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60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

漢字の意味の違い

2008-08-11 23:34:21 | 言葉と文字

 「一番」という単語は「いちばん」とも「ひとつがい」とも読めます。
 「いちばん」と音読みするときの番は順番のことですが、「つがい」と訓読みするときは「ペア」の意味です。
 訓読みのほうはもともとの漢字の意味ではなく、日本で与えた意味です。
 もしもともと「番」に「つがい」という意味があれば「いちばん」と読んで「ひとつがい」という意味となるはずです。
 漢字は文字自体が意味を持つというふうにいわれても、日本人が漢字を使う場合は、独自に意味づけをしているのですから、日本風の意味づけをしているのです。
 音読みと訓読みでは「足跡」のように音読みでも訓読みでも同じ意味を表わす場合もありますが、意味が違う場合は訓読みのほうの意味は古代の中国人には理解できなかったでしょう。

 中国語入門書では、中国語と日本語で文字が同じでも意味が違う単語の例が紹介されています。
 「答応」は日本語では「応答」ですが、中国語では「応答」という意味のほかに「承知する」という意味で使われるそうです。
 「大意」というのは中国語では不注意とか油断という意味で、油断は油が切れるという意味だということです。
 これは「大」が「おおざっぱ」という意味だとすれば「不注意」という意味になるのも頷けることで、油断も中国式の解釈が読んで字の如しで、日本風の意味づけのほうが理解しにくいことに気がつきます。
 「到底」というの単語は現代の日本では「到底不可能だ」というように「どうしても~だ」というふうに使われますが、明治時代には「結局」という意味で使われたそうですから、明治期までは中国式の使われ方をしていたのです。

 「合同」は日本では数学用語以外では「ひとつにする、いっしょにする」という意味ですが中国では「契約」という意味になっています。
 お互い意の意見を一致させるということかもしれませんが、日本人の感覚とはかなり違います。
 「東西」は日本語ではどうしても「東と西」ですが、現代中国語では「もの」という意味だといいます。

 漢字はもとは中国のもので、日本人にとっては外国語だったわけですから、読み方にしろ、意味の解釈にしろ間違ったり、くずれたりしているという考え方があります。
 ちょうど英語の単語が日本に入ってきて、発音が日本式で間違っているとか、意味を日本式に誤解しているとか、英語の専門家から指摘されるような現象が、漢字についてもあるわけです。
 漢字の読み方などは「呉音」「漢音」「唐音」など時代の違う発音を模写したものが共存するという珍現象が起きています。
 漢字を音読みするとき中国人ならだいたい一通りの読み方なのに、日本では化石化した読み方が残ったので、いく通りかの読み方があるのです。
 漢字本来の読み方といっても何を基準にしてよいか分りませんし、そうかといって現代中国式の読み方もできません。
 「正しい読み方」とは、日本に定着して通用している日本式の読み方とするしかないのです。
 日本に入り込んだ漢字は日本語の一部になってしまっていて、中国語とは別物になっているので、漢字そのものを追求しても実用とはかけ離れてしまうのです。


文字の瞬間記憶

2008-08-10 23:38:50 | 言葉と文字

 図の①を1~2秒見たあと、いくつの文字を思い出せるかという問題ですが、思い出せる数の平均は4~5文字程度だそうです。
 たいていの人は文字をすべてはっきり見ているはずですから、4,5個しか思い出せないというのは、答えを思い出そうとしている間に忘れてしまったのか、それとも見たけれどもアタマに入らなかったのか分りません。
 12個の文字をいっぺんに表示するのでなく、一つ一つを表示しては消していった場合も、文字ははっきり見えますがすべてを思い出せるわけではありません。
 したがって視覚的に見たからといって、すべてを思い出せるわけではないのです。

 ところで同じ12個の文字ですが、②のほうを見た場合はどうでしょうか。
 たいていの人は②のほうが思い出せる文字の数が多いと思います。
 これは日本人の場合、アルファベットの大文字に比べると、ヒラガナのほうがはるかに馴染んでいるためにアタマに入りやすく記憶しやすいということがまず原因として考えられます。
 これがカタカナであれば文字の形はヒラガナより単純ですが馴染みが薄いので覚えにくく、漢字であれば形が複雑になるうえに、目にする頻度が低くなりますから、やはり覚えにくくなります。
 アラビヤ語の文字とかビルマ語の文字とか、ほとんど馴染みのない文字であれば2,3個でも思い出せないかもしれません。
 脳に対応するイメージが記憶されているほうが、すばやくアタマに入って記憶できるからです。

、もうひとつの原因は、ヒラガナの場合は1音節だということで、いくつかの文字をまとめて、すばやく音に変えられるためです。
 たとえば①の一番上の行は「エフケイブイエイチ」ですが②のほうは「ねへそき」と半分以下になりますから、4文字程度でもひとまとまりの音に変えやすいので記憶しやすいのです。
 「ねへそき」とか「かえぽす」とか「のろにも」などというのは無意味な単語ですがとりあえず記憶することができ、二つ覚えれば8個となり、アルファベットを覚えるより大幅に成績が上がります。
 日本語の音は種類が少なく単純なため、同音異義語が多いといわれていますが、そのためかどうか、新しい言葉を受け入れやすく、その結果非単語とか無意味語に対する抵抗があまりありません。
 そのため多少ムリな語呂合わせなども受け入れることが出来るので、2の平方根を「ひとよひとよにひとみごろ」と意味不明の語呂で覚えることが出来たりします。
 数字を語呂で覚えるという方法は日本人の得意とするものなのです。

 


犬の漢字の意味

2008-08-09 22:29:54 | 言葉と文字

 図は犬に関係する漢字を集めたものです。
 狆とか狗、狛は犬の種類ですが、他の字は犬からヒントを得た意味を持つ漢字です。
 たとえば臭は自の下に犬と書いた字で、自は鼻の象形文字だそうで、犬が鼻で臭いをかぐ様子から作られた字だという事です。
 吠は口に犬で「ほえる」ということですが、哭は口が二つに犬で、「大声で泣く」という意味ですから犬はやかましく「ナク」と考えられていたのでしょう。
 ここまではよいのですが、然、献、厭という字になると「然」は燃やすという意味で「犬の脂肪を燃やす」、「献」は「犬の肉を食器に盛ってさし上げる」、「厭」は「犬のしつこい肉が口の中に一杯であきる」というように、犬は食用としてとらえられています。

 食用であれば、犬は人間にとってマイナスイメージではないと普通なら思いますが、他の字を見るとそうではありません。
 漢和辞典でけもの偏の部分が犬を表わしているものを拾い出してみると、古代の中国人は犬に対してよいイメージを持っていなかったようです。
 たとえば「狂」という字は「大げさにむやみに走り回る犬」という意味で作られた字だそうです。
 「狡」は「ずるい犬」で「猾」は「すばしこくて捕まえにくい犬」で「狡猾」という熟語は犬のイメージから作られています。
 「獪」も「ずるい」で「狡猾」というといかにも「わるがしこい」というイメージです。
 「犯」は「枠を超えて飛び出す犬」で従順でないイメージで、「猜疑心」の「猜」は「青黒い犬でなつかない、疑い深い犬」だそうです。
 「獰猛」の「獰」は「意地の悪い犬」「猛」は「抑えが利かずいきり立っている犬」ということで、犬は扱いにくく厄介な動物で手なづけると「なれなれしく」(狎、狃)なってしまうと考えられていたようです。

 このような文字のあり方は、ペットとして犬を飼っている現代の日本人からすれば馴染みにくいのではないでしょうか。
 嫌われ軽蔑された上に食べられてしまうのですから、犬にとって古代中国は受難の地であったわけです。
 漢字を覚えるときその字の成り立ちから覚えるべきだといわれても、こうした例を見ればわざわざ覚える価値があるかどうか疑わしくなります。
 日本人が古代の中国人のものの見方に合わせる必要はないだけでなく、こどもが「犬とはこういうものだ」と文字の知識から思い込んでしまったりすれば有害でもあります。
 
 そのほか「突」という字は「穴から犬が急に飛び出してくる様子」というような説明がありますが、なぜ犬が穴から飛び出すのかさっぱり分りません。
 「穴から急に飛び出す」のがネズミやウサギなら分りますが、犬が穴から飛び出すのは変です。
 「黙」も黒いい犬で、犬が吠えずに黙るという意味だといわれても、なぜ急に犬を持ち出すのか理にかなっていないので分りません。
 こうしたわけの分らぬ字源解釈はことば遊びとして面白がるなら良いのですが、まじめな顔をして子供に教えたりするのは感心しません。


単語の漢字化と意味の広がり

2008-08-05 22:14:06 | 言葉と文字

 漢字は一つ一つに意味があるので、漢字を使って作られた熟語は新しい単語でも意味が分かるといいます。
 したがって外来語などは、単にカタカナを使って発音を写しただけでは意味が分からないけれども、漢字で翻訳し単語に置き換えれば意味が分かりやすいといいます。
 たとえば「アイデンティティー」という言葉を「自己同一性」と置き換えれば、初めてこの単語を見ても意味が分かるし、「シミュレーション」は「模擬体験」という置き換えから意味が分かるという具合です。
 もちろんこれらの置き換えというのは、漢字を使っての翻訳作業なので、意味が分からなくては翻訳の甲斐がないのですが、翻訳というのは冗長になりがちなのを、漢字を使えば簡潔にできて、単語の形に仕上げることが出来るというのがミソです。

 外来語に対応する単語があればかんたんですが、ない場合は説明的な翻訳をしなければならないので、日本語で翻訳しようとすると長くなってしまいます。
 たとえばairplaneは漢字ならば飛行機ですが、日本語で訳そうとすれば「空を飛ぶ乗り物」とかいうふうに長くなってしまって、単語の形にすることが困難です。
 外国語を単語の形で翻訳するには漢字が便利なのです。

 ところで、漢字は一つ一つが意味を持っていて、新しく作られた単語でも字面から意味が判断できるということは、意味にふくらみが少ないということです。
 たとえばアイデンティティーという言葉は「自己同一性」というような意味もありますが、「身元」とか「個性」あるいは「独自性」といった意味もあります。
 アイデンティティカードといえば身分証明書のことですが、アイデンティティを「自己同一性」と思っていると混乱してしまいます。
 英語ではアイデンティティーは広く、高い頻度で使われる言葉なので、狭い意味に限定されず、ふくらみを持っているのです。
 漢字での「自己同一性」という単語はムリに作った単語ですから、意味にふくらみがなく、アイデンティティーの意味のふくらみにはついていけないのです。

 「シミュレーション」という言葉でも「模擬体験」という言葉に翻訳してしまうと、もとの「真似をする」という意味よりも限定された意味になっています。
 動物の擬態のこともシミュレーションといいますが、模擬体験と置き換えたのでは何のことか分りません。
 シミュレーターは模擬実験装置という意味もありますが、もとは「真似をする人」という意味です。
 「コンピューター」のように意味が限定されているようなものでも、(電子)計算機と置きかえてしまうと、コンピューターゲームは訳しにくく「コンピューターグラフィクス」も「計算機描画」とするわけにはいきません。
 コンピューターが発達して変化してきたために、漢字での翻訳が実態と離れてきてしまったためです。

 「ベンチレーター」のようなものも元は「空気を入れ替えるもの」といった意味ですが「送風機」と訳してしまうと「換気用の窓」とか「人工呼吸装置」というような派生的な意味をカバーできません。
 このように外来語でも限定された意味でなく、元の外来語のように多義的に使われるようになれば、ムリに漢字にしないでカタカナ語のままにしておいたほうが都合の善いものもあるのです。
 字面を見て意味が分かるから都合がよいというのは、その単語があまり使われない場合のことで、頻繁に広く使われるようになれば字面は意識されなくなるので漢字化にこだわる必要はないのです。


文字の逆読み

2008-08-04 22:37:42 | 言葉と文字

 ある高校の野球部では左バッターの目の訓練用に、右から左に読んでいく文書を作って読ませたそうです。
 普通の横書き文というのは左から右に書かれていますから、文章を読むときの目の使い方は右バッターに有利だと考え、左バッターには逆に右から左に読む文章を読ませれば効果があると考えたようです。
 実際に左バッターに右から左に読む文章を読ませる訓練をしたところ、左バッターの打率は上がったそうです。 
 文字を読む時の目の使い方と、飛んでくるボールを目でとらえるときの目の使い方にどの程度共通点があるかわかりませんが、打率があがったということは逆向きに文字を読むことが、何らかの点で目の使い方の変化が効果をもたらしたのでしょう。

 ところでアメリカの速読の訓練テクニックの一つとして、文字を逆に並べ文章を右から左に読む、逆読み訓練というのがあります。
 これは個々の文字を左右反転させるのではなく、一行ごとの文字の並びを反転させて読ませるものです。
 単語単位で文字を逆に配列するというのではなく、一行全体にわたって文字を逆配列にして、右から左に読ませるものです。
 単語の中で文字の配列をランダムに入れ替えるのと違って、左右が反転するだけですから文字の並びは規則正しいわけで、比較的に楽に読めるのではないかと思いますが、実際は結構手間どるものです。

 文字を逆に並べて逆方向から読むことがなぜ速読の訓練になるかというと、文字を左から右に一つづつ見て読むという習慣を断ち切るためです。
 普通は文字列をあると、思わず左から右へと文字を見ていって、単語を把握して意味を把握しようとします。
 文字が左から右に並んでいれば、長年の学習によって自動的に音読できてしまうので、これを妨げるために文字の配列を逆にして読ませるのです。
 文字を見たとたんに自動的に音声化するのではなく、単語を文字の集まりとして目でとらえる練習の一つの方法なのです。

 図は日本語の場合と英語の場合を挙げていますが、日本語の場合は右から左に書かれたものを読む経験があるので多少の戸惑いがあっても、比較的に楽に読めるはずです。
 英語のほうは単語を分かち書きしているのに、かなり読みずらいのは右から左に文字を並べたものを見る経験がないからです。
 またp、q、b、dなどお互いに左右反転したものがあったりするのも目を迷わせる原因になっています。
 こうして見ると英語の綴りというものも単に文字を並べたに過ぎないというものではなく、凝集性の高いまとまりのある形のものだということに気がつきます。
 したがって英語の単語でも音声に変換しなくても、形を見てその単語が何かを見て取れるものだということが分ります。

 


聞き違いと読み違い

2008-08-03 22:49:50 | 言葉と文字

 「雰囲気」を「ふいんき」と読むと思っている人がかなりいるというこが話題になりましたが、これは耳から言葉を覚えていたせいだと思われます。
 文字から覚えたのであれば「雰」が「ふい..」という読みになるとは思わないでしょうから、耳で「ふいんき」と聞いて覚え、そのあとで「雰囲気」という文字を覚えたのでしょう。
 文字から覚えた人でも「ふんいき」といったつもりなのに「ふいんき」と言ってしまうことがありますから、「ふいんき」と聴き覚える人がでてきても不思議ありません。
 テレビなどから言葉を覚える人が増えてくれば、漢字で表記したときの読み方と発音がずれる例が出てきます。

 「一所懸命」などの例では、耳から「いっしょけんめい」と聞いても「いっしょうけんめい」と思い込み「一生懸命」という字をイメージしてしまう可能性があります。
 この場合は「一生懸命」と思い込んでいるので、「一所懸命」という表記を見て「いっしょうけんめい」とは読まず「いっしょけんめい」と読む可能性はあります。
 「山茶花」の例では「さんざか」が正しいのに「さざんか」といい間違えたために「さざんか」が通用してしまい、公認されてしまっています。
 漢字自体では「さざんか」という読みは正立しないのですが、多くの人が「さざんか」というので、それでも良いということになったのです。

 漢字の読みは音読みの場合は、もとは中国から単語が導入されたときの中国の発音を日本式発音に置き換えたもので、これがホントの読み方だといってもどこまでそれに忠実であるべきか疑問なところもあります。
 たとえば「十手」は「じゅうて」とか「じゅって」と読むのは間違いで「じって」でなければならないということになっています。
 「十」という字は「じぷ」あるいは「じふ」と日本では発音したので「じぷて」あるいは「じふて」が「じって」となったというのです。
 同じように「入」という字は「にふ」あるいは「にぷ」と発音したので、唐に渡ること「入唐」を「にっとう」と読むことになっていて「にゅうとう」と読むのは間違いということになっています。
 しかし「入党」というような新しいことばになると「にっとう」とは読まず「にゅうとう」と読むことになっています。

 「入党」というような言葉は近代に成立したものなので、「入」は本来「にふ」とか「にぷ」と読むなどという理屈は棄てられているのです。
 「合体」のようにまだ「合」を「がふ」と読む意識が残っている時代に出来た言葉は「がったい」も「ごうたい」も正しいという風になっています。
 「甲子」は「かっし」でも「こうし」でもよく、「甲冑」は「かっちゅう」ですが「甲虫」は「こうちゅう」です。
 「日本」は漢字本来の読みカからすれば「じっぽん」あるいは「にっぽん」ですが、漢字の読み方としては無い「にほん」が通用しています。
 漢字は読みの規則自体が変化してきているので、間違い読みとされるものでも慣用化した場合それを止めることができないのです。


単語の瞬間的読み取り

2008-08-02 22:27:10 | 言葉と文字

 アルファベットは表音文字なので、英語のつづりは先頭から読んでいかないと単語を認識できないけれども漢字は表意文字なのでパッと見て分ると思われています。
 しかしそう思っているのは日本人の側だけで、アメリカ人などもそう思っているわけではありません。
 アメリカの速読法などを見ると、単語の綴りを先頭から読んでいく癖をなくすことがまず求められています。
 もちろん音読はダメで、まず第一歩は単語をパッと見て意味が分かるように、さらにいくつかの語を順に読むのではなく、一目で意味が分るように用に訓練をします。
 表音文字だから先頭から順位に読まないと分らないなどとは考えていないのです。
 
 文字の習い始めは綴りを順に見て読み方を同時に覚えるということで精一杯ですから、単語全体をパッと見て意味が分るというわけにはいきません。
 しかし文字を覚えてから何年も読み書きをしていれば、そのように意識して訓練すれば可能になるということのようです。
 訓練の方法は単に単語の綴りを瞬間的に見て認識するというものだけでなく、綴りを並べ替えて単語を読ませるというものもあります。
 たとえば図のように、whiteの綴りを並べ替えてewhitとしたり、flowerを並べ替えてfelworとしたものを、white,flowerと読ませるといった具合です。
 綴りを並べ替えたものは先頭から読んでいったのでは意味不明でまともには読めませんから、綴り全体を見て含まれている文字の集まりからもとの単語を記憶に呼び出させるもので、音読を阻止する効果があるのでしょう。
 単語の綴りを並べ替えるだけでなく、図の上の場合のように、文字を二次元的にばらばらに配置して単語を読ませるという場合もあります。

 日常的に英語の単語を読んでいれば、先頭から順に音に代えていかなくても、見ただけでそれがどんな意味かあるていど分かるようになるのでしょうが、それを意識的に訓練すれば音読をしなくても澄むようになると考えられているのです。
 速読法そのものはアメリカから始まったものですから、英語の単語は先頭から読んでいかなければ分らないとか、一度にいくつかの単語を読み取れないとかいうふうには考えられていないのです。
 日本語の漢字かな交じり文は漢字があるから拾い読みが出来るというふうにいわれていますが、拾い読みも英語ではできないということはなく、やはり拾い読みもスキミングというテクニックとしてあるようです。
 漢字かな交じり文だから速く読めるというふうに考えるのは、日本人が漢字かな交じり文に慣れているということで、アメリカ人はアメリカ人で英語を速く読めるということなのです。

 図の下にある漢字は難しい漢字ではありませんが、パッと見ただけではなんという文字かわからないでしょう。
 左の場合は「院」の偏と旁を左右入れ替えたもので、右は「盗」の上下を入れ替えたものです。。
 漢字の中には「群」「羣」「崎」「嵜」のように配置をかえても通用するものもありますが、「部」「陪」のようにちがった文字になってしまうものもあります。
 漢字の大部分は形声文字で音を表す部分と意味を表わす部分から成り立っているといいますから、配置を変えても容易に意味が分りそうなものですが、必ずしもそうでないのです。
 日本人にとっての漢字は思い込むほどには表意的でもないのです。


漢字書き分けと単語家族

2008-07-29 23:47:01 | 言葉と文字

 漢字の80%以上は形声文字といって、音を表わす部分と意味を表わす部分の組み合わせで出来ているといいます。
 たとえば「清」という字は水を表わすサンズイと音を表わす青(セイ)という部分から成り立っていて、「セイ」と発音する言葉のなかで水に関係するものを表わすという具合です。
 ところが青という字は単に「セン」という音を表わしているだけではなく、「青く澄み切った」というような意味を持っていて、青という音符のついた漢字には「すっきりとした」という意味が共有されているといいます。
 たとえば「清」は水が澄んでいる状態を表わし、「晴」は空が青く澄んでいる状態を示すといった具合です。
 「錆」は日本語では金属が錆びている状態ですが、漢字の意味は金属が青く澄んだ色をしている状態です。
 「倩」は日本語では「つらつら」という読み方をしますが、漢字の意味は人偏に青で、スッキリした男という意味だそうです。
 
 このように音を表わす部分に共通の意味がある文字を単語家族と呼ぶこともあるようですが、発音が同じで意味に共有部分があるということは、基は同じ単語で意味がいくつかあるということではないかとも考えられます。
 言葉は漢字よりも字ができる前からあるもののほうが多いのですから、澄んだ空と、澄んだ水を両方とも「セイ」といっていたのならこれは同じ単語だったと考えるのが普通です。
 漢字が出来て「清」と「晴」のように書き分けたので、いかにも違う言葉のようですが、漢字がなければ同じ言葉と思われていたはずです。

 同じように「戔」という字は小さいとか少ないと言う意味ですが、これを音符にした文字は「セン」あるいは「サン」と発音するだけでなく、小さいとか少ないという意味を持っているといいます。
 「銭」は小額の金、「浅」は水が少ないので浅く、「賎」は財産が少ない、「盞」は小さな盃といった具合です。
 すべての言葉が文字が作られる前にあったかどうかはわかりませんが、中国人でもムカシはほとんどが文盲ですから、漢字にして見なければ意味がわからないなどということはありません。
 漢字にしなくても音声を聞けば意味が分かったはずで、同じ発音なのですから違う言葉だと意識されることはなかったでしょう。

 単語家族というのはいわゆる音義説とは違います。
 音義説は音がそのまま意味を示しているというもので、音が同じなら意味が同じというのですが、単語家族というのは意味が同じである印を文字の共通性にも求めています。
 発音が似ていても別の意味なら音符が別になると考えるのです。
 ただ単語家族という考え方は、文字中心の考え方なので、文字の書き分けでそれぞれが別の言葉だとしているようです。
 
 日本語の場合もあとから書き分けというようなことをするようになったので、書き分けをすると別々の単語のように見えます。
 たとえば「とる」という言葉はもとは「手に取る」という意味で、そこから意味が拡張されて「取ってこちらに移動する、選ぶ、引き受ける、、、」といろんな意味で使われています。
 これを「取る、採る、撮る、摂る、、」などと書き分けると、漢字の意味を知らなければ意味が分からなくなります。
 漢字に書かなければ意味が分かるのに漢字にするとかえって分からなくなるということもあるというのは、カナなら音が分ったのに漢字にしたために音が隠されてしまうからです。
 


漢字の字源と日本語

2008-07-27 22:28:50 | 言葉と文字

 「明」という字は「日」と「月」からできているので、素人考えならば「日」つまり太陽と「月」をあわせて明るいと言う意味を表わしているなどと説明したりします。
 ところが明るいという意味を表わすというなら、太陽の明るさだけで十分なはずで、月まで出てくる必要はありません。
 実際に太陽の明るさの意味を持った漢字では「昭」「晃」などといった字があり、いずれも「あきらか」という意味で、日の光が照らすとか広がって明るくなることを示す字です。

 「明」のばあいは「日」と「月」が組み合わされているように見えますが、実は「明」のムカシの字体では図の上のような形になっていて、左の部分は「日」ではなく「まど」を表わしているといいます。
 したがって窓から月光が差し込み物が見えることを示しているといいます。
 つまり太陽の光で明るいという意味ではなく、暗くて見えない状態をつきの光で明るくして見えるようにするという意味だというのです。
 つまり字形が変化してしまっているため、本来の意味が分かりにくくなっているということになるのですが、そうすると漢字というのは意味を犠牲にして形が変化してしまうものだということになります。 
 あるいは形から意味を推測しようとすると間違いとなる場合があるということを示しています。

 解字というのは漢字がどのようにして作られたかを説明することで、その文字の意味をも説明しようとするものですが、それではその字が作られたときの当初の意味しか説明できません。
 言葉の意味は時代によって変化しますし、日本のように違った言語の中に取り入れられても変化します。
 たとえば「夜明け」というのは月の光で明けるのではなく、日の光で明けるのですから本来なら「明」という字は不適当です。
 また「明るい性格」などという場合のイメージは月明かり(月光)ではありません。日本語では「目明し」「打ち明け話」「年季明け」「らちが明かない」などといった使い方もあり、これらは「月の光で明るくなる」といったイメージで意味を解釈しようとしてもどうにもなりません。

 言葉の意味は変化したり、拡張したりするのですが、中国語として「明」という語の展開と、日本語の「明らか」とか「明ける」という語の意味の展開とは同じではありません。
 したがって漢字の「明」という字の字解をしても、日本語での「明」という字の使われ方の説明として有効とは限りません。
 字源解釈は学者によって異なったりするので、本当はどうだったかは一般の人間には分りません。
 それだけでなく、学問的に正しい解釈があったとしても、それが現代の使い方に適合しないばあいがあるだけでなく、ときとしてカえっ手意味の理解を妨げることすらあります。
 日本語に漢字を当てる場合はいわゆる書き分けにこだわると、迷ってしまう場合がありますから、ムリをせずヒラガナを使うか、あまりこだわらずに漢字を使うしかありません。


文字の共用と転用

2008-07-22 22:44:12 | 言葉と文字

 どんな言語でも文字より先に話し言葉があったので、同音意義語というのは必ずあります。
 漢字は同じ音でも書き分けられるようになっていると考えられていますが、一度にすべての漢字が出来上がったわけではありませんから、同音語が同じ文字を共用することがあっても不自然ではありません。
 文字ができる以前は同音異義語であっても、意味の使い分けは出来たのですから文字を作ったとき、共通の文字であっても意味は通じたはずです。

 たとえば「沙」という字は「すな」という意味とそこから派生した「より分ける」という意味を持っています。
 「沙」が「すな」という意味の文字として作られたのは、石が水に洗われて小さく削られて「すな」になると考えられたからだといいます。
 ところが、この考え方はまわりくどいので、単純に石の小さいのが「すな」だとしたのが「砂」という字なのでしょう。
 「沙」の場合は石が水に洗われて小さく削られるということから、「より分ける」という意味が派生したのですが、「砂」からはこのような意味が派生しないので、「砂」は「すな」の意味だけに使われています。
 それでも「沙」の字も「すな」という意味を失っていないので、同じ意味の言葉に二つの字が対応しています。

 このような例は他にもあって、「女」という字は「ジョ」という発音の「おんな」という意味の言葉と、「なんじ」という意味の言葉で共用された文字です。 
 今通用している「汝」という文字は中国の「ジョ」という川の名前に使われていたものだそうです。
 これは川だからサンズイにジョという発音に当てられている「女」をつけたものですが、この文字ができたので「なんじ」という意味の言葉に対する文字にくっつけたのです。
 「おんな」と「なんじ」では紛らわしい場合もありますが、川の名前と「なんじ」のほうが紛らわしくないからでしょう。

 「求」という字はもとは「かわごろも」という意味で、その後「もとめる」という意味が派生したのが、かわごろもという意味をよりハッキリさせる裘という字が出来たので、「もとめる」のほうが主役になったそうです。
 「然」という字も元は「もえる」という意味の「ネン」という語に当てられた字で、「しかり」という意味の「ネン」という意味の言葉も同居したので、
「もえる」の意味の字を独立させようとして「燃」という字が出来たとのことです。
 そういえば「然」は下に火をあらわす「れんが」がついているので「もえる」という意味なのですが、これに火偏をつけた「燃」は火が二重になって不自然な文字形になってしまっています。

 発音が同じなら文字も同じでもとりあえずよいとするのは自然の成り行きで、何が何でも別の字を割り当てることはないのですが、できたら区別のマークをつけたいというのが人情です。 
 そこで共有部分に意味の別を表わす印をつける方法が考えられます。
 たとえば日本人が「くも」という字を作ろうとするとして「空のくも」を表わす「云」という字を「くも」と読み、雨をつけて「雲」、「虫のくも」なら虫偏に「云」をつけたような文字を作るという要領です。
 話し言葉の音が土台になって、意味の区別を暗示するマークをつけるというやり方で、いわゆる形声文字の造字法です。