わたしは嫉妬やねたみをいだきやすい性格です。どちらかというと、ひとのことをすぐにうらやましがります。多くのものをもっている人をみると、それがじぶんの欲しいものだと、うらやましい気もちがおこります。
この「うらやましい」という感情を感じていると、どれだけ自分が自分のことをみじめな人間と思っているかということに直面します。いや、そんなに客観的には見られません。どれだけ自分がみじめであるかがわかる、と言った方が適切です。
この世の中にはここまでみじめな人間がいるのに、どうしてあの人(たち)はあれほどにまで恵まれているのだろうと、不思議な気もちになります。あちら側にいる人たちと、自分がいる側の人たちがわかりあえることなど、絶対に不可能だとおもいます。
そういうときは、なぜこの世界が存在するのか、不思議に思います。これほどにまで区別がなされているのなら、なぜこの世界が存在する必要性があるのでしょう。
ここで安易に答えを書くことは、ふさわしくないかもしれません。いろいろなひとが、とっくにそういう問題に答えているのですから。
ただ、「なぜこの世界が存在するのか」と問うじぶんが存在すること、また自分はそういう問いを発することができること、そこにひとのパワーの源はあるのかもしれません。
世界の存在はわたしたちを苦しめることもありますが、「なぜこの世界が存在するのか」とわたし(たち)は問うことができます。そこから哲学的に思考する人もいるし、悟りの修行を行なう人もいるし、社会科学的分析を行なう人もいます。
でも、ともかく、最初に何かを疑問に思い、そこから探求の道に乗り出すことが、わたしたちには可能です。すべてのパワーの源はそこにあるのかもしれません。
この「うらやましい」という感情を感じていると、どれだけ自分が自分のことをみじめな人間と思っているかということに直面します。いや、そんなに客観的には見られません。どれだけ自分がみじめであるかがわかる、と言った方が適切です。
この世の中にはここまでみじめな人間がいるのに、どうしてあの人(たち)はあれほどにまで恵まれているのだろうと、不思議な気もちになります。あちら側にいる人たちと、自分がいる側の人たちがわかりあえることなど、絶対に不可能だとおもいます。
そういうときは、なぜこの世界が存在するのか、不思議に思います。これほどにまで区別がなされているのなら、なぜこの世界が存在する必要性があるのでしょう。
ここで安易に答えを書くことは、ふさわしくないかもしれません。いろいろなひとが、とっくにそういう問題に答えているのですから。
ただ、「なぜこの世界が存在するのか」と問うじぶんが存在すること、また自分はそういう問いを発することができること、そこにひとのパワーの源はあるのかもしれません。
世界の存在はわたしたちを苦しめることもありますが、「なぜこの世界が存在するのか」とわたし(たち)は問うことができます。そこから哲学的に思考する人もいるし、悟りの修行を行なう人もいるし、社会科学的分析を行なう人もいます。
でも、ともかく、最初に何かを疑問に思い、そこから探求の道に乗り出すことが、わたしたちには可能です。すべてのパワーの源はそこにあるのかもしれません。
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