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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『スポーツを楽しむ―フロー理論からのアプローチ』 チクセントミハイ/ルイス(著)

2006年08月18日 | Book
“フロー理論”の心理学者ミハイ・チクセントミハイとおそらく同じく心理学者のスーザン・A.ジャクソンの共著『スポーツを楽しむ―フロー理論からのアプローチ』を読みました。

フローな状態、すなわち自分にとってしっくりことをしていて、とても“ノッている”状態になることについてチクセントミハイはこれまでにも書物で説明してきましたが、この本はスポーツにおけるフロー状態の特徴についてスーザン・A.ジャクソンと一緒に研究したもの。

ただ、もともと『フロー体験 喜びの現象学』『楽しみの社会学 』でも、フロー状態を説明する際にスポーツの事例は取り上げられていたし、この“フロー”な状態の特徴はスポーツにおいてこそもっとも識別しやすいもののように思います。


チクセントミハイの他の本とも内容は重複していますが、この本で再三述べられることの一つは、(スポーツにおいて)“フロー”な状態になるための条件として、自分の技能の水準と挑戦する水準とが緊張関係にあることの重要性です。

つまり、自分の技能よりもあまりにもレベルが高い挑戦は“フロー”になりにくく、同様に技能より下の課題でも、つまらなさを感じて“フロー”に至りません。自分の技能よりも少し上の水準に挑戦するとき、人は自己の限界に挑戦する意欲が湧きますが、そのときに自分でも思いもかけなかった能力を発揮しやすいというわけです。

このときの限界への挑戦で特徴的なのは、過剰な自己意識をもっていないこと。自分の技能よりもあまりにもレベルが高いと、それまでの自分の過去の経験を思い出し、自分の至らなさを意識させられます。つまり、本来スポーツの目的は体を動かすことなのですが、それとは関係ない“自己”にまつわる雑念に支配されるようになります。

それに対して自分の技能よりも少し上の水準に挑戦するとき、そのとき自分の意識がフォーカスしているのは、その時点の自分の技能水準が限界まで発揮された状態、あるいは自己ベストの能力を発揮してそれまでの限界を打ち破った状態です。そのときの行為者は、自分の意識が完全にそのスポーツ行為に向かい、過去や未来などの“自己”にまつわる雑念から解放されます。

この状態の時に人は最高の状態である“フロー体験”を経験することになります。

この“フロー体験”を“幸せの体験”とみなすとき、人にとって“幸せ”というものが簡単に得られるものではないことがよく理解できます。

自分の技能水準と挑戦水準とが均衡ではなく、わずかに不釣合いに挑戦水準が高いとき人は己の限界を突破する意欲を掻き立てられるのですが、そのようにして行為者の技能水準が高まったとき、必然的にこれまでの挑戦水準は物足りなくなり、もはや行為者にとって挑戦への意欲を掻き立てるものではなくなります。

すると行為者は目前の課題に意識を集中させることができなくなり、スポーツ行為以外の“自己”をめぐる様々な雑念(賞金、名誉etc...)に支配されます。

これを“幸せ”ではない状態とすると、どれほど才能に恵まれた人でも、つねに自動的に“幸せ”が与えられるわけではないことが分かります。どれほど才能があろうとも、つねに自己に対して意欲と集中力を掻き立てる挑戦課題を課さなければ、“フロー”な状態に至ることはできません。

このことは、才能を持って生まれた選手が自動的にベストプレーヤーになるわけではないし、観る者を感動させるわけではないことを意味します。

なんらかの部活動に所属したことのある人ならよく知っていると思いますが、誰から見ても才能に溢れた少年も、学校の部活動という空間の中で、スポーツ行為それ自体に集中せず、その部活内での権力関係で優位に立てることから、同じ部内の部員への虐めに走ったり、あるいは若いときの誘惑で遊びに走ったり。こういうことは学校の部活内だけでなく、プロスポーツのチーム内でもあるそうです。

プロと言っても多くは20代の青年で集まりですから、スポーツそれ自体に集中せず、同じチーム内での権力関係で優位に立ってまわりを虐めることや、遊び回ることに意識をフォーカスさせてしまう選手もいるそうです。

こういったスポーツ以外の心理的誘惑に負けてしまうと、どれだけ才能があっても、一流選手にはなれないし、なれたとしても長続きしないでしょう。

たとえばサッカーで足下のテクニックが上手い選手が一流になれない場合、それはサッカーは広いピッチ内でボールと人を動かすスポーツであることを意識して自分も走らなければならないことを理解することに失敗したときが多いようです。

そのサッカー選手は、生まれ持った足下の才能に安住してしまい、より上のサッカーというスポーツにおけるより高いレベルを目指すことを忘れてしまったのです。

このように、スポーツにおいて“フロー”を経験するためには、つねに自己を高めることができる挑戦水準は何かを考え続け、それを目指すための努力が必要になります。

このことは、フロー(=幸せ)を経験するためにはつねに努力が必要なことを意味します。ただ、その努力というのは、たしかにつらいものですが、旧来の道徳観による「苦労が大事」というものとは少し違います。

むしろその苦労は、自分が何を目指しているかハッキリし、それを目指すことに自分自身の中で納得感がある場合の苦労であり、ただ闇雲に「苦労が大事」と念仏をとなえることとがは全く違うでしょう。

この納得感のある苦労・努力ということと、自分の技能を少し超える挑戦水準を設定することの重要性とは結びついているように思います。

自分の技能を少し超えるところに課題を設定するとき、人はそれを達成することで自分がつけた足跡をはっきり認識し、その際に自分が達成したことを認識します。この達成感が自分はある方向に向かっているのだという満足感を与えます。このようにして得られる満足感が、その人に努力を持続させるモチヴェイションを与えます。

才能というものは、もって生まれたものかもしれません。しかし、自分の進む方向性を認識し、適切な課題を自己に与え、持続的に努力するよう自分を意識づけることは、まわりのサポートで可能なことのように思いますし、あるいはその人自身の意識の高さによって克服される場合もあるでしょう。

“フロー”あるいは幸せを感じることができるかどうかは、持って生まれた才能よりも、むしろ後者の、その時点での自分の技能・自分の目指す方向性の明確化・そのための適切な課題設定・それをこなすための努力などにより左右されます。

持って生まれた才能だけでプロ選手になる人は多いでしょう。ただ、一流選手になれるかどうかは、上記のような後天的な要素がかなり強いように思います。

またこのことは、私たちにとって安定した幸せというものが幻想であることを教えます。ある程度の物質的安定はつねに必要だと思いますが、それに加えて自己の限界に挑戦し続ける課題が自分になければ、その人が“幸せ”を感じることはかなり難しいのでしょう。

既存の秩序を壊して社会を不安定にすることはたしかに問題なのですが、バブル以前のように、仕事はつまらなくても誰に対しても組織の中でポジションを与える官僚制社会が、本当に戦後の日本の人々を幸せにし続けたかどうかも、考え直された方がいいような気がします。

重要なのは、製造業優位で薄く広く多くの人に仕事を保証できた経済体制が不可能になった今という時代に、それでも人に“幸せ”を与える条件とは何なのかを考えることです。もちろん、それは単に就業を不安定にする社会とは(絶対に)違うでしょうが、同時に誰もが同じように人生のルートを歩むことをよしとする社会でもないはずです。

ただ、変化をつねに要請される今の社会の中で適切な課題を設定することは、つねに困難を伴います。

例えばドイツW杯で日本はオーストラリア戦で同点にされたときに一挙にパニックに陥ってしまいました。グループリーグを勝ち抜くには、対戦する三国のなかでもっとも力が劣ると思われた豪州に勝たなければならず、1点リードしている時点では守り切ることが必要だったのですが、相手に同点にされた時点で、その試合に勝つというプランが崩れただけではなく、その1点でグループリーグ突破という目標すら無理だという妄想が選手の頭の中で広がったのではないかと思います。

豪州相手では引き分けはもちろん負けることすら充分予想できたのですから、勝てなかった場合でもどうすれば予選リーグを勝ち抜けるかを選手が考えていれば、そういう混乱には陥らなかったはずです。豪州戦に引き分けても、クロアチアに勝てば充分チャンスはありました。豪州に1点差で負けても、クロアチア戦で引き分ければ、ブラジルに勝てば予選突破が見えてきます。W杯で2点差でブラジルに勝つのは欧州の一流国でも困難ですが、1点差で勝つことは考えられないことではありません。1点差で勝てばよいのであれば、ブラジル戦で前半終了間際でロナウドに同点にされても、選手たちはモチベイションを後半でも維持できたでしょう。

豪州に勝てれば最高のスタートを切ることができたのですが、それはあくまで“最高”の想定であって、物事はつねに“最高”に進まないことは本当は誰でも知っているはずです。

要するにW杯での日本の敗退原因の一つは、最高の状態でないとき、また一見状況が混乱しているときに、それでも自分たちの集中力を維持するための適切な課題設定ができなかったことにあると想像できます。

チクセントミハイ/ルイスは、状況が混乱に陥った中で、それでもプレーし続けるために、「物事を単純化する」というあるホッケー選手の次の言葉をとりあげています。

「私は物事をできる限り単純にするようにしています。20のことが考えられたら、それを3つか4つの点に絞りこんで、常に、すべてのことを単純に、はっきりするようにしています。そうすると、気持ちがリラックスするのです」(171頁)。

また著者たちは、プレー中に自分の集中力を維持するための工夫の一つとして、「代替案を準備する」ことを挙げます。

「非常によく練られた計画でさえ、興奮した瞬間に行き詰ったり、だめになったりすることがある。このようなときに代替案が生きてくる。代替案は、不利な試合状況で用いるために、対処方法、つまり再び戦術に集中するための方法を用意することによって作られる。・・・試合を決定づける可能性のある場面で、どのように対応するのかを前もって練習しておくことにより、興奮しているときにでも適切に対応できる可能性が高まる」(173頁)。

このように、課題をつねに設定しなおすことは、スポーツに限らず、一般の人のライフプランでも有効なことなのだと思います。

私たちはつねに願望を持って人生を歩むのですが、大部分の人はその過程で挫折を味わいます。これは、私たちが世の中の価値観に合わせて願望をもつからですが、そうした一般的な価値観と私たち一人一人の固有な特性とが齟齬をきたすため、必然的にもたらされる事態です。

その意味では、挫折は、私たちにもう一度わたしたちの特性とその時点での能力に見合った課題を設定しなおすチャンスだとも捉えることができます。

心理カウンセラーのチャック・スペザーノは、人間の心理における「期待」と「目標設定」を次のように区別します。

彼によれば、「期待」とは、「物事がこうあるべきだと思い描くイメージ」です。この「期待」の特徴は、たとえそれが実現しても決して本人は満足できず、充足感をいだかないことにあります。

満たされても満足できないことが「期待」の特徴の一つですが、それは私の印象では「期待」が、外的に与えられた、つまり世の中の価値観に沿ってもつようになった願望だからだと思います。スペザーノは次のように述べます。

「あらゆる『期待』や要求の影には、過去の人生の重要な時期に満たされなかった欲求が潜んでいます。なんとかその欲求の埋め合わせをしようとして、さらなる『期待』をもつのです。ところがたとえ期待通りの結果が今ここで得られたとしても、過去の欲求がみたされたというわけではありません」(『セルフセラピー・カード』40頁))。

自分が内的に望んだというよりも、自分の欠乏感を埋め合わせるために、世の中の価値観に沿う願望を達成しようとするため、それがどれだけ達成されても、自分を内的に満足させるには至りません。

自分の外側にあるもの(金銭、名誉etc...)を求めることは、“フロー”な状態とは対極にあると言えます。

スペザーノは、このように「期待」に囚われた心理的状況を脱するための一つの工夫が、「期待」するのではなく、自分で「目標設定」することだと言います。

「『期待』することはストレスを引き起こす最大の原因のひとつです。…自分に『期待』をかけるよりも、目標を設定する必要があります。目標はたとえ外すことがあったとしても、修正して新たな目標を設定することができます」(41頁)。

混乱した状況の中で、物事が上手くいかないとき、自分で再度目標を設定することは、自分に合ったことと自分の能力に応じたことをもう一度吟味することを意味します。そこで適切な目標が設定されたとき、その人は“フロー”な状態に至るためのきっかけを得たことになります。

そこでは、もうその人は自分の外側にあるもの(金銭、名誉etc...)で自分を満たす必要はなく、その設定した目標に向かう過程それ自体に“幸せ”を体験することができます。チクセントミハイ/ルイスは、その状態を「オートテリック」なものと呼んでいます。つまり、自分の特性と技能水準にあったその行為に従事すること自体に喜びを見出しているのです。

“フロー”な状態自体は、目標を設定したり、努力で得られるものではないでしょう。それは、その道の一流の人にとってはつねに得られるものですが、普通の人にとっては偶然も作用している体験だと思います。

ただ、“フロー”自体をしあわせの絶対的な基準にしてしまうと、私たちの生の可能性を探る参考にはなりえないでしょう。むしろ参考にすべきは、“不幸せ”と“幸せ”の原因を探る上でフロー理論が示唆することです。

そのことの一つは、これまで述べてきたような目標の設定であり、集中力の持続のための工夫です。

私たちの集中力をそらし、行為自体を楽しむことを妨げているのは、自分の能力を超えた過大な目標だったり、行為の結果のみを問題にしたりすることにあります。行為の外側に「期待」をもつとき、私たちは往々にして過去に満たされなかった体験を外的なもので満たそうとしています。

そうではなく、その行為自体に自分たちが集中できる、そのような目標設定が、私たちを余計な雑音から解放します。

人の幸せに関するこうした視点は、これからつねに変化を強いられる社会状況の中で、自分や社会について考えを深めてくれるもののように思います。


参考:「Flow ~ 今この瞬間を充実させるための理論」『CD、テープを聴いて勉強しよう!! by ムギ』 「フロー」な状態としてチクセントミハイがよく挙げる八つの特徴が紹介されています。

   “Good Business” by Mihaly Csikszentmihalyi

   『楽しみの社会学』ミハイ・チクセントミハイ(著)

   自己と“流れ” 『フロー体験』ミハイ・チクセントミハイ(著)

   『フロー体験 喜びの現象学』ミハイ・チクセントミハイ(著)


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4 Comments

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Unknown (涼風)
2009-02-05 23:51:35
コメントありがとうございます。お返事が遅くなってごめんなさい。

読んでもらえた人に「ためになった」と言ってもらえるほど嬉しいことはありません。

最近は更新が滞りがちですが、よかったら他の記事なども読んでみてくださいね。
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Unknown (Unknown)
2009-02-02 18:13:02
はじめましてこんにちは。スポーツを長続きさせるためにいろいろなサイトを見ていたらこちらにたどり着きました。非常にためになりました。ありがとうございます。
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有難うございます。 (涼風)
2007-10-03 13:55:46
ゆーすけさん、コメント有難うございます。

私の拙文が授業作りにお役に立てるのであれば、とても嬉しいです。

ゆーすけさんははご存知と思いますが、チクセントミハイは他にもたくさん本を書いているので、もしまだであれば是非読んでみてください!
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ども☆ (ゆーすけ)
2007-10-02 22:56:14
大学院の授業で「スポーツを楽しむ」という本を中心に講義(ゼミ)を行うことになりました。本屋では売ってなさそうだったので、ネット検索していたらたどり着きました。

体育を学ぶ者として、フロー理論を理解していない部分が多々あるので前文を読むことで、導入ができた感じがします。是非本を買ってよんでみます。どもです。
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