joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

「国語」の存在理由

2009年10月21日 | 日記
国語という科目は、論理力を問う科目だ。


文章の読解や作成で論理力が必要とされるのは、それが誰が読んでも疑問の余地なく同じ内容を伝えていると複数の人が意見が一致しなければならない時だ。それはどういう時か?


それは、一つの組織内である意思を共有しなければならない時だ。


複数の人の間で意思を共有することが絶対に必要な時、文書は誰が読んでも同じでなければならない。そこに解釈の多様性が入り込んではならない。


だが、実際の学校国語(大学入試も含めて)で扱っているのは、評論にしても物語にしても、解釈の多様性が許される分野だ。いや、許されるどころではない。解釈の多様性がなければ発展することがない分野だ。


解釈の多様性とは、言い換えれば、文章の想像には無意識が関与していることを意味している。


文章の創造(文章に限らないが)は、すべて表面上の意思によってコントロールされているのではない。むしろ文を書いてから、自分が書いたものを確認することもあるし、そういうことは多い。そのとき、その文字の「意図」などというものは、書いた本人ですら確定できるものではない。


わたしは、「意味」など存在しない、と言いたいのではない。


意味は存在する。


しかしそれは、表れた文字を表面的にたどることによって得られるものではない。


文章の意味は、それを書いた人と読む人の内奥に存在する。それは捕まえたと思ったら逃れてしまうようなものだ。それは「意味は存在しない」ということではない。存在しないのであれば、つかまえたとも逃したとも思うことはできないのだから。



「国語」の存在理由を見つけ出すのは難しい。

『「本当の国語力」が驚くほど伸びる本』(福嶋隆史著)

2009年10月21日 | Book
『「本当の国語力」が驚くほど伸びる本』(福嶋隆史著)を読んだ。


国語という科目、ではなく、国語の問題というものが何を問うているのかを、はじめて明らかにした本。少なくとも私にとっては。


国語の問題とは論理を問うているのだけれど、それを著者は

・言い換え(具体⇔抽象)

・対比

・展開の追跡(論理)

という三点から指摘している。つまり、国語で問われている論理力とは、上記三点の力だということだ。


言い換えは、一人の人の言いたいことをすべての人に受け入れ可能な言葉に変換する能力を指す。

対比は、個々の論点の明確化・絞り込みを意味する。

展開の追跡(著者はこういう言葉を使わず「論理」と言うのだけれど)は、そのままずばり話を理解することだ。他者の話をそのまま受け取る能力と言える。



この三つの能力は、国語の問題を解くうえで有用だが、自分で文章を書く上でも有用だ。


これは素晴らしい本だと思う。


素晴らしいが、それは国語のペーパーテストが何を問うているのかを指摘したという点でだ。


私自身は、このようなトレーニングをしなくても、書きたいものを書き、読みたいもの読むことが人にとっていいことだと思っている。


ただ、国語という教科のペーパーテストを解く訓練をするうえでは、重要な示唆を与えてくれるし、素晴らしい本だと思う。


著者が来年出すという本も楽しみにしたい。