60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

漫画なら逆さまにしても分かる

2006-11-17 22:51:48 | 脳の議論

 人物画などを模写するとき、原画を逆さまにすればより正確に描くことが出来るといわれています。
 ベティ.エドワーズ「脳の右側で描け」から始まった考え方で、正立像を見ると左脳の考え方に支配されがちになるので、逆さまにすれば何が描かれているか分からないので、ありのままに模写ができるということのようです。
 左脳が得意なのは言葉や理屈で、絵画など芸術は右脳が得意とする分野である、というような説が一般化されたため、無条件でこの説を受け入れてしまいがちなのですが、実際はどうなのでしょうか。

 上の図は故ケネディ大統領の写真、写真の陰影を単純化したもの、小泉元首相の似顔絵漫画を逆さまにしたもので、下が原画です。
 こうしてみると一番分かりにくいのは真ん中の場合で、漫画の場合は倒立していてもそれほど分かりにくくはありません。
 一番左の写真の場合は、分かりにくいといっても、原画のイメージとだいぶ違うのですが、真ん中ほど極端ではありません。
 逆さまにすれば何が描かれているかわからなくなるというのは、どんな絵でもそうだというのではなく、絵によって違うのだということが分かります。

 もし逆さまにしたら左脳が理解できなくなるというのであれば、右のような似顔絵漫画は絵ではないということになるのでしょうか。
 それとも、漫画は左脳に理解しやすい左脳向けの絵画形式だということなのでしょうか。
 左脳についてのイメージと漫画とはなんとなく合わないような気がするので、そうだとは言いにくいですから、漫画は単純化されているから左脳でもわかるのだというしかないかもしれません。
 ところが真ん中の場合は陰影の諧調を無視して単純化したものなのに倒立させた図は非常に分かりにくくなっています。

 漫画と他の図との違いは、漫画が線画で平面的なのに対し、横の二つは陰影による立体感で表現された画です。 
 左脳とか右脳とかいう問題ではなく、立体感の問題で、三次元的に見える像は逆さまにするとまったく違って見えるということなのです。
 立体感のある像を紙のような平面の上に描くというのは、自然には出来ないので、三次元的に表現しようと意識することを放棄することによって正確に輪郭を模写使用ということを提唱したのでしょう。
 漫画や、模様など平面的な画であれば、逆さまにしなくても見え方に忠実に紙という平面に模写できるのです。


左脳で見ると輪郭がおかしくなる?

2006-11-16 22:17:39 | 脳の議論

 図Aを見てもたいていの人はなんだか分からないでしょう。
 それではBではどうでしょうか。
 BはAを逆さまにして、白い部分を赤、黒い部分を青にしています。
 この段階ではまだ何か分からないかもしれません。
 それではCはどうでしょうか。
 これはBの青い部分を黒く、赤い部分を白くしたもので、つまりAを逆さまにしたものですが、こうなると、どうやら人の顔らしいと感じるのではないでしょうか。
 それでもまだ分かりにくければ、目を細めてボンヤリ見れば分かります。

 これはアインシュタインの顔だというのですが、そういわれればそうだと思い、いちどそう思ってみるとただの模様には見えなくなります。
 ただ、Cの場合でも右脳に損傷のある人はなんだか分からないそうです。
 それではCならば人の顔だということが分かりやすく、BやAになると人の顔に見えにくいのでしょうか。
 Aは逆さまになっているのでわかりにくいという風に説明できるかもしれませんが、Bは色が変わっているだけです。

 BがCに比べ顔のように見えにくいのはCに比べ立体感がないためです。
 Cは白と黒で明暗差がハッキリしているので立体感が出てくるのですが、Bは青と赤で明暗差があまりないので立体感がほとんど感じられないのです。
 Cは光が当たったところと影になるところというふうに見えるので顔に見えるのですが、Bは顔だと思ってみても立体感がほとんど感じられないのでリアリティーが欠けています。
 そこでAを見るとこちらも、何か分からないので立体感がありません。

 ベティ.エドワーズ「脳の右で描け」では立体的な絵を描くときうまく描けないのは左脳で見るからだとしています。
 左脳はものをありのままに見ないで、こうあるべきだという先入イメージで描くからうまくいかないのだとしています。
 そこで人物画など立体感のある絵を模写するとき、絵を逆さまに見て輪郭を模写すれば、絵が分かりにくく見えるので、左脳に邪魔されずにありのままに描けるのでうまくいくといいます。
 逆さまにして見ると左脳が働かず、右脳で見るのでありのままに描けるといいます。

 しかし、左脳が働くと見たままでなく、先入観で見てしまうので輪郭がおかしくなるというのは変な説明です。
 そうならば私たちは絵を描くときでなくとも常にものをありのままに見ていないということになります。
 しかも先入イメージはどうやって出来たか説明できなくなる上に、絵を描いた場合でも出来上がりがおかしいと見る眼は左脳が働いているはずです。

 たとえば上のA,B,Cの3枚の絵を模写するとして、うまく描けないのはどれかといえばそれはCです。
 これは立体感の感じられる絵を平面に描こうとするのは難しいことなのだということで、右脳で見るとか左脳で見ると言う問題ではないのです。


左脳と形式論理

2006-11-15 22:39:13 | 脳の議論

 ①は「表がDのとき裏は3でなければならない」が守られているかどうかを確かめるためには最小限どれをめくって確かめるべきかという問題で、正解は一番と4番なのですが、1番と2番と答えてしまう人が多いといわれます。
 この問題の正解率が低いのは、人間が論理的に考えないからではなく、抽象的な問題だからだとされています。
 というのは同じような形式の問題で、②のように「20才以上でなければ飲酒は不可」という規則が守られているかどうかを確かめるには最小限どれをめくればよいかというのなら、1番と4番というふうに、ほとんどの人が正解するといいます。
 つまり抽象的でなく具体的な問題であれば、たいていの人が論理的に考えて正解に達するというのです。

 ①の場合、表がDなら裏が3でなければならないということは、表がDなのに裏が3でないかもしれないものを探すので1番と4番が正解です。
 ②の場合も飲酒をするなら20歳以上でなければならないということは、飲酒をしているのに20歳以下の可能性のあるものを探すので1番と4番が正解です。
 これらはいずれも規則に対して例外があってはならないということで、例外となる意可能性のあるものを探す問題です。
 ①の場合の正答率の低いのは問題が抽象的だからというより表現の問題で、「表がDなのに裏が3でないものがあるとすればどれとどれか」という表現なら正解するはずです。

 ところが③のような場合も同じように考えるのが正解かといえば、それは少しおかしいなと感じるのではないでしょうか。
 いわゆる論理的に考えるなら、「30本以上喫煙すると肺がんになる」ということは30本以上喫煙しているのに肺がんになっていない場合があるかどうかを確かめるので、1番と4番をめくるのが正解となります。
 しかし4番をめくって肺がんでないことが分かっても、「30本以上喫煙すると肺がんになる」という説を確かめるのに役立つとは思えません。
 健康な人で30本以上の喫煙者はごく少ないでしょうから、めくってみても30本以上ではないという結果になるでしょう。
 この説を確かめようとするなら2番を見て場合によっては3番をも見るほうが有益です。
 もし20本でも肺がんであれば、この説を「20本以上の喫煙は肺がんになる」と変更しなければならないかもしれないからです。

 ①と②は規則の問題で、形式論理が支配すると考えられています。
 ②は①と違って具体的な問題ではあるのですが、法というのは社会統制の手段なので法に基づいた形式論理に従わせようとするものです。
 ③はどの程度確からしいかが分かればよいので、例外があってはならないというものではありません。
 ①と②は左脳の形式論理の世界で、③は右脳の現実問題の世界ですから考え方を変える必要があるのです。


左脳の論理が正しいとは限らない

2006-11-14 22:21:32 | 脳の議論

 ①は有名な4枚カード問題で、「表がDなら裏が3である」ことが正しいかどうかを判定するには最小限どのカードをめくればよいかというものです。
 表がDのものをまずめくるのは当然として、多くの人は裏が3のものをめくると答えてしまうそうです。
 表がBのものはめくる意味がないので、裏が3のものをめくるか7のものをめくるかということなのですが、正解は7となっています。
 これは表がDなのに裏が3でないものがあってはならないので、7をめくって表がDでないことを確かめなければならないということです。
 裏が3のものは表がDでなくても良いので、めくる必要がないというのが、論理的な考え方だとされています。

 このような問題で多くの人が間違えるのは、問題が抽象的で具体性がないので、日常的な感覚では分かりにくいからだとされています。
 それでは②のような問題ならばどうでしょうか。
 これは「宗教Aを信じれば金持ちになる」ということを確かめるにはどれをめくればよいかという問題です。
 ①と同じ形式なので、表が信者になっている1番と、裏が貧乏人になっている晩をめくるるのが正解だと論理的にはなるはずです。
 しかし常識で考えればこの左脳による答えはおかしいと思うのではないでしょうか。
 この場合は1番と2番をめくってみる右脳の感覚が妥当であり、意味のある選択です。
 
 「宗教Aを信じれば金持ちになる」といわれても、信者のすべてが金持ちになると言う主張だと思う人はいません。
 Aを信じて金持ちになった人の例が多ければ納得するのが常識的感覚です。
 信じたけれども貧乏だという例ばかりであれば別ですが、が少しぐらいあっても問題にしないのです。
 貧乏人のほうが金持ちよりはるかに多いのですから、たくさんいる貧乏人の中から信者が一人見つかっても全面否定とはしないのです。
 信者を見て実際金持ちなのかを確かめる、また金持ちの中に信者がいるのかを確かめるというのが普通の対応です。

 ①の問題は規則の問題で、例外がないということになっていますが、②の問題は事実の問題なのですが、事実の問題というのは例外がありますから、反例が見つかればすべて否定できるというものではありません。
 ①は例外がないことを確かめる問題で、②は実例が多いことを確かめる問題なのです。
 ②の場合は1番の信者が金持ちでなく、2番の金持ちが信者でなければまったく信用が出来ない話となります。
 もし4番の貧乏人が信者でも、1番の信者が金持ちで、2番の金持ちが信者なら説得力がある話になるのです。
 つまり日常生活では、左脳的な形式論理よりも右脳的な実例主義のほうが優勢なのです。


右脳の衰えとは限らない

2006-11-13 22:53:04 | 脳の議論

 Aは黒い部分をひとつひとつ何を表しているかというように考えてしまうとなんだか分からなくなります。
 全体として何に見えるかという問題で、なにげなく見てパッと分かればいいのですが、考えてしまうと分かりにくくなります。
 分かりにくいときは、はっきり見ようとせずにボンヤリと焦点をあわせないで見るか、目を細めて全体がぼやけて見えるようにすると、犬だということが分かります。
 どの部分がどうというふうに、はっきりとは説明できないけれども、全体的なイメージとして輪郭がつかめ、犬だと直観するのです。

 Bは線画が重なっていて、全体としての輪郭というものはありません。
 いくつかのものの輪郭がかさなりあっているので、重なりの部分に注意を奪われてしまうと一つ一つのものの輪郭が分からなくなります。
 重なってはいても、いくつかの図形をそれぞれ別のものとして同時に見ることが要求されます。
 自動車、栓抜き、かなづち、ハンドバッグ、ティーカップセットなどと見ていって、いちばん大きなビンに気がつかなかったりします。

 普通の人はこれらの課題はそれほど難しくはないのですが、右脳に損傷を受けた人の場合はかなり難しいと言われています。
 ところが子供の場合もこのような、課題は楽ではないといいます。
 脳はまず右脳から発達するので、子供であっても右脳は発達していて、このような課題は難しくはないはずです。
 高齢者の場合もこうした課題が不得意になってきていて、脳の衰えのせいだとされるのですが、先に発達し右脳が後から衰えるはずなので右脳が衰えたからではないはずです。
 
 高齢者の場合は視力の衰えとか、老眼の進行などで細かい部分をよく見ようとして注意の範囲が狭まってしまうということがあります。
 そうすると細かい部分しか分からないということで、右脳が損傷した場合と似たような結果となるので、右脳が衰えたとされてしまう可能性があります。
 子供の場合は視覚経験の不足の可能性があり、必ずしも右脳の発達不足とはいえない可能性もあります。
 右脳損傷の患者と同じことが不得意だからといって、右脳が未発達とか右脳が衰えたとするのは早とちりの可能性があるのです。


右脳、左脳とジョーク

2006-11-12 22:32:54 | 脳の議論

 上の文はジョークなのですが、そのオチの部分は次のうちのどれかという問題です。
 ① 主人は言った。「そんなことはどうでもいい。こんど酒がなくなったらお前はクビだ。」
 ②そのとき家政婦はネズミを見つけビックリして主人のひざに飛び乗った。
 ③すると主人は答えた。「両親はどうでもいいが、お前のスコットランドの家系(Scotch extraction)が問題なんだ。」

 この問題に対し、右脳に障害があって左脳しか機能しない患者は①を選ぶことが多いそうです。
 ①は話の筋としては、主人が怒るのは当たり前なので論理的なのですが、ジョークとしての面白みなどはありません。
 左脳でのみ考える人は筋が通ることのみに注意がいって、ジョークなど理解できないということのようです。
 
 これに対し左脳に障害があって右脳しか機能しない患者は②を選ぶのだそうです。
 話の筋が通らなくてもおかしさがあればよいということで、②を選ぶというのですが、このおかしさは単純なおかしさで、脈絡のないおかしさです。
 家政婦が見たのがネズミでなくても犬でも猫でも何でもいいので、それ自体おかしければよいのです。

 左脳も右脳も働く普通の人が③を選ぶのは、Scotch extractionというのが「スコットランドの家系」と「スコッチウィスキーの抜き取り」の両方の意味を持つからです。
 これは、Scotchというのがスコットランド人をバカにした言い方なので、スコットランド人が聞いた場合は不愉快なジョークなのでしょうが、関係のない人にはそのイヤミと同時におかしさが伝わります。
 一つの表現で同時に二つの意味を表し、また話としての筋道が通っているので、右脳と左脳をともに使うことが出来れば、このジョークの意味が分かり、おかしさも分かるということなのです。

 年をとってくると右脳が衰えてくるといわれ、またダジャレばかり好むというようなことが言われますが、ダジャレというのは単純な語呂合わせなので、左脳の衰えまでも感じさせます。
 語呂合わせは一つの言葉で同時に二つの意味を表わすのですが、もう一つの意味は話の筋と関係なかったりすることがあります。
 気がつかないうちに面白くもないダジャレを連発しているということがないか、自分で注意する必要があるのです。
 
 


右脳のイメージ記憶

2006-11-11 22:53:46 | 脳の議論

 旧ソ連の記憶術者シェレシェフスキーは超人的な記憶力を持っていたといいます。
 たとえば表Aを三分ほど見て、この表を思い出すように言われるとよどみなく全部の数字を言うことが出来たそうです。
 それだけでなく、どの行を指定されても正確に答え、反対の順序でも全部の数字を思い出して答えられたそうです。
 また数ヶ月たってもこの表を思い出すように言われると、正確に思い出すことが出来たということです。
 ところが彼はBのような表を覚えるように言われると、Aのときと同じように覚え、数字が規則的に並んでいるということに気がつかなかったそうです。

 彼は表を覚えるときに数字として記憶するのでなく、表を視覚的に記憶していたので、思い出すときも表として脳に浮かんでくるので、その表を見ながら答えていたのだそうです。
 そのためBのように数字が規則的に並んでいようが、不規則に並んでいようが同じことだったのです。
 いわゆる写真記憶というもので、直観像として記憶していたわけです。
 写真記憶というのは、特定の部分に注意を向けたり、無視をしたりせず、視覚的にあるがままに記憶するものです。

 ところがこのような記憶は、非常に無駄なもので、無目的なため、必要な部分と不要な部分の区別がないのです。
 もしなにか原理とか筋道とか意味を求めようとすると、純粋に視覚的な像を記憶するのが妨げられてしまうのです。
 つまり左脳が働くとあるがままには記憶しにくいのです。
 視覚的に記憶しようとするとき音楽を耳にする分には良いのですが、母国語のように意味が分かるものが耳に入ると混乱をしてうまくいかなかったりしたのです。
 よく右脳による視覚的記憶は写真記憶だとか、記憶できる情報量が膨大であるなどと言われますが、その記憶の内容は整理されていないものなのです。

 シェレシェフスキーはあまりに強力な記憶力を持っていたために、かえって忘れるのに苦労をしたということですから、記憶力が超人的であればよいとは限りません。
 普通の人間はシェレシェフスキーのような客観的な記憶が不得手で、自分に都合の悪いようなことは忘れたりしますが、生きていくうえではそのほうがよいのでしょう。
 左脳が働いて、意味づけをしたり関係付けたりするので、ものをありのままに見て記憶することが出来なくなっているのですが、かえってそのため人間は進歩したのかもしれないのです。
 


左脳のほうが能率的な場合

2006-11-10 22:24:50 | 脳の議論

 図は水がめ問題という心理学ではポピュラーな問題だそうです。
 A,B,C三種類の容量の水がめを使って目標(D)の量を測れというものです。
 たとえば①の問題は14リットル、163リットル、25リットルという三つの水がめで99リットルを測れというものです。
 学校教育に慣れていない人なら、「変な問題だな、163リットルの水がめなんてあるのかいな。どういう意味の問題なんだろうか」と思うかもしれませんが、要求どうりどおりにやってみたとします。
 この問題は①から⑦までありますが、必ず上から順番にやっていくということになっています。

 ①の場合14リットルを何倍かして25リットルに足してみたり、163リットルから14リットルの何倍かを引いて見たりいろいろ考え、そのうち163リットルから25リットルを二回取ると113リットルになるので、これから14リットルを取れば99リットルになると考えつきます。
 ②の場合もアレコレやってみて42から9を引いて31、31から6の二倍の12を引いて21と答えが出ます。
 ③の場合は127から21を引いて106、106から3の二倍の6を引いて100と答えが出ると、要するにBからAを引いてさらにCの二倍を引けば答えが出るのだなと気がつきます。
 そうすると④から以下もこの方法でやればよいということで、実際計算すればOKということが確かめられます。
 
 ところが⑥の問題は、この計算法でなともくAからCを引けばよいので、簡単に答えが出ますし、さらに⑦はAとCを足せばよいので、ずっと簡単な問題です。
 はじめから⑥や⑦の問題からやれば気がついたのかもしれませんが、上から順番にやってくると同じパターンでやることに慣れ、他のうまいやり方に気がつかないのです。
 というのがこの問題の出題意図なのです。
 特定のパターンでやり続けると、常識的で易しい問題が出来にくくなったり、易しい問題が出来にくかったりするということを示そうというのです。
 いわば左脳偏重で頭を使っていると、常識で気がつきそうなことが分からなかったり、見落としたりするというのです。

 ところでこの問題はやりやすくするために、Bから目標のDを引いた数字(E)を出しておいて考えると楽です。
 ①は64は25の二倍と14で64ですからBからこれを引けばよい。
 ②は6の2倍と9で21
 ③は27は21と3の2倍ですが、3の9倍でもあります。
 ④も28は20と4の2倍ですが、4の7倍でもありますから、Bから4の7倍を引いても良いのです。
 このようにあつかう数字の数を減らす(三種類のかめで測る→二種類のかめではかる)ようにすれば計算が楽になり、この場合は③と④のように一目で分かるものも出てきます。
 つまりすべてに一定の操作を施しておけば問題の見通しが良くなるのです。

 同じパターンで問題を解いていると、うまいやり方があっても気がつかないといわれればやはり左脳に頼っていてはダメだななどとフト思わされますが、現実問題としては統一的なやり方を見つけるほうが有効です。
 問題ごとにうまいやり方を探してもよいのですが、一定のやり方で楽に出来ようにするるほうがやはりよいのです。
 うまいやり方を探してばかりいると全体の解決が遅れることもあるからです。


左脳のほうが創造的な場合もある

2006-11-09 22:48:22 | 脳の議論

 Aはロシアの心理学者ルリヤが行った旧ソ連の文盲の人の三段論法のテストの例です。
 この問いに対し
 被験者「わからない」
 実験者「考えて見てください」
 被験者「私はカシュガルにしかいたことがないのでそれ以上のことは分からない」
 実験者「私がお話したことからそこに綿が育つことになるのでしょうか」
 被験者「もし土地がよければそこに綿が育つ。じめじめした悪い土地なら育たない。カシュガルのここみたいなところなら育つね。そこの土地がぼろぼろして軟らかくてももちろん育つ
 実験者「私の言葉からどういうことがでてきますか」
 被験者「われわれか異教徒のカシュガル人は無知な民族だ。われわれはそこに言ったこともないし、そこが暑いか寒いかも知らない。」

 というような問答で、論理学的には正解の「イギリスでは綿は育たない」というふうには村人たちは考えないのです。
 鈴木宏「類似と思考」では、論理学的にはカシュガル人の答えは間違っているとしても、事実問題としては「わからない」というのが正しいとしています。
 イギリスといっても植民地もあるし、綿もいろいろあるから厳密に言えばわからないというのが正しいとも言えるわけです。
 論理学は与えられた前提以外を考えてはならないという世界で、日常の経験的世界の考え方とは違います。
 この場合の「イギリス」とか「綿花」というのはなんでもよくて、代わりに「ジョージア」と「abc]であっても論理的な答えは同じです。
 人間が現実に即して考える場合は、そのような単なる理屈ではなく、実際にはどうなのかと考えるのでわからなかれば「分からない」とするのが正解だというのです。

 カシュガル人の答えは理屈に走らないで、経験常識から来る総合的判断で、右脳中心の考え方といえます。
 そうするとやはり左脳中心の理屈にだけの考え方より、右脳の考え方のほうが優れているのだなという印象を持つかもしれません。
 ところで、質問がAのような形でなくBのような形だったらどうでしょう。
 カシュガル人はやはり「わからない」と答えるでしょうが、それは正しくてもただそれだけのことです。
 サハラで綿を育てようと考えて実行するかどうかということになれば、サハラで綿は育つと確信した人が成功するでしょう。
 理屈で考えて確信するほうが、経験がないので分からないとするより実行に踏み切ることが出来るからです。
 コロンブスのように西に向かってもインドにたどり着くと、理屈で考えて実行することで新しい発見につながることもあります。
 左脳は理屈に走るので非現実的になるというようなことが言われていますが、非現実的なことを考えることが出来るから創造的になるということもあるのです。
 


女性のほうが前頭葉が活性化しているのか

2006-11-02 22:35:04 | 脳の議論

 前頭葉を活性化するといえば、音読とか簡単な計算がというのが定番となっていたようなのですが、最近はいろんな作業でも活性化するといわれています。
 音読や計算だけが前頭葉を活性化させるのかと思っていたらそうではないのですね。
 調べたら他のいろんな活動をするときも前頭葉が使われて、活性化されていることが分かったということでしょうか。
 上の表で見ると、料理とか編み物、掃除、おしゃべり、カラオケ、旅行など家庭の主婦の日常生活は前頭葉がフル活動していたといえるのかもしれません。
 茶道とか華道とか裁縫など昔のお稽古事も前頭葉を活性化するというのですから、昔の女性は花嫁修業の段階から前頭葉を鍛えていたのでしょう。
 昔風の子供の遊びもたくさん入っているので、それこそ昔の子供は勉強などしなくとも、遊んでばかりいれば十分前頭葉が鍛えられていたということになります。

 こうして見ると、昔の子供や女性は前頭葉をたくさん使っていたので、前頭葉が発達していたということになるので、音読や計算をする必要はなかったのでしょう。
 成人男性の活動については、うそをつくことぐらいで、そのほかの活動ではまだ前頭葉を使うかどうか調べられていないようですが、調査が進めば男性の活動でも前頭葉を使うものは大量に出てくることは予想されます。
 
 前頭葉が活性化するという活動が続々と発見されたのは、考えて見ると当たり前かもしれません。
 人間は前頭葉が発達しているというのは、生きていろんな活動をするときに使われるためでしょう。
 使われないのであれば、わざわざ大きな前頭葉をもつ必要はないからです。
 現在は前頭葉を活性化するためにトレーニングをするということが流行していますが、本来前頭葉は何かをするための手段だったのですから、本末転倒しているようです。

 音読や簡単な計算をしているとき、脳が広範囲に活性化しているから、音読や計算をすれば脳が総合的に鍛えられると期待されているようですが、そういうことはありうるでしょうか。
 前頭葉が脳腫瘍などで損傷を受けた場合でも、音読とか簡単な計算をすることは問題なくできたという例は昔から多かったようです。
 前頭葉が損傷して何らかの人格障害はおきても、読み書き計算などはできたということから、音読や計算をすれば脳が全般的に健全になるなどとはいえないのは明らかです。
 もちろん、音読や計算はそれ自体価値のあることですから、そのために前頭葉が使われるということがあるわけですが、前頭葉を鍛えるために音読や計算をするというのは不自然です。
 まさか音読や計算をすれば料理や裁縫が上手になったり、囲碁や将棋が上達すると思う人はいないと思いますが、そのまさかがあるのでしょうか。