goo blog サービス終了のお知らせ 

うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

14年たちました

2025年04月30日 | ブログ


いつもご覧いただきまして、大変ありがとうございます。

先日来のgoo blogのサービス終了告知により、フォローさせていただいている皆様の間にも動揺?が広がっているようです。

本日現在、当ブログでは一応静観の状態で、ふつうに書き込みを続けております。

いまのところ、時期を見計らって推奨ブログへ引っ越し、現ブログにはリダイレクトをかけて新ブログへ誘導、といった方向性を考えています。
ただ、先行して移転された方の状況を見ていると、結構苦労されている方もいるようですね。
月が明けたら、そろそろ動き始めることになりそうです。

11年前にOCNブログが終了すると告知したのは5月中旬、終了は11月末とのことでした。実際に本ブログが移転したのは9月21日でしたが、移転の手続きが公開されたのは同月の初め頃(本ブログの記事では5日に紹介)だったようです。

今回は移転手続きは既に紹介されています。リードタイムとしては前回の2か月に対し、今回は半年あるので多少余裕があるようです。

ただ、最初は混みあうから少し様子を見てから引っ越してくれ、みたいな事を言いながら、やたらともうすぐ終わります掲示をしているのは矛盾している気がしないでもないです。ブログの頭のところに終了のお知らせって、書かれても読者には関係ない話だし。
目障りだからブログのデザイン変えましたけど。

しかしまあ、文句言ってもしかたない。

ちなみに「はてな」は先ほどアカウントを作成し、今フォローしていてはてなに引っ越された方の読者登録を開始しました。おそらくこのブログの移転先もこちらになるでしょう。

Amebaは5年前にいちおうアカウントを作っていて、ブログも一回だけかいていますが、特に活用のめどはたっていません。


ココぴいは元気ですが、首傾げ状態は相変わらずなので、写真撮るのは難しいのです。

ブログのことはまあいいのですが、今は現実の仕事の方がどうにも困っております。

現行組織(自分のいる部署)がグループ内別会社に移転再編、という流れで、ちょうどブログ移転問題とシンクロしてるかのようなのですが、色々不確定でアタマがいたい。というか、もう辟易しているというほうが当たっているのですが。


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印象に残っているウェブサイトやブログなど

2025年04月29日 | デジタル・インターネット


いんたーねっと老人会見習いのうさぎくんです。
ニフティサーブとか2チャンネルとかは経験しそびれたので、家元になるのは無理ですね。

最初にインターネットに接続したのは1996年9月末、富士通DESKPOWER FMV-5133DPSを上宗岡にあったコジマ電気で買ってからです。定価30万円のものが20万円ちょっとで、オマケにタッチおじさんのマウスパッドをもらったのに忘れてきてしまったのを今でも悔いています。あの頃のコジマ電気は箱売りショップみたいな感じでしたね。。

回線接続は当時電話回線によるモデムです。本機は28.8KbpsのFaxモデムを搭載していましたが、最初の設定の時間違えて14.4Kpbsで設定してしまい、後に直したことを覚えています。

さて今回はハードウェアの話ではないのでこの辺にしてと。


それじゃ8インチフロッピーみたいじゃないか!

当時ポータルサイトというとYahoo!ぐらいしかありませんでした。日本語のウェブサイトもほとんどなかった。たしか近畿日本鉄道のサイトを見つけて、過去の車両の画像を見たりしていましたが、画像のDLにとても時間がかかるので、あまり意味がない感じでした。
あの頃のいいかたでいうと、近鉄のホームページ、ですよね。

96年ぐらいだともう、プロバイダーがサーバースペースを提供していたので、ユーザーがウェブサイトを開設することが増えてきました。

いちばん最初の頃で覚えているのはDVD CATalogだったかな、DVDの事を扱ったページですね。1996年秋の段階では出たばかりの最新のメディウムでした。
うちでは翌年夏にプレーヤを買ったので、興味があったのです。

この時代、サイトの各ページは固定的に掲示され、日常のチャット的なやり取りは掲示板とか、BBSと言われるチャットボードで行われることが普通でした。こちらの管理人の方とBBSだかなにかのアンケートだかで、やり取りをしたのが、ネット上の交友の最初だった気がします。

掲示板自体の源流は、パソコン通信までさかのぼるのだそうですが、その辺は知らないんですよね。なので老人会見習いなのですが。

掲示板をよく読んでいたのはPenguin-19さんのCompact Cameraのサイトです。1990年代後半はまだフィルムコンパクトカメラが隆盛で、コンタックスやミノルタ(ああ懐かしい)の高級コンパクトカメラが話題を呼んでいた時代でした。ここではちろっとだけ書き込みしてたな。金属とプラスチックさん(=HN)という、長文の書き込みをされる方がいて、大ぶろしき何だか何だかわからないお話を展開されていたのを、結構楽しく読んでました。

Penguin-19さんは今もご活躍の様子ですが、ウェブサイトは開設されていないようです。

AIは最近生まれた子なので、FORTRANとか磁気テープにプログラムを書き込むとか言われても、何のことかわからない。

僕もNifty(たしか最初はInfoseekだった記憶あり)のホームページサービスを使って、さいしょは所属の音楽団体のウェブサイトを作りました。最初は手探りで、デジカメもなかったので(カメラ付き携帯も登場前)フィルムで撮影してDPE屋でCDに焼いてもらう、などしていました。後に自分の管理を離れましたが、今もやっているようです。
別途自分だけのウェブサイトも作りました。5年ほど続けて止めにしました。

こうした個人ウェブサイトは一時期流行しましたが、ブログやSNSの普及と共に利用者が減少、Niftyもサービスを終了しています。

当時リンクを頂いていた、個人サイトの方で、まだ続けていらっしゃる方は少数ですがおられます。
一時期僕のサイトもリンクを張らせていただいてました。

直接のお付き合いはなかったのですが、前世紀の終わりごろからずっと見ているのは;



これらは、ブログと言う形式を使わずにご自身のページにタグ打ち込みというか形で、日記的なことを書かれています。これだとブログサービスの盛衰に関わらず継続できますね。

個人ページを維持しながら、ブログを追加された方

最近更新されておられないようですが、以前はよく拝見していたサイト

ULYSSESスタッフブログ|いつだって前のめり
(自営を始められてからのお店のブログ。これ以前、カメラ関連のお仕事をされる前の、わたまちの時代はよく読んでました。)

昔のデジカメ情報サイトだったころはよく読んでました。

全部は掲げられないので、ほんの一部です。昔はカメラ系が多かったですね。
ペンタックス系のサイトも結構あったのですが、さいきんちょっと減ってきたかな。MZ-3と単焦点レンズを数点買われて、後には家を買われたり高倍率のデジカメを買われていた方(宣言の上更新停止されました)、MZ系ペンタの素敵なウェブサイトを作っておられた方など。

モノ系はほかにもヘッドフォンとか、空気清浄機とか、結構見ていたのですが。

WS30の世界 (ブログページ)
この方のサイトは2000年代の初め頃から拝読していました(WS30の世界)。当時のITには詳しい方(自分の職業をライターと呼ぶことがある、と書かれています)で、当時もおもちゃデジカメという言い方はあったと思いますが、WS30という簡素なデジカメに関心を持ち、独自の視点で持論を展開されていました。
最初はHTML書き込み式で書かれていましたが、僕はこの方から「ブログ」なるものを知りました。曰く、最近は検索サイトで検索するとトップにブログ記事が引っ掛かることが多く、以前よりも必要な情報にたどり着けなくなった、と。

当初は時流に乗ることに抵抗もあったようですが、ややあってご自身もブログ形式で書かれるようになったようです。

更新は2011年が最後です。以前はたしかXでお見掛けしたと思っていたのですが、さいきん書き込みがないようです。

文面から僕よりもだいぶん年配で、しかし既成概念にとらわれず独自の視点で社会やビジネス、ガジェット評をされていた方でした。今読んでも面白いし、当時の技術的な傾向もわかって、当時とは別の価値が出てきたように思います。
お元気でしょうかね。
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レンズ修理といくつかの買い物

2025年04月28日 | カメラ、写真

少し前の話になるが、修理に出していたM.ZUIKO DIGITAL ED14-42mm EZが修理から帰ってきた。量販店のサービスカウンターに持ち込んだのが3月21日、修理完了して引き取ったのが4月15日、修理代22,110円だった。

前回も同じくらいの修理代で、今回分と合わせると量販店で新品を買った方が安い。但し今回の修理代よりは高い。

SNSでこのことを取り上げて、これなら中古を買った方が安いかもしれない、と書いたら、先輩からコメントがあり、レンズは自分と苦楽を共にした友達なのだから大切に、と。なるほど、これは重みのあるご発言、と思って修理に踏み切った。

話は飛ぶのだが、仕事で(オンライン会議棟で)使っている耳掛け式のヘッドフォンが壊れたようだ。フックが外れて、組み直してもまた取れてしまう。プラスチックの所が削れたか折れたかしたらしい。

耳掛けは外音を適度に取り入れることができるのと、耳に負担感がないので便利なのだ。音楽聞くには(音漏れ、音域)向いてないが、仕事には向いている。

前回も800円ぐらいだったので、同じようなやつを、量販店の通販で買った。

ついでに、音楽データ用に250GBのSSDを買った。
従来SUBメモリを使っていたが、USBメモリは耐久性に難があるそうで、事実昨年末にひとつダメにしている。音楽用だとあまり大容量なものは不要なので、小さいものを買った。
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当世SNS、ネット事情 2025春

2025年04月27日 | デジタル・インターネット

震災関連の記事が続きました。

このテーマはこのブログが2011年4月に始まったという事が示すように、本ブログの底流をなすものです。とはいえ、これについて書いていると、だんだんと自分の中に色々なものが浮き上がってきて、なかなかしんどいところもあります。

ので、とりあえず筆を置いて、気分を変えましょう。



この種のテーマは以前から定期的に書いています。前回は昨年夏でした。

これ以外にも適宜書いていると思いますが、SNS系はサービサーの状況も自分も結構変わりました。

Facebookが一番酷かったのですが、以前は掲示されている広告が詐欺そのものだったり、前澤友作氏など有名人を語った偽物が横行していたものが、ここのところ大分整理が進んでいるようです。

全く根絶されたとは言えないと思いますが、恐らく昨年は前澤氏がメタを提訴したり、政府がコメントを発するなどをしたために、メタ社の方で相応の対策を取り始めたものと思われます。
対策されたこと自体は当然として、それではメタ社が良心的な対応をしているのかというと、どうも仕方がないからやっている、という雰囲気がないでもありません。そもそも、詐欺広告を長年放置していた(詐欺でも広告料は入るから)のですから。

FBでの書き込みは友人間のみ閲覧の設定にし、新規の友人も基本的には受け入れていません。多少過疎化していて、同じようなTLばかり掲示される傾向があります。


1月ごろからX(旧Twitter)をあまり見なくなりました。最後に「いいね」をしたのも1月中旬です。
情報収集のため、多数の人をフォローしていたのですが、これも半減位に整理しました。

Xは他のSNSに比べ情報伝達が早いのが特徴でした。韓国の大統領が戒厳令を発したのも、日本のマスコミが報道するかなり前にXで知りました。

ただ、Xは基本的にとても剣呑な書き込みが多く、まいにち何かしらが「炎上」しています。

加えて近年の社会情勢自体が極めて剣呑です。戦争、インフレ、各国の政治情勢。
情報を仕入れることは大切だと、これまで頑張ってきたのですが、だんだん疲れてきました。

Xもカスタマイズはできるので、徐々に自分の好みを表示できるように直していきました。
やがてタイムラインのほぼ全部がうさぎ、という状況に持って行くことに成功しました。

これこそが我々にとっての理想的な状態です。我々に必要なのは真偽不明の流言飛語でもなく、他人を口汚くののしることでもありません。
だまってうさぎを見続けることこそが真理であり、それ以外のものは本来必要ないのです。

とはいえ、流石にうさぎばかり見ていると、あまりにも正しいことをしすぎているので退屈、ではない、うさぎへの敬愛が形骸化してしまいがちです。

といういきさつで、Xはあまり使わなくなってきました。

今はFBと同じメタ社のThreadsを主に使っています。Threadsは一足先にTLがうさぎだらけになっていますが、つぶやき自体はごく普通にしています。



LINEは連絡手段としては便利なのですが、グループLINEは基本的にやらなくなりました。

グループLINE(複数がメンバーとなってお互いにTL上で語り合う)を最初に負担に感じるようになったのはずいぶん前の事です。家族が入院し、ちょっとあたふたしている時があったのですが、そんな時にひっきりなしに通知が100以上も届いたことがありました。

退会するという事にある種の象徴性があり、お前らが気に入らないから俺は抜けるぜ、みたいなメッセージを暗に感じたりします。なので、抜けるにも抜けられない。
いちおう、ご挨拶だけすることもありますが、積極的には参加しません。以前は結構書き込んでたこともあったので、勝手だと言われると何も言えないのですが。

この種の問題は子供たちの方が大変みたいですね。下手すると仲間外れになり、学校で辛い思いをするみたいな。



とにかく、世界そのものがとても剣呑になり、普通にテレビのニュースを聞くこと自体が負担に感じられる時代です。

私事ですが、仕事その他でも今は相当にストレスを感じる状況が続いています。

ので、いまはSNSを離れ、ネットとも上手く折り合いをつけて、とにかくメンタルを死守し、夜明けを待とうという姿勢でいます。

いやあ、なにも考えずに世界一周でもしたいものですな。
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震災遺構を訪ねる (4)

2025年04月26日 | 旅行記
南三陸町から海沿いに国道398号線を南下していきます。比較的線形は良く、地元のひとのペースは速めですが、こちらは不案内な旅人なので適当に邪魔にならないように走ってました。

すると、トンネル手前からすごい勢いで追い越していく銀色のプリウス・ワゴンがいました。ちょっとムッとしながら追走していくと、くだんのプリウスが、大型トラックに行く手を阻まれているのが見えました。

大きな橋手前の信号で追いつきました。橋を渡ったところにまた信号があって停車。運転手の姿は良く見えませんが、なんとなくこちらの雰囲気察して💦 
っぽい思いをしているようにも思えます。。

前の車は直進、こちらは目的地が左なので左折しました。

この信号の辺りがいわゆる「三角地帯」と地元で呼ばれていたことは後で知りました。

石巻市立大川小学校は北上川の河口ほど近く、石巻市釜谷という地区にありました。北上川の河口は追波湾と呼ばれていますが、そこからは約3.7km離れているとのことです。小学校の辺りの土地は平らで海抜1-1.5mぐらいです。


2011年3月11日の東日本大震災では北上川および地表を遡上してきた津波が学校を襲い、地震後校庭に残っていた生徒78人中70人死亡、4人行方不明、教職員11名中10名が死亡、そのほかスクールバスの運転手、保護者、避難してきた近隣住民も犠牲になりました。

大川小学校の正確な地名は石巻市釜谷字山根1番地です。

釜という地名は東北地方に多いそうで、これは「噛マ」に通じ、津波により侵食された地域に多い地名だそうです。また山根は山の麓を示し、このことから古来津波がこの付近まで到達した地域であることを示唆する地名になっている、という見方もできるそうです(後述書より)。

この特徴的な校舎は震災以来ニュース等で繰り返し映し出され(残念ながら被災後の姿でですが)、印象に残っています。




円柱や扇形を組み合わせたつくりになっていて、体育館との間はガラス張りの渡り廊下でつながっていました。







1985年に建てられました。
設計者の北澤興一氏によると、宮城県沖地震(1978年)の経験や地盤の弱さから、地震対策は特に気を使い、土台の杭を十分に施したそうです。

しかしながら、津波に対する対策は十分ではなかったと述懐しています。

設計段階では裏山にあずやまを建て、遊歩道で結ぶ提案をしましたが、予算面から断念したとのこと。無理しても作るべきだった、と今も繰り返し後悔しているそうです(以上河北新報2016.10より)。


校舎のすぐ裏手に山があります。画面中央、踏み分け道奥に白い標識が見えますが、これは津波到達点を示しています。

震災当日、教務主任や、また生徒たちからも、裏山への避難を提案する声はありましたが、教頭以下教師陣の意見はまとまらず(校長は休暇で不在)、震災後50分余り校庭で待機した末、「三角地点」への退避を開始、その直後に波に飲まれました。

詳細な位置は不明ですが、生徒たちの遺体がもっとも多く見つかったのは「三角地帯」手前の斜面だったそうです。

津波は北上川を遡上すると同時に陸地を伝っても押し寄せており、これらの波がぶつかって渦を巻いていたのではないかという記述も見られます。

生徒たちの多くは折り重なるようにして遺体となって発見されました。

体育館の傍らに野外ステージがあり、その壁に子どもたちの書いた壁画が残っています。卒業制作みたいな感じでしょうか。









震災後、学校側との複数回にわたる保護者説明会、更には文科省からの提案を受けて石巻市が設立した事故検証委員会による検討も進められましたが、遺族らの納得のいく検証が得られなかったことから、2014年に児童の遺族29名が原告となり石巻市、宮城県に対する民事訴訟を起こしました(一審判決は石巻市と宮城県の過失責任を認定、同じく国賠責任を認めた高裁判決に対し宮城県、石巻市が上告するも2019年10月に退けられて判決確定)。

訴訟の経緯とその意義については今読んでいる「水底を掬う」(川上正二、吉岡和弘、斎藤雅弘、信山社2021)にまとめられており、このブログの上記記述でも本書を一部参照しています。ただし実はまだ読了していないので、裁判経緯等については後日機会があれば触れることにします。

その要諦は、一審で争われた「現場責任」に対し、二審では市教委まで含めた学校運営に対する組織的な防災体制の不備が問われたのであり、千年に一度と言われる今回の地震そのもの(の予見可能性)ではない、という所にあるようです。


つまり、災害そのものへの直接対応そのものが問われているのではなく、更には(今回のような)想像を超えるような大災害への対応策を問うているのでもない、という点に意義があるようなのですが、ここでは詳述を避けます。


前回に続き、この10数年の間に記憶に残ったNHKのドキュメンタリーですが、本件でも生徒と共に犠牲となった若い先生のご両親を取り上げた番組を思い出します。


一人息子さんで、念願の教師になって張り切っていたのだそうです。
ご両親からすれば大切な息子さんを喪ったことになりますが、同時に多くの教え子を救えなかったという事もあり、苦悩する姿を描いていました。

自宅の畑で作ったハボタンを、息子さんのために(お墓に持って行ったのかな)選んでいたシーンが印象に残っています。

今回の総走行距離は1,064Km, 往路(女川経由石巻のホテルまで)は449Kmで燃費(満タン法)18.134Km/L、復路(石巻から陸前高田~自宅)615Km、燃費17.744Km/L、全行程の総合燃費17.906Km/Lでした。復路は流れの速い高速で少し燃費を落としたかもしれません。

これで今回の、震災遺構を訪ねる旅行記はおしまいです。
お読みいただいた方々、ありがとうございました。

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