国語という科目は、論理力を問う科目だ。
文章の読解や作成で論理力が必要とされるのは、それが誰が読んでも疑問の余地なく同じ内容を伝えていると複数の人が意見が一致しなければならない時だ。それはどういう時か?
それは、一つの組織内である意思を共有しなければならない時だ。
複数の人の間で意思を共有することが絶対に必要な時、文書は誰が読んでも同じでなければならない。そこに解釈の多様性が入り込んではならない。
だが、実際の学校国語(大学入試も含めて)で扱っているのは、評論にしても物語にしても、解釈の多様性が許される分野だ。いや、許されるどころではない。解釈の多様性がなければ発展することがない分野だ。
解釈の多様性とは、言い換えれば、文章の想像には無意識が関与していることを意味している。
文章の創造(文章に限らないが)は、すべて表面上の意思によってコントロールされているのではない。むしろ文を書いてから、自分が書いたものを確認することもあるし、そういうことは多い。そのとき、その文字の「意図」などというものは、書いた本人ですら確定できるものではない。
わたしは、「意味」など存在しない、と言いたいのではない。
意味は存在する。
しかしそれは、表れた文字を表面的にたどることによって得られるものではない。
文章の意味は、それを書いた人と読む人の内奥に存在する。それは捕まえたと思ったら逃れてしまうようなものだ。それは「意味は存在しない」ということではない。存在しないのであれば、つかまえたとも逃したとも思うことはできないのだから。
「国語」の存在理由を見つけ出すのは難しい。
文章の読解や作成で論理力が必要とされるのは、それが誰が読んでも疑問の余地なく同じ内容を伝えていると複数の人が意見が一致しなければならない時だ。それはどういう時か?
それは、一つの組織内である意思を共有しなければならない時だ。
複数の人の間で意思を共有することが絶対に必要な時、文書は誰が読んでも同じでなければならない。そこに解釈の多様性が入り込んではならない。
だが、実際の学校国語(大学入試も含めて)で扱っているのは、評論にしても物語にしても、解釈の多様性が許される分野だ。いや、許されるどころではない。解釈の多様性がなければ発展することがない分野だ。
解釈の多様性とは、言い換えれば、文章の想像には無意識が関与していることを意味している。
文章の創造(文章に限らないが)は、すべて表面上の意思によってコントロールされているのではない。むしろ文を書いてから、自分が書いたものを確認することもあるし、そういうことは多い。そのとき、その文字の「意図」などというものは、書いた本人ですら確定できるものではない。
わたしは、「意味」など存在しない、と言いたいのではない。
意味は存在する。
しかしそれは、表れた文字を表面的にたどることによって得られるものではない。
文章の意味は、それを書いた人と読む人の内奥に存在する。それは捕まえたと思ったら逃れてしまうようなものだ。それは「意味は存在しない」ということではない。存在しないのであれば、つかまえたとも逃したとも思うことはできないのだから。
「国語」の存在理由を見つけ出すのは難しい。