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淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

「ドッグヴィル」の鬼才ラース・フォン・トリアー監督のアメリカ三部作・第二弾「マンダレイ」を観る。

2006年03月31日 | Weblog
 ラース・フォン・トリアーという映画作家の頭の中を一度でいいから覗いてみたい。
 この人の思考回路って、一体どうなっているんだろう? 凡人には及びも付かない。

 ビョークが主演した「ダンサー・イン・ザ・ダーク」もかなり衝撃的な映画だったけど、前作「ドッグヴィル」もまた凄かった。
 広いスタジオの床に、白線だけで「家」の境界とか「庭」とか「道」とかを仕切り、あとは簡易な家具だけを置き、まるで舞台劇のように映画自体が進んでゆく。しかも約3時間という上映時間。
 アメリカのドッグヴィルと呼ばれる片田舎に紛れ込んでしまった、主人公のグレースという女性。演じたのはニコール・キッドマン。
 そしてその村でグレースは奴隷のような扱いを受け、最後にギャングの父親によって村人たちは惨殺されてしまう・・・。

 映画「マンダレイ」は、その「ドッグビィル」に続く物語だ。
 つまり、ラース・フォン・トリアー監督による「アメリカ三部作」の第二作目にあたるのが「マンダレイ」である。

 いやはや。しかしこの「マンダレイ」も凄い。
 背景は前作と同じ。広いスタジオの床に、白線で「家」の境界とか「庭」とか「道」とかを仕切り、あとは簡易な家具だけを置き、舞台劇の如くドラマは進行する。
 ただ、主役はニコール・キッドマンから、新たにブライス・ダラス・ハワードに替わった。あのロン・ハワード監督の愛娘だ。

 ドッグヴィルの村人たちを殺したグレースと、ギャングの親玉の父親やその手下たちの一行は、深南部の村まで辿り着く。
 その村は、奴隷制度が既に廃止されたにもかかわらず、まだ白人たちによる黒人への差別が横行していて、村の黒人たちは単なる奴隷として抑圧された生活を強いられていた。
 それを目の当たりにしたグレースは、ギャングの父親の忠告を聞こうとせず、村の支配階級としての白人たちに対し、黒人奴隷の解放を叫び、聞き入れない村人たちには、手下のギャングたちに命じ、マシンガンなどの武器でもって威圧する。

 目には目を。歯には歯を。
 グレースは、「自由」を黒人に与えるために、あえて「暴力」という装置を使って「支配階級」を弾圧するのだ。
 それはまるで、現実社会におけるアメリカの対外外交政策に似ている。アメリカこそが真の「解放者」であり、唯一の「正義」であると。つまり、圧倒的な武力を行使して、「自由を脅かす勢力」を駆除し、抑圧されている人民を解放する「正義の味方」なのだと。

 映画は、アメリカをグレースに置き換える。
 開放された黒人たちは、いっときの「自由」が苦痛に変わり始め、またこれまでの「抑圧された居心地のよさ」を心から求めるようになるのだ。
 何というパラドックス。何というアイロニー。全てに開かれた自由の、圧倒的な不自由さ。人間は、何らかの「規制」や「制度」や「管理」の中でのみ、自由なのだろうか。

 ラース・フォン・トリアーは、生まれてこれまで一度もアメリカに行ったことがないという。しかし、彼はアメリカという国について考える。その「制度」について。その「風土」について。

 ラストのエンド・ロールに流れる曲は、デビッド・ホウイの「ヤング・アメリカン」。これには今回も苦笑いしてしまった。ここまでやるか?
 とにかく次の完結編が非常に楽しみだ。
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