韓国映画の監督でお気に入り、ご贔屓(ひいき)監督といったら、まずは「殺人の追憶」、「グエムル―漢江の怪物」、「母なる証明」のポン・ジュノ。
次は、「悪魔を見た」のキム・ジウン。
この人、ハリウッドに招かれ、最近になってアーノルド・シュワルツネガーで「ラスト・スタンド」(この映画はイマイチだったけど)も撮った。
「悪魔は見た」、傑作中の傑作です!
それからパク・チャヌク。
「オールド・ボーイ」と「親切なムクジャさん」ね。どちらも傑作でした。
ハリウッドでこの2作はリメイクが決定したらしい。
「オールド・ボーイ」はスパイク・リーが監督をつとめ、今年秋に全米公開。それから余りにも強烈過ぎる復讐劇「親切なムクジャさん」は、なんとシャーリーズ・セロンが主役なのだとか。
楽しみだ。
そして、ホ・ジノ監督もいい。
「春の日は過ぎゆく」もよかったし、ペ・ヨンジュンが主演した「四月の雪」も素晴らしかった。
ある意味、このリリシズムは圧倒的に美しい。
これ以外にも凄い監督が韓国にはたくさんいるし、映画だけを取り上げても素晴らしい作品は限りない。
そして、その数多いる韓国の素晴らしい映画監督の中で、忘れてならないのがキム・ギドクだろう。
キム・ギドクの映画を初めて観たのは、「春夏秋冬、そして春」だった。
この映画には衝撃を受けた。
それからすぐに「悪い男」を観た。そして、またガツンと脳天に一撃を受けてしまった。
そこから、僕のキム・ギドク行脚の旅が始まる。
「サマリア」を観て、「うつせみ」を観て、「弓」を観て、「絶対の愛」を観て・・・。
ただ、オダギリ・ジョーが主演した「悲夢」にはガッカリしたけれど。
一番印象に残っているのは「弓」だろうか。
「弓」映画自体の評価がどうだということより(もちろん、好きな映画ではあるけれど)、その観た当時の事が今でも蘇るのである。
恐ろしいくらい当時は落ち込んでいて、完全にどん底状態で、確か雨降る秋の夜、独りで東京の渋谷で上映した「弓」を観に行ったのだった。
観終えて映画館を出たら、突然冷たい秋の雨が降って来て、傘もなかったから、楽しそうに相合傘を差して舗道を歩くカップルたちを横目に、凄まじいまでの焦燥感に塗(まみ)れ、濡れながらホテルまで帰った事を「弓」のシーンと合わせて想い出してしまう・・・。
圧倒的な孤独と、凄まじい焦燥感・・・それはそのまま、キム・ギドクのドキュメンタリー?映画「アリラン」の中の、キム・ギドク自身にも当てはまるに違いない。
ドキュメンタリー?映画とあえて疑問符を付けたのには訳がある。
この映画、キム・ギドク自身がカメラに納まり、自分でカメラを回してその長期間に亘る隠遁生活を撮ったドキュメンタリー的作品なのだが、自らの分身を影と名付けてそのもう一人の自分と対話させるなど、全編、演技すれすれの独白形式でカメラの前へと立ち続けるのである。
本人も、ドキュメンタリーでもありドラマでもあると、「アリラン」の中で語っている。
キム・ギドクは何故、たった独り、辺鄙(へんぴ)な山里で3年間もの隠遁生活を続け、一本の映画すら撮る事が出来なかったのか?
それは「悲夢」の撮影時、女優が大事故を起こしたことの精神的なショックや、助監督らの裏切りや、母国での低評価などが重なって、映画を撮れなくなってしまったということを、「アリラン」を通して告白する。
カメラの前で泣く自分自身を、また別のモニターで眺めながら、軽蔑した目線をそこに送り、自虐的に語ってゆくキム・ギドクがいる。
「アリラン」を泣きながら歌うキム・ギドクがいて、猫に寂しく餌を与えるキム・ギドクがいる。自己批判を繰り返し、自らを痛めつけ、罰し、罵るキム・ギドクがいる。
そこに居るのは、痛々しくて、弱り切って、自らを貶(おとし)める独りの男ではあるのだが、それを設置したカメラに向かっていくら叫んでみても、そこに見え隠れする自己憐憫が、観る側を白けさせるというのもまた一方の事実なのだ。
というか、カメラの前でおのれの「どうしようもなさ」を声高に叫ぶキム・ギドクと、雲泥の差はあるとしても、こうしてブログなんて媒体を通じて自分自身の不甲斐なさを吐露する浅はかな志の低さとを、否が応でも比べてしまうからかもしれない。
まあ、こちらの程度の低さとキム・ギドクの高邁な苦悩の高さには、比較出来ないほどの大きな落差が存在しているのは、誰もが認める事実ではあるけれど。
自己憐憫って奴、ほんと、厄介な代物ではあります。
しっかし、それにしてもなあ・・・。
それでも映画「アリラン」、第64回カンヌ国際映画祭のある視点部門で上映されて大絶賛され、「ある視点賞」を受賞した。
次は、「悪魔を見た」のキム・ジウン。
この人、ハリウッドに招かれ、最近になってアーノルド・シュワルツネガーで「ラスト・スタンド」(この映画はイマイチだったけど)も撮った。
「悪魔は見た」、傑作中の傑作です!
それからパク・チャヌク。
「オールド・ボーイ」と「親切なムクジャさん」ね。どちらも傑作でした。
ハリウッドでこの2作はリメイクが決定したらしい。
「オールド・ボーイ」はスパイク・リーが監督をつとめ、今年秋に全米公開。それから余りにも強烈過ぎる復讐劇「親切なムクジャさん」は、なんとシャーリーズ・セロンが主役なのだとか。
楽しみだ。
そして、ホ・ジノ監督もいい。
「春の日は過ぎゆく」もよかったし、ペ・ヨンジュンが主演した「四月の雪」も素晴らしかった。
ある意味、このリリシズムは圧倒的に美しい。
これ以外にも凄い監督が韓国にはたくさんいるし、映画だけを取り上げても素晴らしい作品は限りない。
そして、その数多いる韓国の素晴らしい映画監督の中で、忘れてならないのがキム・ギドクだろう。
キム・ギドクの映画を初めて観たのは、「春夏秋冬、そして春」だった。
この映画には衝撃を受けた。
それからすぐに「悪い男」を観た。そして、またガツンと脳天に一撃を受けてしまった。
そこから、僕のキム・ギドク行脚の旅が始まる。
「サマリア」を観て、「うつせみ」を観て、「弓」を観て、「絶対の愛」を観て・・・。
ただ、オダギリ・ジョーが主演した「悲夢」にはガッカリしたけれど。
一番印象に残っているのは「弓」だろうか。
「弓」映画自体の評価がどうだということより(もちろん、好きな映画ではあるけれど)、その観た当時の事が今でも蘇るのである。
恐ろしいくらい当時は落ち込んでいて、完全にどん底状態で、確か雨降る秋の夜、独りで東京の渋谷で上映した「弓」を観に行ったのだった。
観終えて映画館を出たら、突然冷たい秋の雨が降って来て、傘もなかったから、楽しそうに相合傘を差して舗道を歩くカップルたちを横目に、凄まじいまでの焦燥感に塗(まみ)れ、濡れながらホテルまで帰った事を「弓」のシーンと合わせて想い出してしまう・・・。
圧倒的な孤独と、凄まじい焦燥感・・・それはそのまま、キム・ギドクのドキュメンタリー?映画「アリラン」の中の、キム・ギドク自身にも当てはまるに違いない。
ドキュメンタリー?映画とあえて疑問符を付けたのには訳がある。
この映画、キム・ギドク自身がカメラに納まり、自分でカメラを回してその長期間に亘る隠遁生活を撮ったドキュメンタリー的作品なのだが、自らの分身を影と名付けてそのもう一人の自分と対話させるなど、全編、演技すれすれの独白形式でカメラの前へと立ち続けるのである。
本人も、ドキュメンタリーでもありドラマでもあると、「アリラン」の中で語っている。
キム・ギドクは何故、たった独り、辺鄙(へんぴ)な山里で3年間もの隠遁生活を続け、一本の映画すら撮る事が出来なかったのか?
それは「悲夢」の撮影時、女優が大事故を起こしたことの精神的なショックや、助監督らの裏切りや、母国での低評価などが重なって、映画を撮れなくなってしまったということを、「アリラン」を通して告白する。
カメラの前で泣く自分自身を、また別のモニターで眺めながら、軽蔑した目線をそこに送り、自虐的に語ってゆくキム・ギドクがいる。
「アリラン」を泣きながら歌うキム・ギドクがいて、猫に寂しく餌を与えるキム・ギドクがいる。自己批判を繰り返し、自らを痛めつけ、罰し、罵るキム・ギドクがいる。
そこに居るのは、痛々しくて、弱り切って、自らを貶(おとし)める独りの男ではあるのだが、それを設置したカメラに向かっていくら叫んでみても、そこに見え隠れする自己憐憫が、観る側を白けさせるというのもまた一方の事実なのだ。
というか、カメラの前でおのれの「どうしようもなさ」を声高に叫ぶキム・ギドクと、雲泥の差はあるとしても、こうしてブログなんて媒体を通じて自分自身の不甲斐なさを吐露する浅はかな志の低さとを、否が応でも比べてしまうからかもしれない。
まあ、こちらの程度の低さとキム・ギドクの高邁な苦悩の高さには、比較出来ないほどの大きな落差が存在しているのは、誰もが認める事実ではあるけれど。
自己憐憫って奴、ほんと、厄介な代物ではあります。
しっかし、それにしてもなあ・・・。
それでも映画「アリラン」、第64回カンヌ国際映画祭のある視点部門で上映されて大絶賛され、「ある視点賞」を受賞した。