joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『不変の経営・成長の経営―伸びる会社はどこが違うのか』北尾 吉孝(著)

2006年07月23日 | Book

今日、図書館で何気なく『不変の経営・成長の経営―伸びる会社はどこが違うのか』という本を手に取りました。30分ぐらいで全部読める分量です。

ライブドアとフジテレビの闘争で突然表舞台に踊り出たソフトバンク・インベストメントの北尾さんが2000年に出した本です。経営者のあり方についてさらっと語りおろしたという感じです。

北尾さんと言えばライブドアや楽天の敵対的買収にかなり批判的なスタンスを取っていたのですが、この本を読むと彼は企業買収やベンチャー志向といった最近の日本の「市場原理主義化」に必ずしも反対ではなく、むしろそうした方向性を推進すべきと考えているんですね。ただ敵対的な買収や株式の一万分割・会計粉飾といったアンフェアなことが許せないだけで、インターネットを通じた企業や時価評価額を基にした企業価値の向上といったここ数年の新しい日本経済の方向性自体にはとても肯定的であることがkの本を読むとわかります。以下、彼の主な主張を抜き出すと・・・


・日本の経営者は感情論ばかりで、合理的な基準をもたない

日本の経営者には「会社と労働者が一体になった企業」とか「社会貢献をする企業」といった抽象的で感情的な目標を掲げる人が多いそうです。ライブドアや楽天に批判的な北尾さんも、私はそうした道徳的なことを語りたがる人なのかなと思っていたのですが、この本を読むと、むしろ彼はそのような情緒的なことを目標にする経営者を批判し、それでは企業は明確な目標をもち得ず、行動の基盤がはっきりしないと言います。

そのような労使協調が日本の企業共同体の特徴だったのですが、むしろそこに生まれた停滞的な閉鎖社会の弊害や、変化への対応に遅れた日本の大企業の欠点を見ます。

むしろ北尾さんは、企業ははっきりと株式の時価評価額の向上を目指すべきと説きます。企業は株主のチェックを受けることで、利益(キャッシュ・フロー)の増大という明確な目標ができ、合理的な行動ができるようになります。また株式の価値を基準にすることで、会計粉飾や反社会的な行動がダイレクトに株価に反映されるため、企業は今まで以上に社会と調和した行動を取るようになります。


・日本の経営者は学問を経営に取り込まない。

上記のことと関連しますが、日本の経営者は「社会貢献」とか「労使協調」とか“志”ばかりを大事にして、結果的に大企業は社会の変化に対応した合理的な行動をしない。そのような惰性の行動の背景には、最新の学問の成果を経営に取り入れようとしない企業風土がある。

それに対してアメリカではビジネス・スクールが発達して、MBAをもつ若者たちがそこでの学問の成果を生かしてつねに新しい経営手法を実践しようとする。


・若者に開かれた利益獲得のチャンス

これも上記のことと関連しますが、企業価値が経営判断の基準となることで、アメリカの企業には、日本の企業のようなサラリーマン経営者・官僚経営者ではなく、若くても能力のある人に経営に参画するチャンスがどんどん与えられる。株価が唯一の基準となることで、年齢と出世が関係しなくなる。

大企業の経営に参加できれば、その企業の大量の株も与えられ、(億、数十億単位の膨大な収入が有能な人には与えられる。

それに対して日本ではたとえ一流大学を出ても大企業に入り、せいぜい50代・60代で経営者になれるだけで、多くは短い任期でやめなければならないため、自分の任期の間は新しいことをやろうとしないサラリーマン経営者ばかりが生まれてしまう。


・資本の最適な再配分

これも上記までのことに関連しますが、そのように株式の所有、株式の公開による膨大な報酬の獲得ということがエリートの成功例となることで、新しいビジネスチャンスにつねに新しい才能と資金が投入されます。そのことにより経済全体が活性化します。

それに対してこれまでの(少なくとも20世紀までの)日本の大企業では株式の持ち合いが主流だったため、資本市場が発達せず、資本が新しい事業に配分されるスピードが遅くなっていました。


このように見ていくと、北尾さんの経済観というのは、ひじょうにオーソドックスな「新自由主義的」「市場原理主義的」で、資本主義のいい側面を強調しようとすることが分かります。

北尾さん自身は、これまでの労使共同体的で官僚主義的な日本の企業ではなく、利潤を基準とした合理的な企業経営が主流となるべきで、そこでは若い人が富豪になるチャンスが生まれ、新しい事業が生まれ、それにより社会が活性化すると考えているのでしょう。

堀江さんや三木谷さんに対しては非常に批判的だった北尾さんですが、株式価値の向上・新しい分野での起業・若くしての成功といった点では、北尾さんの新しい経営者のモデルに前二者はとても近かったように思います。ただ最初のボタンを二人は掛け違い、敵対的な強引な買収や株式の一万分割といったアンフェアな行為で利益を追求したことが許せなかったのであって、株価・企業価値を基準とした合理的な経営という点では、北尾さんと堀江さんや三木谷さんはとても近いものを持っていたのだと思います。

いまや多くの人にとって北尾さんが述べていること自体に目新しいものはないでしょう。それはまさにヒルズの人たちが宣伝してきた標語だからです。

しかし、重要なのは、堀江さんや村上さんのように「犯罪」が発生してもなお、これらの企業価値を基準とした優勝劣敗の経済競争・新しいリッチ層の誕生といった北尾さんが描く日本経済の新しいビジョンが出現するかどうかであり、それが本当に社会全体に富を還元させ、社会にダイナミズムをもたらすのか、あるいは富裕と貧困の階層的固定化をもたらすのかです。


雨の公園

2006年07月23日 | 日記


今日は明石にある県立図書館と明石市立図書館へ、借りた本の返却と延長のために行ってきました。合計で10冊近くはあるぐらい。その殆どを貸し出し期間で読むわけではもちろんなく、ほとんどは延長して何週間もかけて読みます。あるいは借りたけど読まずに返したり。

図書館に行くと、ついついあれもこれもと借りてしまいます。そのため行き帰りの荷物がとても重くなる。そのため今年初めにキャスター付きのキャリー・バックを買いました。それでもやはり重いとゴロゴロ転がすのも一苦労です。腕の筋肉は結構ついたかもしれない。

今日の明石は夕方頃に雨が降ってきました。雨の中をキャリー・バックを引いて帰ることを思うと憂鬱でしたが、図書館を出て出口に向かって公園の中の坂を下りていくと、少しの雨の量と濃い緑がマッチしていい雰囲気でした。雨が降ることで自然が世界を支配する雰囲気が高まったのでしょう。「この日のために雨が降ってくれたのね」という知り合いの昔の言葉を思い出しました。

図書館は休日のためか比較的多くの人が来ていました。いつも感じることだけど、図書館にいる人の顔・雰囲気というのはあまりいいものではありません。何か独占欲・収奪欲がとても強い欲深い顔をみなしているように思います。

本を読むというのは元来エゴイスティックな行為です。(物理的あるいは心理的な)閉鎖的な空間に独りでこもって快楽を得ようとしたり、「役に立つ」知識を仕込もうとしたり、と。そうしたエゴイストたちが集まっているのですから、図書館の風景というのはあまりいいものにはならないのかもしれません。

図書館と言えば、先日神戸市立図書館に洋書のペーパーバックを頼んだら、購入してもらえました。価格が千円か二千円ぐらいであれば、購入を検討してもらえるのかもしれません。洋書は利用度が引いという理由でこれまであまり公立図書館では購入されてこなかったかもしれませんが、逆に言えば蔵書が少ないから図書館での要所の利用が少なかったのかもしれません。

これからも英語を読む人は増えるわけですから、洋書の購入を図書館に頼む人が増えれば、より多く購入してもらえるのかもしれないですね。

また日本に滞在している外国の人の利用ももっと増えるかもしれません。現在の公立図書館で海外の人の顔を見かけることは殆どないし、アジアの言葉を聞くこともありません。


涼風