joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

書籍 『ひきこもりの社会学』 井出草平(著)

2008年04月16日 | Book
『ひきこもりの社会学』という本を読んだのは去年の11月でした。著者の井出草平さんはまだ大学院生で、修士論文をもとにした本のようです。

「ひきこもり」といっても当事者それぞれで原因が違うかもしれません。しかし著者はインタビューの人数を絞り、「学校」と「ひきこもり」との関連性を探ろうとします。

「ひきこもり」の原因には親子関係や友達関係などいろいろあるかもしれませんが、それら他の要因よりも、まず「学校」という存在が「ひきこもり」とどのように関連するのかを問うのです。

著者の主張の一つは、「ひきこもり」にいたるパターンには「拘束型」と「開放型」があるということ。

「拘束型」とは、真面目に出席し勉強しなければならないという学校の規範にがんばって適応しようとしながら、一度それに失敗したがために、自己否定感によってもはや学校に再度適応することができなくなってしまった人たちのことを指します。これは「登校拒否」につながり、やがて「ひきこもり」へと至るパターンです。

このようなパターンをたどる原因を、著者は当事者たちの心理的な自罰傾向に求めます。当事者たちは学校に適応すべきであるという規範を強くもっていながら、実際には集団に適応できない。そして、そのことを誰にも言えないために「逃げ場のない」状態になり、ひきこもりへと移行していくのです。

その際、なぜ「逃げ場のない」状態になるのかと言えば、それは、本来は適応すべきであるのに適応していない自分を恥じ、自分を責め、それゆえに具体的何か行動をするということが不可能になるということでしょう。著者はこのようなひきこもりのメンタリティを次のようにも述べます。

「「ひきこもり」に暴力傾向があったとしても、それは反社会的な行為として行われるのではなく、社会的に「まっとうな」人生を送れていないことに対するいらだちや、そのことを親などに指摘されることによって噴出する暴力である。「ひきこもり」の暴力傾向は対象が他者や物であるとしても、その行為の意味は自罰的であることが多い。自罰傾向とは、社会の規範と現在の自分を照らし合わせて、その落差に自分を罰する必然性を見出していると考えられる。つまり、「ひきこもり」という逸脱をしながらも、当事者に強固に保たれる「規範意識」が指摘できるのである」(96頁)。

「拘束型」は人よりも規範意識が強いため、その規範に沿えない自分を許すことができず、人の目を避ける生活に移っていくと言えそうです。


それに対し、「開放型」のひきこもりとは、主に大学に入ってからひきこもる人たちを指します。この人たちは、「拘束型」の人たちとは異なり、中学・高校の規範に実際に適応して、順調な学校生活を送っていました。

しかし彼らは、大学に入ると、その自由さゆえに、行動できなくなります。中学・高校ではどのような授業を受け、どの席に座り、どこでお弁当を食べればよいかが分かっているので、規範により沿う人たちにとっては、生活しやすいと言えます。

しかし大学に入ると、それらがすべて自由となり、すべてを自分で決めなければならなくなるため、それまで規範に依存していた人は大学という場所を怖れるようになり、ひきこもりに至るのです。

著者はこの「拘束型」と「開放型」をひきこもりの二つの類型にまとめています。

この二つに共通しているのは、どちらも社会の規範を信奉している点です。つまり、まじめに学校に通い、よい成績を取る若者が理想だという規範への信奉です。

「拘束型」は、それらの規範を信奉しすぎたために、順応できない自分を許せなくなり、ひきこもるようになりました。

「開放型」は、それらの規範を守る生活をすべて用意してくれる中学・高校では問題が起きなかったのですが、そのようなお膳立てが失われる大学に入ると、自分が何をすればよいか分からなくなり、ひきこもるようになりました。

両者の違いは、「開放型」の人たちがひきこもる大学生活という時期には、高校までの通学する・勉強するという規範に加えて、うまく集団に溶け込むという新しい規範が追加されていることでしょう。

高校まではクラスも席順も決められたため、集団の中での自分の位置すら学校が用意してくれていました。しかし大学では集団の中でどの位置を占めるのかという問題すら、自分で決めなければならない。その規範が重くのしかかるのでしょう。

こう見てみると、「拘束型」が重荷に感じる規範と、「開放型」が重荷に感じる規範は、同じ性質のものではないように思います。「拘束型」が重荷に感じる通学・勉強という規範は、近代国家が設定したルールです。それに対し「開放型」が重荷に感じる集団への溶け込みという規範は、近代以前から続く日本社会独特の規範だという印象のように思います。

興味深いのは、おそらく会社という場所は、通学・勉強という規範と、集団への溶け込みという規範の両方をクリアした人がもっとも適応しやすい場所なのではないかということです。高校までで通学・勉強という規範をクリアし、大学で集団への溶け込みという規範をクリアした人が、比較的な会社という場所に入っていきやすいのではないでしょうか。

「ひきこもり」というと医療者がその心の病を治すという視点でかかれたものはありますが、この本は個々人の心の病が社会的な規範と密接に関連していることを分かりやすく教えてくれる点で、とても興味深い本でした。

最新の画像もっと見る

post a comment