joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

事象の固有性に耳を傾ける

2006年07月10日 | reflexion


本屋を覗いたりテレビを見たりすると、つねに多くの論者が床屋政談を講じています。そのケバケバしい雑誌のタイトルや、ただわめいているだけの討論番組を見ていると、この人たちにとっては自分をアピールすることが一番大事で、誰にとってその問題の解決が重要なのかなど全く考えていないように見えます。

たとえ評論家やフリーライターという職業柄、そうやって派手派手しく騒ぐのが職業とはいえ、扱っている問題は世間みんなに該当すると思っているのですから、もっと静かに話したり書いたりできないだろうかとも思います。

しかし、大学教授や精神科医といった、組織に所属して収入が安定している人でも、そういった雑誌やテレビに登場して大声で自説を主張します。言っている内容を理解する以前に、雑誌にしてもテレビにしても、体裁がコマーシャリズムにのっとってセンセーショナルに消費者を惹きつけるようになされているので、受け取り手は最初から冷静にその議論を聞く気になれません。

学者やお医者さんが専門家として自説を述べること自体はいいことのはずです。一般の人は忙しくて時間が無いからこそ、彼らには専門家として考えてもらうために、社会は彼らの存在を尊重しています。

だからテレビや雑誌というメディアで専門家が出てくることは、本来は必要なことだし、当然あってしかるべきだし、むしろ何も言わなければ逆に専門家の存在意義は何なのだろう?と疑問に思います。

にもかかわらず、現在の雑誌やテレビへの専門家のコメントは、どこか浮ついたものに感じます。

精神科医が本を書くことはいいことなのだと思います。でも、なぜ殺人事件に対して新聞に数行のコメントを載せるのか、分かりません。ある人が犯罪を犯すに至った動機を数行で片付けることは、その犯罪を行った人の人生にコミットしていないことではないでしょうか。精神科医の仕事は、おそらく一般論で括りきれない個々人の人生の背景に踏み込んで、その患者さんの人生を手助けすることでしょう。

そうする中で、人間の心理に関するいくつかの一定のパターンを見出して本に書いたりすれば、それは読者にとっても助けとなるのだと思います。しかし中には、最初からパターン化された診断を事件に当てはめて新聞にコメントを出しているような精神科医の人もいるように思えます。

患者その人の固有の声を聴くことがその人の仕事のはずなのに、人それぞれの固有の声(たとえ内容は同じでも)を聴かず、最初から自分の診断パターンを当てはめるだけだと、結局はそのお医者さんは目の前にいる人を“人間”としてみていないことになります。

精神科医にしても学者にしても、扱っている事象の固有性に耳を傾けてこそ、その事象を論ずるだけの落ち着きと真剣さが生まれるのだと思います。


Takeshi NAKANISHI

ジダン

2006年07月10日 | スポーツ


というわけで今回のユーロ2006はイタリアの優勝で終りました。僕は今朝起きたのが6時。試合は3時からなのでもう終っていると思ったのですが、下の部屋で父親がテレビでサッカーを見ていたので「あれっ?」と思いました。見てみるとPK戦。

PK戦にはドラマはありませんでした。ブッフォンはPKについては読みを当てるのが上手くないのかな?それとも当たらないのが普通なんでしょうか。結局両者合わせてトレセゲがポストに当ててしまっただけで、みんな当たり前のようにきっちり決めました。

でもジダンという名手がPKにいなかったのは残念でしたね。ポルトガル戦のPKは、僅かな助走からサイドネットを揺らす強烈なシュート。ポルトガルのキーパーも完全に読んでいて、ボールの方向にかなり反応良く飛んでいたのですが、それでも取れませんでした。サイドネットを揺らすゴールをきつく蹴れば絶対に止められないと確信しているかのようなジダンのPKでした。

試合は見ていなかったので何ともいえませんが、ジダンの退場は後から聞いてもショックでしたね。ああいうことになっては、ジダンもイタリアの選手も後味が悪いんじゃないでしょうか。マラドーナ以来の最高の選手と言われている人の最後の試合だったのですから。

僕はマラドーナのプレーをほとんど知らないし、ジダンについても普段のリーグ戦は(スカパーとか入っていないので)ほとんど見たことがありません。でもユーロ2000や普段のダイジェストで見ることのできた彼のプレーは、本当にうっとりさせられます。

顔はごつい人ですが、体はとてもバランスの取れた体型をしている人です。足も長く背も高い。その体がドリブルをすると非常に安定した動きをし、ボールが足に吸い付いたようになります。そして誰もが予測のつかないフェイント・ターン・パスを繰り出します。

ジダンがボールをもつと、周りが一生懸命サッカーをしている中で、彼一人がダンスを踊っているようになるのです。他の選手と彼の体の中にはべつの時間軸が流れているようでした。みんなが大慌てでボールを追いかけているのに、ジダンがボールをもつと突然優雅な音楽が流れて時間がゆっくり流れていくようでした。

ロナウジーニョもロナルド(ポルトガル)もテベスもメッシもロッベンも、みんな鋭いドリブルをします。でも彼らはみんなサッカーをしています。ジダンは違うんだな。彼はボールをもつと踊り出すんです。

ジダンのドリブルのフォームはとても美しい。体の重心がブレず、大股のスライドなのにボールが足に吸い付いています。

今回の退場劇に無念を感じた彼が、もう一度思い直して・・・ということにはならないかな、やっぱ。


涼風