
即刻日本の「教員免状」を返還されたい。
▶都教組の反政府的資料 イデオロギー押し付け(産経見出し)
>東京都教職員組合(都教組)が教員向けに作成した各教科書の比較検討資料は、日本政府の見解である竹島の日本領を根拠なく否定するなど、反政府的な組合のイデオロギーを採択に反映させ、子供たちに押し付けようとするものだ。
>「教科書を実際に使う教員の意向を尊重すべきだ」という組合側の主張は一部には聞こえはよいのだろうが、公教育の現場で政府見解に反するイデオロギーが尊重されるという事態があってはならない。
【産經新聞/10月28日(金)7時55分配信】
今回に限り、(おそらく唯一の)例外として、私は『産經新聞』の論調を支持する。
労組が左翼的立場に立つ事は、世界的な傾向である。
その心情は、痛いほど理解出来る。
私自身が、若かった頃は「左翼の立場」に居た訳だし、「国家権力」に激しい憎悪を持って、デモに参加したりもしていた。
未だに、「権力」とか「国家」とか言う言葉には、自然に体が反応してしまう所が残っている事を、否定しない。
さらに、「教師」も労働者で有る、と言う立場も理解する。
労働者である以上、「労組」を組織して「国家」に立ち向かう必要が有る事も、理解する。
しかし。
教組が、単なる労組と同じになってしまっては、混乱が生じるのでは無いか。
少なくとも、日本の共通認識と「異なる政治信条」を、或は「異なる歴史観」を、<教師の立場>で生徒達に押し付ける事には、私は組みしない。
反戦思想を教える事は、大切な事である。
過去の負の歴史を「隠す事無く」次の世代に伝えて行く事は、不可欠なことである。
そのような「思想教育」は、夫々の先生方の「自然を愛する心根」や「人間を大切にする価値観」などの<日常の態度>から、生徒達に充分受け伝えられて行く筈だ。
日の丸が、かつてどのような使われ方をしたのか。
日の丸と対をなして、君が代が、どのような歌われ方をしたのか。
そもそも、「君が代」と言う歌の国家としての正当性や、存在意義はどうなっているのか。
こう言う事は、常日頃の行動で「平和」と「反戦」と「人間愛」とを通じて教えて行く。
その上で、日本国民として、日本国の国土で暮らしている以上、「国に属する個人」との感覚は、育ててやらなければならない。
嫌でも「日本人」なのだから。
そして、日本人である以上、時と場合に因って「国旗」や「国歌」には『敬意』を払わなければなら無い事も、教えなければならない。
その上で、日の丸や君が代が嫌であるのならば、それを「合法的手段」で変えて行く行動を、社会に生み出して行かなければならない。
その上で、自分達が納得出来る「国旗」なり「国歌」なりを、作れば良い。
その原則論に立って、敢えて言うが。
教師と言う「公人」の立場で、国旗や国歌を拒否してみせる事が、平和教育では無い。
白状すれば、歴史的背景を一切抜きにして、私は「日の丸」と「君が代」は嫌いでは無い。
拙ブログで、以前から散々論じて来た通り、私個人は「お花畑」的反戦論者で、護憲主義者である。
それなのに。
「日の丸」は美しいと思っている。
「君が代」は、荘厳だと思っている。
もし、新たに国旗と国歌を制定するとしても、これ以上の物は出来ないだろうと、思っている。
日の丸が悪いのでは無い。
日の丸を利用して、戦争政策へと突っ走った、その一団と、それを拒否しなかった国民とが、悪いのだ。
増々増えて行く「差別用語」と同じ事。
言葉に罪は無い。
それを、差別の意識を持って使う側が、悪いのだ。
差別の意識を持って使うから、差別になってしまうのだ。
その延長線上に、日教組の行動様式の勘違いも有ると思う。
国家が、国民の安全と財産とを踏みにじる様な政策を取る様な事が有れば、躊躇無く立ち上がらなければならない。
体を張って、抵抗しなければならない。
教師である、無い、は関係ない。
政府が「反国民的」になった際は、立ち上がって反抗する事は、全国民の義務である。
しかし、『竹島』を日本の固有の領土である、とする事が、反国民的政策だと言えるのか?
例えば日教組は、なぜ<TPP>に反対しないのだ。
農村部の学校の教師達は、なぜTPPに反対の声を上げないのだ。
経済学部を目指す生徒達の指導に当たっている教師達は。
医学部進学を目指す生徒達を指導する立場の教師達は。
なぜ、PTT反対を唱えないのだ。
なぜ、体を張った行動をとらないのだ。
原発事故で、放射性物質が降り注ぐ地域の教師達が、なぜ子供達に疎開を勧めないのだ。
放射線で汚染されている可能性が極めて高い食品を、なぜ給食に使わせて黙っているのだ。
その給食を、なぜ子供達に食べさせて平気なのだ。
その給食を拒否して、弁当を持参したい生徒達を、なぜ「非国民」呼ばわりするのだ。
やっている事は、日の丸を振り立てて「戦地」へ出征する子供達を送り出した、あのときの教師達と、同じでは無いか。
戦争と、死への疑問を口にしただけで、生徒達を非国民扱いした、当時の教師達と、どこが違うのだ。
大真面目で『ご真影』に一礼し、全員揃って大声で「君が代」を歌わせていた、当時の教師達と、どこが違うのだ。
答えられるなら、答えてみよ。
そんな教師達に、公務員の立場もわきまえず「君が代」斉唱を妨害し、日の丸掲揚を拒否する資格など、無い。
ましてや、国土の領有権に関する問題に、「相手国」の立場に立って生徒を誘導する事など、許される事では無い。
再度、敢えて「都教組」の組合員達に問う。
『韓国』の教師達が、「独島の帰属には韓国政府の見解だけでは無く、相手国にも意見が有る事を、子供達に教える義務が有る」なんて言うだろうか?
「『独島は韓国固有の領土』『日本が不法に領有権を主張』という政府の一方的な見解を学校で教えることになれば、『感情的なナショナリズム』を子供たちに植えつけることにもなりかねない」と懸念、するだろうか?
何に反対せねばならないのか。
何を護らねばならないのか。
自分は、どちらの立場の人間なのか。
どこの国民なのか。
どこの国から、俸給を得ているのか。
どこの国の政府に雇われているのか。
どこの国で、生きているのか。
考えよ。
考えた上で、このような大マヌケな行動をとり続ける事は、これをもってキッパリと止める事だ。
教員には、崇高な義務が有る。
次世代の国民を、正しい人間に育てる事。
同胞の子弟を、偏った思想の持ち主には、育てない事。
自分を愛し。
親や兄弟や、家族を愛し。
友人や、周囲の総ての人々を愛し。
自分が生まれ育った、かけがえの無い大地を愛し。
その大地が生み出して来た、素晴らしい独自の文化を愛し。
それらが総て包括されている、自分の国家を愛する。
そのような、次の世代の国民を育てる事。
それが、教師である君たちの使命である筈だ。
国家の主権に関わる事を、「利敵行為」に等しい態度で、子供達の感性をねじ曲げる様な事は、やってはならない。
如何しても、そのような運動をしたければ、教職を辞して、市民運動家にでも、新左翼の活動家(未だに居るらしいですね)にでも、なるが良い。
或は、居留民団か朝鮮総連にでも、雇って頂く事を強くお勧めする。
右翼が『街宣車』から喚き立てている通り、「日教組」とは売国者集団だったのか…。
そして、以上の事は、霞ヶ関に救っている総ての官僚達に、等しく言える事である。
日本の国益に背く事を、日本国民の生活と安全とを売り渡す様な事を、如何してもやりたければ、とっとと日本から出て行け!
・・・・
白状すれば、歴史的背景を一切抜きにして、私は「日の丸」と「君が代」は嫌いでは無い。
「日の丸」は美しいと思っている。
「君が代」は、荘厳だと思っている。
もし、新たに国旗と国歌を制定するとしても、これ以上の物は出来ないだろうと、思っている。
・・・・
パリコミューンを賛美し、フクイチへの市民の闘いを鉄砲を使わない内戦と見なした貴方の口から、天皇(制)賛美の言辞を聞くことになるとは・・・衝撃です。
戦争に反対することは国家の意思に逆らうことであり、公務員であろうとも抵抗の権利があることは自明のはずです。パリコミューンにせよロシア革命にせよ、公務員・軍隊の反乱ー命令の拒否ーによるものです。
敬愛する「晴れのち曇り、時々パリ」さん!
日本はいま「ハシズム」に象徴される全体主義の落とし穴にはまり込む瀬戸際にいます。いま大切なことは国家を超える思想を打ち出すことです。
上記の言辞が一時的な迷・妄・失言であることを祈ります。
コメントありがとうございました。
私も、左翼崩れである以上、「天皇制」に批判的に、「君が代」や「日の丸」に、攻撃的な物を書けば、受ける事は理解しています。
ただ、教条的立場だけで語っていると、生きた人間の感覚が無くなって行く様な気がしました。
橋下の行動を袋だたきにすれば、多くの方に好意的に受け取って頂けるでしょう。
公務員の「存在の意義」に拘って、日の丸のデザインに、君が代の旋律にこだわって、思想的背景を抜きに、拙文を書いてみました。
詳しいお答えを、ブログに一節をとって、書いてみましたが、自分で自分の考え方を理論的に説明出来ませんでした。
失望された事は、私の限界です。
微妙な主題に、力不足の駄文で、矛盾する思いを正確に表し切れていませんが、共感して頂けたのでしたら、幸いでした。