中世に有っては、人の人生は今以上に「た易い物」では無かった筈だ。
ペストが大流行していた。
町が壊滅状態になる。
人口が4分の一、5分の一となり、経済が破綻した。
イングランド王家と、フランス王家とが、領地を巡って4世紀の戦いを続けた。
最後の百年は、単に両王家の領地争いの次元を越えて、フランスの主権争いにまで発展し、いわゆる『百年戦争』を迎えた。
庶民は、堪った物では無かったろう。
商工業による「貨幣経済」と言うより、未だ農村に依存した「物々交換」経済が重きを占めていた頃、国民の8割は農民であった。
その農民が、国家の疲弊時には、一番影響を受けた。
畑は踏み荒らされ、働き手は兵隊に取られる。
庶民は、戦いの作戦の過程で、容赦なく村を焼かれ、家を破壊された。
落ち武者の蛮行に怯え、戦いの巻き添えを食う事を恐れ、疫病に苦しみ、税に喘いでいた。
そんな庶民に取って、唯一の救いは。
神にすがる事。
来世に期待する事。
それこそが、現実の苦しみから逃れうる、恐らく唯一の手段で有ったであろう。
『巡礼』
来世と言っても、仏教的「輪廻転生」の考え方は無い。
あくまで『最後の審判』に呼ばれて、『神の裁き』に耐え、天国に召される事。
それを期待すればこそ、現実の苦難を我慢出来た。
しかし、生を受けて以来、知らないうちに「神の教え」に逆らっていて、『審判』を待つまでもなく、既に「地獄行き」が決まっているとしたら。。。
考えるだけでも恐ろしい。
何とか、「今この時」までに犯したであろう<罪>を、償っておきたい。
この考えから、中世から近世にかけてのヨーロッパでは、身分を問わず『巡礼者』が引きも切らさなかった。
キリスト教の発祥地『パレスティナ』には行きたくとも無理な事は分かっている。
自国内の旅であってすら、身の安全の確保の補償は全く無い。
ましてや、異民族の、異教徒の支配する土地へ、何年もかけての旅等、絶対に不可能。
せめて、キリスト教徒の土地で。
イエス自身に後を託された『ペテロ』の葬られたローマ。
しかし、アルプスは越えられない。
雪の2000メートルの峠。
しからば、アルプスを越えずに行ける所は?
12人の弟子の一人『ヤコブ』の遺体が流れ着いて、葬られたスペイン最北西端。
ヤコブのお墓に詣でよう!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/53/6af45448346a4dc1c493a348aad318e2.jpg)
至る所に存在する「旧巡礼路」の道標。
ヤコブが亡くなった後、海から沢山採れた「貝」を、ヤコブと名付けた。
聖ヤコブ、スペイン語で『サン・ティヤーゴ』に縋りたい巡礼者達が、ヨーロッパ中からフランスの幾つかの拠点に集まり、隊伍を組んで「サン・ティヤーゴ・デ・コンポステーラ」を目指した。
『聖ヤコブを葬った荒れ地=サン・チャーゴ・デ・コンポステーラ』は、一大聖地となった。
ホタテ貝が、巡礼者の目印。
喜捨や好意を受けられる通行手形。
ホタテ貝を胸に留め、瓢簞の水筒と杖。
この三点セットだけを頼りに、体一つで、何ヶ月も、何年も歩いて「聖地」を目指した。
行く先々で、教会や修道院に立ち寄り、夫々が所有している『聖遺物』にお参りしながら、スペインを目指す。
幾つものルートが、三本に合わさり、二本に合わさって、ピレネー山脈の二カ所の峠を越えた。
アルプスと違い、ピレネーは山も峠も、其れ其れアルプスより1000メートル低い。
必死でよじ上れば、越えられる筈だ。。。
その、「ピレネー」に向かう道筋を『サンチャゴへの道』と呼び、現在ユネスコに登録された『世界遺産』である。
サン・ジャン・ピエ・デュ・ポー村の通りに飾られた、『サンチャゴへの道』の絵図
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/22/6998a2262fdd7d173f1ed28705480d72.jpg)
『ユネスコの世界遺産登録認定証』
各所に、人々の日常の世界から隔絶されて、素朴な名刹や修道院が点在する。
そのルート上の、峠を越える直前、フランス側の最後の拠点が『サン・ジャン・ピエ・デュ・ポー』という村だ。
聖ヤコブは、フランス語では「サン・ジャック」。
サン・ジャンは『聖ヨハネ』。
その巡礼路の「出発の最後の拠点」が『聖ヨハネ』村。
「ピエ・デュ・ポー」とは、「出口の足元」と言う様な意味である。
「聖ヨハネの庇護から出て、いよいよ聖ヤコブの下へ向かう」とでも言うのが、村名の由来ででも有ろうか。
フランス側から南下して来て出会う、小高い丘の上に要塞が有る。
現在の要塞は、17世紀末『ヴォーバン元帥(五稜郭のタイプの城塞の発案者)』の手になる物だが、その脇に村の城門が有る。
現存する15世紀と17世紀の城壁に囲まれた村の入り口である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/8d/4103b0da0eb1b303e6c5f24eae23551a.jpg)
城門をくぐれば、なだらかな下り坂の狭い石畳の街路。
バスク地方独特の、赤茶色に塗られた「木の梁」の白壁の家並が、とても美しい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/7d/479602ec61ec03a7a4c3062f9aa9c5fe.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/63/d2b344b7bd1867cdf864fb44a7a23f47.jpg)
そのうちだんだん急坂となり、年輪を感じるすり減った石畳の、心地よい狭い道が、村の唯一の目抜き通りである。
かっては、聖ヤコブの祝日(7月半ば)に合わせて『サンチャゴ』に到着するべく、6月前後はヨーロッパ中からの巡礼者達で溢れかえった道なのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/f2/5b691105024b8ff1e4a520926f9c92ce.jpg)
「巡礼者巡礼宿泊可」の手作りの看板。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/bf/68bc186633cbe92ffb43f17a1db2377d.jpg)
通りの下り方角を見る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/15/f1e578f54747d1f5d3d1e1c3d56a1662.jpg)
振り返って上りの方向。
途中に、可愛らしい巡礼者が、お伴と共に休んでいた!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/a9/1481d03edeefee552b929d33b8bba2af.jpg)
この犬は、ご主人様を最後まで守って、巡礼を成功させようと、堅く心に誓っている様だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/2a/ac71e001b9c3603e860893150d5e9798.jpg)
気をつけて! 道中ツツが無くね。。。
うんと下って行くと、村の途中を横着る『ネーヴェ川』の直前に、教会と下の城門が有る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/b9/b9850339182d78fac3adc8da4ed8c86a.jpg)
この教会の内部は、バスクの伝統に習って、男達と別に座る「ご婦人方専用」の二階席を作ってある。
内部は暗過ぎて、写らなかった。。。
下の城門をくぐると、『ネーヴェ川』に掛かる小さな橋。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/08/966261577843f8cdd6faf5df19c4f8f1.jpg)
川岸の伝統的家屋の家並も素晴らしい。
この村を出て、半日行程で、峠となる。
現代では、車で1時間しか掛からない。
峠は1020メートル。
下って行くと、『牛追い祭り』で名高い『イルーネア』の町に至る。
車で2時間。
この町は、日本ではカスティーリャ語(標準スペイン語)で『パンプローナ』と言う呼び名で知られている。
サン・ジャンの村に有った「ルート図」の、スペイン側の最初の拠点『プエンテ・デ・ラ・レーナ』までは、車でも1時間半はかかる距離だ。
ここまで、巡礼者達は、一日でたどり着いたのだろうか、と心配になってしまう程である。
きっと、イルーネアで止まったに違いなかろう。
プエンテは「橋」
レーナは「王妃」
その名通り『リオ・アルガ』(アルガ川)に架かる橋は、ロマネスクの名橋。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/53/36eb291e331ca989b1581ecdbb77f4ca.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/66/3742a397e364dab580ab2130be23340f.jpg)
この橋は、巡礼者の為に11世紀に掛けられた。
小さな旧市街は、狭い通りが交錯し、非常にエキゾチックである。
レストランもない、「バル」と呼ぶカフェ兼食堂みたいな店が二件有るだけ。
しかし、町の入り口には、とても素敵なホテルが一件だけポツンと立っています。
(ちなみに、サン・ジャン・ピエ・デュ・ポーには、ミシュラン2つ星のレストランが有り、泊まる事も出来ます)
巡礼。
魂の洗濯。
人知を越えた存在への、生を希求する突き上げる様な精神的行為。
昨今の日本の悲惨な状況を見るに付け、精神の救済が欲しくなって来るのは、決して逃避では無い。
人間の、心の渇望である。
魂の叫びである。
サンチャーゴ・デ・コンポステーラに至るルート上の、重要な大司教の町『ブルゴス』の、カテドラルの横の広場に、疲れた体を休める巡礼者が、常に胸を張って町人を見ている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/f4/3ae26ba499143fde3944ec1ddea55f7b.jpg)
「人間の行いなど、小さい小さい」
「驕る事無く、尊大になる事無く、おのれの魂に恥じる所無く、俺は行きている」
そんな風な声が聞こえる様な気がする。。。
心だけでも、清らかに行きて行きたい。
ペストが大流行していた。
町が壊滅状態になる。
人口が4分の一、5分の一となり、経済が破綻した。
イングランド王家と、フランス王家とが、領地を巡って4世紀の戦いを続けた。
最後の百年は、単に両王家の領地争いの次元を越えて、フランスの主権争いにまで発展し、いわゆる『百年戦争』を迎えた。
庶民は、堪った物では無かったろう。
商工業による「貨幣経済」と言うより、未だ農村に依存した「物々交換」経済が重きを占めていた頃、国民の8割は農民であった。
その農民が、国家の疲弊時には、一番影響を受けた。
畑は踏み荒らされ、働き手は兵隊に取られる。
庶民は、戦いの作戦の過程で、容赦なく村を焼かれ、家を破壊された。
落ち武者の蛮行に怯え、戦いの巻き添えを食う事を恐れ、疫病に苦しみ、税に喘いでいた。
そんな庶民に取って、唯一の救いは。
神にすがる事。
来世に期待する事。
それこそが、現実の苦しみから逃れうる、恐らく唯一の手段で有ったであろう。
『巡礼』
来世と言っても、仏教的「輪廻転生」の考え方は無い。
あくまで『最後の審判』に呼ばれて、『神の裁き』に耐え、天国に召される事。
それを期待すればこそ、現実の苦難を我慢出来た。
しかし、生を受けて以来、知らないうちに「神の教え」に逆らっていて、『審判』を待つまでもなく、既に「地獄行き」が決まっているとしたら。。。
考えるだけでも恐ろしい。
何とか、「今この時」までに犯したであろう<罪>を、償っておきたい。
この考えから、中世から近世にかけてのヨーロッパでは、身分を問わず『巡礼者』が引きも切らさなかった。
キリスト教の発祥地『パレスティナ』には行きたくとも無理な事は分かっている。
自国内の旅であってすら、身の安全の確保の補償は全く無い。
ましてや、異民族の、異教徒の支配する土地へ、何年もかけての旅等、絶対に不可能。
せめて、キリスト教徒の土地で。
イエス自身に後を託された『ペテロ』の葬られたローマ。
しかし、アルプスは越えられない。
雪の2000メートルの峠。
しからば、アルプスを越えずに行ける所は?
12人の弟子の一人『ヤコブ』の遺体が流れ着いて、葬られたスペイン最北西端。
ヤコブのお墓に詣でよう!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/53/6af45448346a4dc1c493a348aad318e2.jpg)
至る所に存在する「旧巡礼路」の道標。
ヤコブが亡くなった後、海から沢山採れた「貝」を、ヤコブと名付けた。
聖ヤコブ、スペイン語で『サン・ティヤーゴ』に縋りたい巡礼者達が、ヨーロッパ中からフランスの幾つかの拠点に集まり、隊伍を組んで「サン・ティヤーゴ・デ・コンポステーラ」を目指した。
『聖ヤコブを葬った荒れ地=サン・チャーゴ・デ・コンポステーラ』は、一大聖地となった。
ホタテ貝が、巡礼者の目印。
喜捨や好意を受けられる通行手形。
ホタテ貝を胸に留め、瓢簞の水筒と杖。
この三点セットだけを頼りに、体一つで、何ヶ月も、何年も歩いて「聖地」を目指した。
行く先々で、教会や修道院に立ち寄り、夫々が所有している『聖遺物』にお参りしながら、スペインを目指す。
幾つものルートが、三本に合わさり、二本に合わさって、ピレネー山脈の二カ所の峠を越えた。
アルプスと違い、ピレネーは山も峠も、其れ其れアルプスより1000メートル低い。
必死でよじ上れば、越えられる筈だ。。。
その、「ピレネー」に向かう道筋を『サンチャゴへの道』と呼び、現在ユネスコに登録された『世界遺産』である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/6e/59e750e8b1daddbc783cb7180369843b.jpg)
サン・ジャン・ピエ・デュ・ポー村の通りに飾られた、『サンチャゴへの道』の絵図
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/22/6998a2262fdd7d173f1ed28705480d72.jpg)
『ユネスコの世界遺産登録認定証』
各所に、人々の日常の世界から隔絶されて、素朴な名刹や修道院が点在する。
そのルート上の、峠を越える直前、フランス側の最後の拠点が『サン・ジャン・ピエ・デュ・ポー』という村だ。
聖ヤコブは、フランス語では「サン・ジャック」。
サン・ジャンは『聖ヨハネ』。
その巡礼路の「出発の最後の拠点」が『聖ヨハネ』村。
「ピエ・デュ・ポー」とは、「出口の足元」と言う様な意味である。
「聖ヨハネの庇護から出て、いよいよ聖ヤコブの下へ向かう」とでも言うのが、村名の由来ででも有ろうか。
フランス側から南下して来て出会う、小高い丘の上に要塞が有る。
現在の要塞は、17世紀末『ヴォーバン元帥(五稜郭のタイプの城塞の発案者)』の手になる物だが、その脇に村の城門が有る。
現存する15世紀と17世紀の城壁に囲まれた村の入り口である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/8d/4103b0da0eb1b303e6c5f24eae23551a.jpg)
城門をくぐれば、なだらかな下り坂の狭い石畳の街路。
バスク地方独特の、赤茶色に塗られた「木の梁」の白壁の家並が、とても美しい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/7d/479602ec61ec03a7a4c3062f9aa9c5fe.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/63/d2b344b7bd1867cdf864fb44a7a23f47.jpg)
そのうちだんだん急坂となり、年輪を感じるすり減った石畳の、心地よい狭い道が、村の唯一の目抜き通りである。
かっては、聖ヤコブの祝日(7月半ば)に合わせて『サンチャゴ』に到着するべく、6月前後はヨーロッパ中からの巡礼者達で溢れかえった道なのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/f2/5b691105024b8ff1e4a520926f9c92ce.jpg)
「巡礼者巡礼宿泊可」の手作りの看板。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/bf/68bc186633cbe92ffb43f17a1db2377d.jpg)
通りの下り方角を見る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/15/f1e578f54747d1f5d3d1e1c3d56a1662.jpg)
振り返って上りの方向。
途中に、可愛らしい巡礼者が、お伴と共に休んでいた!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/a9/1481d03edeefee552b929d33b8bba2af.jpg)
この犬は、ご主人様を最後まで守って、巡礼を成功させようと、堅く心に誓っている様だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/2a/ac71e001b9c3603e860893150d5e9798.jpg)
気をつけて! 道中ツツが無くね。。。
うんと下って行くと、村の途中を横着る『ネーヴェ川』の直前に、教会と下の城門が有る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/b9/b9850339182d78fac3adc8da4ed8c86a.jpg)
この教会の内部は、バスクの伝統に習って、男達と別に座る「ご婦人方専用」の二階席を作ってある。
内部は暗過ぎて、写らなかった。。。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/7c/282b8b568cfee4d3801a3672b559f347.jpg)
下の城門をくぐると、『ネーヴェ川』に掛かる小さな橋。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/08/966261577843f8cdd6faf5df19c4f8f1.jpg)
川岸の伝統的家屋の家並も素晴らしい。
この村を出て、半日行程で、峠となる。
現代では、車で1時間しか掛からない。
峠は1020メートル。
下って行くと、『牛追い祭り』で名高い『イルーネア』の町に至る。
車で2時間。
この町は、日本ではカスティーリャ語(標準スペイン語)で『パンプローナ』と言う呼び名で知られている。
サン・ジャンの村に有った「ルート図」の、スペイン側の最初の拠点『プエンテ・デ・ラ・レーナ』までは、車でも1時間半はかかる距離だ。
ここまで、巡礼者達は、一日でたどり着いたのだろうか、と心配になってしまう程である。
きっと、イルーネアで止まったに違いなかろう。
プエンテは「橋」
レーナは「王妃」
その名通り『リオ・アルガ』(アルガ川)に架かる橋は、ロマネスクの名橋。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/53/36eb291e331ca989b1581ecdbb77f4ca.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/66/3742a397e364dab580ab2130be23340f.jpg)
この橋は、巡礼者の為に11世紀に掛けられた。
小さな旧市街は、狭い通りが交錯し、非常にエキゾチックである。
レストランもない、「バル」と呼ぶカフェ兼食堂みたいな店が二件有るだけ。
しかし、町の入り口には、とても素敵なホテルが一件だけポツンと立っています。
(ちなみに、サン・ジャン・ピエ・デュ・ポーには、ミシュラン2つ星のレストランが有り、泊まる事も出来ます)
巡礼。
魂の洗濯。
人知を越えた存在への、生を希求する突き上げる様な精神的行為。
昨今の日本の悲惨な状況を見るに付け、精神の救済が欲しくなって来るのは、決して逃避では無い。
人間の、心の渇望である。
魂の叫びである。
サンチャーゴ・デ・コンポステーラに至るルート上の、重要な大司教の町『ブルゴス』の、カテドラルの横の広場に、疲れた体を休める巡礼者が、常に胸を張って町人を見ている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/f4/3ae26ba499143fde3944ec1ddea55f7b.jpg)
「人間の行いなど、小さい小さい」
「驕る事無く、尊大になる事無く、おのれの魂に恥じる所無く、俺は行きている」
そんな風な声が聞こえる様な気がする。。。
心だけでも、清らかに行きて行きたい。
いつか行こうと思っていたところでしたが結局行けずじまい。人間、決断と実行力がなければ駄目ですね。
4年間のパリ駐在中さんざん食べたコキーユ・サンジャックですがまた無性に食べたくなってしまいました。
罪深きブログですがいつも旅行記は楽しみです。
今回は『サン・ジャン・ピエ・デュ・ポー』だけに絞りましたが、『ルート』全体がとても素晴らしい所です。
でも「罪深きブログ」って・・・?
バレてましたか。
約一名の従姉もここから歩いて行きました。(何ヶ所は乗り物に乗ったそうですが、基本は歩いたと)四国八十八箇所の巡礼と同じですね。日本のバカンはどの様な気持ちで歩いたのか、その後の彼の人生において何の役にも立っていない様な。この人に取っては、巡礼もただただパフォーマンス、というだけですね。
私も行ってみたいです。
城壁の町は趣が有り、大好きです。何か時間が止まった様な感じが有ると思いませんか?何故か、そこで生活をしている人々もゆったりして居る様な・・・。
この橋も素晴らしいですね。毎日毎日腹を立て、この様な空間を忘れて居りました。心が洗われます。
今回も素晴らしい所に我々を誘って下さり、有難う御座いました。
お久しぶりです!お元気でいらっしゃいますか?
TBありがとうございました。
東日本大震災で、健常地域に住みながらも身体に変調をきたした方が多いと聞きます。
私もそうでした。私の会社の者も少なくありませんでした。
聖ヤコブ、私は今回の震災にあたり、新約のこのとても短い「ヤコブの手紙」を何度も読み返しました。
被災者の方々に、今勧めることは出来ませんが、何時の日か、心も身体も生活も立ち直った時に、是非読んでもらいたいです。
これほどの甚大な災害時には宗教とか思想など、全く役に立たないですね。
彼らを救うのは、やっぱり人の「優しさと真心」だと思います。
「巡礼」って言葉は、何か心に引っかかりますね。
惹かれると言うか、引かれるというか。
宗教的な意味は別として、羨ましい所もあります。
昨年くるまで通ったとき、三々五々実に多くの人達が、実際に歩いていました。
コメントもせず、いきなりTBのみで、失礼致しました。
「気弱な…サン」流に言えば「芸風が違う」ので、TBも遠慮しているのですが、この日のテーマなら、と思いました。
>やっぱり人の「優しさと真心」だと思います。
その通りですね。
しかし、ヨーロッパに居ますと、無意識のうちにでも、宗教が未だに日常の規範であり続け手居る事が、其処ここに感じる事があります。
宗教が精神の基本に存在していると、『優しさと真心』は、よりたやすく現れて来るのかもしれません。