夏、空がどんより曇っていて、風もほとんどなく、じっとしていると脂汗が出てくるような、いかんともしがたい蒸し暑い日のことを油照(あぶらでり)という。
昨日はそれに似ていた。
一面灰色の空は、まるで分厚い壁のように街全体を覆っていて、息苦しいほどだった。温度計も上昇し、30度近くまで上がっていた。黙っていても汗が滴り落ちてくる。
相変わらず忙しい日々が続いている。
休み明けまでに作れと上層部から言われていた「企画書」を、やっとの思いで書き上げ、少しほっとしていたら、今度は会議が連続して続いてゆく。
最近特に、一刻でも早く今の仕事に見切りをつけたいという気持ちが強くなっている。
でも、あと一歩がどうしても踏み出せない。勇気と度胸が足りないのだろうが、やはり一番の要因は、著しい収入減に伴って生活の目途がまったく立たなくなる事だろう、悲しいかな。
仮に、このまま生き続けたとしても、あと何十年後かには確実に何らかの病気に罹り、入退院を繰り返し、体を切り刻まれ、薬漬けと猛烈な痛みに日々七転八倒し、味気ない病室の片隅で痩せ細りながらひとり孤独に死んでゆく・・・。
百歩譲って、病気に罹ることなく五体満足であり続けたとしても、やがて肉体は衰え、物忘れは酷くなり、大好きなスポーツも読書も旅も、それから音楽を聴いたり映画館まで足を運んで映画を観ることも叶わなくなり、行動範囲は異常に狭まってゆくのだ・・・。
それが耐えられない。絶対に耐えられない。
それならば、転がる石のように絶えず動き続け、頑強な岩にぶつかって一瞬のうち粉々に砕け散ってしまうほうがまだいい、心底そう思う。
しかし、それって自死なのだろうか?
須原一秀の「自死という生き方・覚悟して逝った哲学者」(双葉社)は凄い本である。
著者である哲学者の須原一秀は、実際に、2006年4月、自らの命を絶っている。
彼は、癌に侵されたわけでも、人生に絶望して厭世的になったわけでも、生活苦や家庭的な不幸に見舞われたわけでもない。
彼は、60歳を過ぎても至って健康で、家族の愛にも恵まれ、大学教授としても充実した毎日を送っていた。哲学者としての著作もあり、死ななければならない理由などまったくなかった。
しかし彼は自らの命を絶った。自死である。
何故か。
「自死という生き方・覚悟して逝った哲学者」(双葉社)に、その理由が詳細に書かれている。つまり、本人の日記という体裁を借りて、彼は自死までの行程を真剣に書き連ねているのだ。
本の巻頭における浅羽通明氏の解説によれば、ひとつの「哲学的事業」ですらあった。
須原一秀はいう。
死には、積極的受容と消極的受容があるのだと。自死だろうが、自然死だろうが、病での死だろうが、人は必ず死んでゆく。ならば、「死」という最終到達点への道はどちらも同じであろうと。
須原一秀はいう。
凄まじい闘病生活を過ごし最後を迎えたとき、その遺族に対して医師が告げる「安らかで穏やかな最後でした」というお悔やみの言葉の中に、若干の嘘はないのだろうかと。
須原一秀はいう。
場合によっては何年間にも及ぶ闘病生活を過ごし、その間、悶え苦しみ、喘ぎ、家族や介護人の世話を受け、体も一切利かなくなる。その深い絶望感と、それとは逆の「生きたい」という意志との絶え間ない葛藤。
だからこそ、痛み抜いた時間の最後の一瞬だけは、確かに「安らか」だったかもしれないが、それは単に一瞬の安らぎでしかなく、その何万倍、何億倍もの「痛さ」がそれまでずっと続いていたはずなのだと。
この本を論評するとき、一歩間違えると「自死」肯定だと短絡的に捉えてしまいかねない危険性は確かにある。そこは、じっくり「自死という生き方・覚悟して逝った哲学者」を熟読していただくしかない。そんな表層的な部分をなぞった本では決してない。
俺は、留まったらそこで窒息死してしまうに違いない、たぶん。
それが、回遊魚の悲しいさだめなのである・・・。
昨日はそれに似ていた。
一面灰色の空は、まるで分厚い壁のように街全体を覆っていて、息苦しいほどだった。温度計も上昇し、30度近くまで上がっていた。黙っていても汗が滴り落ちてくる。
相変わらず忙しい日々が続いている。
休み明けまでに作れと上層部から言われていた「企画書」を、やっとの思いで書き上げ、少しほっとしていたら、今度は会議が連続して続いてゆく。
最近特に、一刻でも早く今の仕事に見切りをつけたいという気持ちが強くなっている。
でも、あと一歩がどうしても踏み出せない。勇気と度胸が足りないのだろうが、やはり一番の要因は、著しい収入減に伴って生活の目途がまったく立たなくなる事だろう、悲しいかな。
仮に、このまま生き続けたとしても、あと何十年後かには確実に何らかの病気に罹り、入退院を繰り返し、体を切り刻まれ、薬漬けと猛烈な痛みに日々七転八倒し、味気ない病室の片隅で痩せ細りながらひとり孤独に死んでゆく・・・。
百歩譲って、病気に罹ることなく五体満足であり続けたとしても、やがて肉体は衰え、物忘れは酷くなり、大好きなスポーツも読書も旅も、それから音楽を聴いたり映画館まで足を運んで映画を観ることも叶わなくなり、行動範囲は異常に狭まってゆくのだ・・・。
それが耐えられない。絶対に耐えられない。
それならば、転がる石のように絶えず動き続け、頑強な岩にぶつかって一瞬のうち粉々に砕け散ってしまうほうがまだいい、心底そう思う。
しかし、それって自死なのだろうか?
須原一秀の「自死という生き方・覚悟して逝った哲学者」(双葉社)は凄い本である。
著者である哲学者の須原一秀は、実際に、2006年4月、自らの命を絶っている。
彼は、癌に侵されたわけでも、人生に絶望して厭世的になったわけでも、生活苦や家庭的な不幸に見舞われたわけでもない。
彼は、60歳を過ぎても至って健康で、家族の愛にも恵まれ、大学教授としても充実した毎日を送っていた。哲学者としての著作もあり、死ななければならない理由などまったくなかった。
しかし彼は自らの命を絶った。自死である。
何故か。
「自死という生き方・覚悟して逝った哲学者」(双葉社)に、その理由が詳細に書かれている。つまり、本人の日記という体裁を借りて、彼は自死までの行程を真剣に書き連ねているのだ。
本の巻頭における浅羽通明氏の解説によれば、ひとつの「哲学的事業」ですらあった。
須原一秀はいう。
死には、積極的受容と消極的受容があるのだと。自死だろうが、自然死だろうが、病での死だろうが、人は必ず死んでゆく。ならば、「死」という最終到達点への道はどちらも同じであろうと。
須原一秀はいう。
凄まじい闘病生活を過ごし最後を迎えたとき、その遺族に対して医師が告げる「安らかで穏やかな最後でした」というお悔やみの言葉の中に、若干の嘘はないのだろうかと。
須原一秀はいう。
場合によっては何年間にも及ぶ闘病生活を過ごし、その間、悶え苦しみ、喘ぎ、家族や介護人の世話を受け、体も一切利かなくなる。その深い絶望感と、それとは逆の「生きたい」という意志との絶え間ない葛藤。
だからこそ、痛み抜いた時間の最後の一瞬だけは、確かに「安らか」だったかもしれないが、それは単に一瞬の安らぎでしかなく、その何万倍、何億倍もの「痛さ」がそれまでずっと続いていたはずなのだと。
この本を論評するとき、一歩間違えると「自死」肯定だと短絡的に捉えてしまいかねない危険性は確かにある。そこは、じっくり「自死という生き方・覚悟して逝った哲学者」を熟読していただくしかない。そんな表層的な部分をなぞった本では決してない。
俺は、留まったらそこで窒息死してしまうに違いない、たぶん。
それが、回遊魚の悲しいさだめなのである・・・。