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60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

漢字の表音

2008-09-23 23:30:05 | 言葉と文字

 「交」という字は「コウ」と読み、校、郊、効、皎、絞などいずれも「こう」と音読みしますから、これらの字の音を表わす部分、つまり音符となっています。
 「比較」の場合は「較」を「カク」と読んでいますが、本来は「コウ」と読み「比較
は「ヒコウ」と読むのが本当なのだということになっています。
 漢字の大部分は意味を表わす部分の意符と音を表わす音符で構成された形声文字だといわれています。
 ところが音を表わす部分は表音文字のように、曲がりなりにも規則的になっているかというと、そうではありません。
 
 たとえば「旬」という字は「ジュン」と読みますから、荀子、殉死などは字を知らなくても「ジュンシ」と読めるのですが、「絢爛」を「ジュンラン」と読んでしまうと、「百姓読み」と軽蔑されてしまったりします。
 現代中国語では「旬」はシュン、「絢」はシュアンのように発音するらしいので、同じ音符としてみることに抵抗がないのかもしれませんが、日本での「ジュン」と「ケン」は違いすぎます。
 漢和辞典をひくと「旬」は「めぐる」とという意味で、「絢」の「旬」も「めぐる」と言う意味だそうですから、「絢」を「ジュン」と読むのも無理からぬことです。
 しかし「絢爛豪華」をいまさら「ジュンランゴウカ」と読んでもいいとはいえませんから、漢字の音読みというのは読み慣わしに従うものだとしかいえません。

 情報を「漏洩」するという単語の読みは、「ロウエイ」と読み慣わしていますが、「ロウセツ」が正しい読みだと言われています。
 「洩」には「エイ」という読みと「セツ」という読みがあって、「もれる」という意味のときは「セツ」と読むということになっています。
 「曳」は「伸びる」というような意味で「エイ」と読みますが「セツ」とは読みません。 「洩」はサンズイに「曳」「のびる」で、水が漏れるという意味になるということから「もれる」という意味の「セツ」という言葉に当てられたようです。
 「セツ」という言葉に「洩」という字が当てられたので、「洩」は「セツ」とも読むようになったわけです。

 ところが同じようにして「泄」という字にも「もれる」という意味の「セツ」という単語があてられたので、同じ意味で二つの文字が出来ています。
 「泄」は「排泄」という風に使われていますが、「漏泄」というふうにも使われ、これは「漏洩」と同じ意味です。
 「泄」の「世」も「伸びる」という意味があるので、「エイ」という読みの「洩」と同じ意味でも使われ「エイ」とも読みます。
 二つの文字の意味が同じなら、いっそ「セツ」には「泄」、「エイ」には「洩」を専属させて、「ロウセツ」「ハイセツ」はともに、「漏泄」「排泄」とすれば紛らわしくなく、記憶の負担も少なくてすんだはずです。
 
 「該当」を「カクトウ」と読み誤る例がありますが、「亥」を「カク」と読む例は「核」ぐらいしかなく、「亥」だけでは「ガイ」で「亥」を音符とする字は劾、咳、該、骸、駭など「ガイ」と読むほうが多数派です。
 それでも該当の該を「カク」と読んでしまうのは、「ガイ」と読む字がなじみがうすく、「ガイ」という音も意味の喚起力が日本人に対しては弱いためです。
 「核実験」のように「核」はなじみがあり、日本語化しているので、その読みの連想から「該当」の「該」もつい「カク」と読んでしまったのでしょう。
 音読であってもひとつの文字に、いろんな読みが当てられているので、まぎらわしいく、漢字の表音方法というものは一貫性がないのです。
 


慣用読みでもよい

2008-09-20 22:59:43 | 言葉と文字

 漢字の読み方についての本には、「消耗」という単語をふつうは、「ショウモウ」と読んでいるけれども、ほんとうは「ショウコウ」と読むのだと書いてあります。
 「耗」という字の旁は「毛」なので「モウ」と読んでしまうのですが、正しくは「コウ」で、「毛」だから「モウ」だと単純に思い込んではいけないというのです。
 こうした思い込みで間違った読みをすることを「百姓読み」というそうです。
 「洗滌」は「センジョウ」と読むのが百姓読み、本来は「センデキ」、「憧憬」は「ドウケイ」でなく「ショウケイ」、「貪欲」は「ドンヨク」でなく「タンヨク」だなどという例がよくあげられています。

 ところで「消耗」の「耗」は「コウ」という読みしかないのかと漢字字典を引いてみると、じつは「コウという読みだけでなく「ボウ、モウ」という読みもありますから、「モウ」とは読めないということではありません。
 ただ、「ボウ、モウ」と読むときの「耗」は「くらい」という意味で、「コウ」と読むときは「へる」という意味なので、「消耗」は「ショウコウ」が正しいということになるようです。
 旁の「毛」は毛皮の「毛」という意味ではなく、「亡、莫」とおなじで「ない」という意味で、そこから「へる」という意味が派生したとあります。
 そうするともとは「ボウ、モウ」と読み「ない」あるいは「くらい」という意味だったのが、あとから「へる」という意味が派生し、「へる」という意味の「コウ」という単語を表わすのに「耗」が使われるようになったようです。
 日本語では「へる」という意味で「コウ」と発音する言葉はありませんから、「耗」という字を見てもこれが「へる」という意味だと分かったとしても「コウ」とは読めません。
 日本人にとっては「耗」が「へる」という意味だとしても、読みは「コウ」でも「モウ」でもよいのです。
 したがって「消耗」の場合、慣用読みの「モウ」は百姓読みだとして、「コウ」にどうしてもしなければならないというほどのことはないのです。

 「洗滌」の「滌」も字典を引くと「テキ、デキ」という読みのほかに「チョウ、ジョウ」という読みもあるので、「滌」は「ジョウ」とは読めないということではありません。
 漢和辞典によれば「滌」あるいは「條」の源字は「攸」で「水が細く流れる」という意味だというのですが、読みは「ユウ」です。
 「洗う」という意味の「テキ、デキ」という言葉が、「攸」という字を借り、それが「滌」という字に変化したということですから、「滌」という字が「テキ、デキ」としか読めないということではないのです。
 「耗」の場合と同じように、音声言葉が先にあり、借字をしているのですから、文字の元の読みではないのです。
 したがって「センデキ」と読むのが正しいと言って、今から改めるほどのことではありません。

 「憧憬」の「憧」も旁の「童」は「ドウ」と読むのですから「憧」も元来は「ドウ」と読んだはずです。
 漢和辞典を引けば、「憧」は「なにもしらず、おろか」という意味では「トウ、ドウ」と読み、「あこがれる」という意味の時は「ショウ」と読みます。
 したがって「憧憬」の場合は「ショウケイ」が正しいということになるのですが「童」は「おろか」とか「なかがぬけている」といった意味が原義なので、「憧」の元の意味は「なにもしらず、おろか」ということで、読みも「トウ、ドウ」が本家のようです。
 「あこがれる」のほうは派生義で、「あこがれる」といういみの「しょう」という言葉が、「憧」にヤドカリをしたのでしょう。
 中国語では「憧」という字を借りたからといって、読みを「トウ、ドウ」と変えるわけにいかず、「憧」に「ショウ」という読みを付け加えたのです。
 「貪欲」の「貪」は仏教用語のときは「トン、ドン」、漢語のときは「タン」で、時代による発音の変化ですから、どちらが正しいということもありません。
 こうしてみると日本語の中での慣用読みは、百姓読みとしてきつく否定するほどのことはないように思われます

 


形声文字

2008-09-19 00:31:29 | 言葉と文字

 「江」や「河」のような漢字はサンズイが意味の分類を表わし、「工」「可」という部分が「コウ」「カ」というふうに音を表わしているとされています。
 こういう種類の漢字を形声文字といい、漢字の80%は形声文字だと言われています。
 形声文字の音を表わす部分(音符あるいは声符)を覚えていれば、知らない漢字であっても音読することが出来るので、漢字は覚えやすく便利だというふうな主張もあります。
 ところが「意」とか「以」は、どちらも「イ」と読みますが、「億」「似」という字になると「オク」とか「ジ」と読むので、なまじ形声文字の知識を応用しようとすると間違えることになります。
 「工」「可」にしても「空」「阿」は「クウ」「ア」と読むのが普通ですから、うまくいかない例があるのです。
 「空」や「阿」も元来は「コウ」「カ」と発音していたのかもしれませんが、時代が変わって「クウ」「ア」と発音するようになったのかもしれません。

 少し極端な例では、図にある「各」のような場合があります。
 「各」自体は、漢和辞典を引いても「カク」という読みしかないのですが、「各」を音符とした文字の読み方は、「カク」だけでなく「キャク、コウ、ガク、キュウ、ラク、リャク、ロ」など幾種類もの読み方があります。
 もともとは同じ読みだったのかもしれませんが、読み方がいくつにも分かれてしまっていますから、「各」を「カク」と読むというふうに思っているだけでは、読み違いとなる場合が多いのが分ります。
 これらのうち「格」や「客」のように、おなじ文字が「カク、キャク」のように読み方が複数あるものは、いわゆる漢音、呉音の違いで、中国では時代の変化につれて音声が変化したのに、日本では古い読みが消えず、変化後の読みと同居しているようです。
 日本と中国で発音が同時に変化すれば、日本でも一つの読みに統一されたのでしょうが、日本で中国と同じ発音変化がなかったので二つ以上の読みが生きているのです。
 
 これにたいして「洛、落、絡、酪、烙」などは「ラク」という読みしかありませんから、「格、客」などとは違ったグループの文字です。
 「路、露、賂」なども「ロ」という読みで他のグループと離れています。
 どれも「各」という音符なのでもとは同じ発音の文字だったのかもしれませんが、何らかの意味で別の単語グループだったので、音声の変化が別々だったように見えます。
 読み方のグループが同じであれば、「各」の部分の意味に共通性があるかというと、洛と落、絡のように意味の共通性のないものがありますから、発音が同じだから意味も近いとは必ずしもいえません。
 格と客、喀などについて、「各」は「つかえてとまる」という意味を共有しているという説明が漢和辞典にはありますが、日本人にはイメージ的に分りやすいものではありません。

 漢字の訓読みは日本語なので、読みを知れば意味が分かるという場合が多いのですが、音読みの場合は、読みを知ったからといって意味が分かるわけではありません。
 「各」の例で見られるように、一つの音符に対して読みがいくとおりもあると、どの文字にどの読み方が当てはまるのかは、文字を見ただけでは分りません。
 一つの音符の読み方を覚えるときに、いくとおりもの読みがあったのでは、覚えやすいとはいえません。
 漢字の場合は文字が単語でもあるので、発音も意味も変化するため、文字と発音や意味とのズレがでてくるのです。
 漢字の読みとか意味に、きちんとした規則性があると思い込みすぎると期待を裏切られることになります。
 
 
 


漢字の単語家族

2008-09-14 00:23:26 | 言葉と文字

 「青春を謳歌する」とか「わが世の春を謳歌する」というときの「謳歌」は広辞苑などでは「ほめたたえる」と説明していますが、普通に使われているときは「たのしむ」という意味です。
 漢和辞典を引くと「ほめたたえる」という意味がのっていて、日本風の意味として「たのしむ」とありますから、広辞苑は漢語の解釈をそのまま載せたのでしょう。
 夏目漱石は「世は名門を謳歌する」というふうに使っていますから、ほめたたえるというのが本来で、その後意味が変化してきているようです。

 「謳」という字はゴンベンが付いていますから「たのしむ」より「ほめたたえる」という意味のほうが自然です。
 漢和辞典で見ると「謳」の「區」という部分の意味は「うたう」という意味で、「謳歌」は「ほめうたう」ということになります。
 同じような意味の漢字で「嘔」、「歐」というのがありますが、これらはゴンベンの変わりに「口」(くち)「欠」(口を大きく開ける)となっていて、「うたう」という意味だということが納得できます。
 同じような意味なら一つにまとめてもよいのに、なぜかかたちまで似た字が三つもあるのです。
 しかも「區」には「はく、もどす」という意味があって、「嘔」、「歐」は「吐きもどす」という意味もあります。
 「嘔吐」というときは「嘔」が普通使われ、「歐」を使う例は見ませんが、「歐」のほうは「欧」のように略字があるのに使われないのは不思議です。
 さらに「區」には、「打つ、たたく」という意味があって、「毆」と「歐」は同じ意味ですが、「毆打」というときは「歐」あるいは「殴」が使われ、「歐」あるいは「欧」が使われる例は見かけません。

 結局「欧」は三つの意味のどれも持っているのに、現在では「欧州」のように当て字で意味が分からない使われ方が一般的になっています。
 「歐」という字が四つの中でいちばん古く、書き分けのために「謳」「嘔」「毆」が後から作られたのかもしれませんが、「歐」だけでもよかったように見えます。
 「區」には他にも「オウ」という読みで違う意味があって、「まがる」という意味については「嫗」(老婆」「傴」(せむし)などがあり、これらは「歐」と別の意味です。
 サンズイに「區」は水につけるという意味で、さらにこれに「鳥」が加わると「かもめ」という字になっています(サンズイがなくて「區」+「鳥」でも「かもめ」)。

 「區」は「ク」という音で「区」「駆」「躯」、「スウ」という音で「枢」というような字があってそれぞれについて「區」が意味の中心部分としてか説明されています。
 これらの字は「區」という文字を共有することで、意味的に直接的あるいは間接的につながっているということになるのですが、「區」がいわゆる部首になっていないので、漢和辞典にはばらばらの場所に乗っています。
 「區」という字を共有していることで、血縁イメージを連想し「単語家族」という言い方をする立場がありますが、それにしては意味の広がりがばらばらです。
 「區」という字があれば、音が違ってもその意味に似たような言葉が寄ってきて文字を借りるということがありうるので、あとから家族関係にもぐりこんだという例もあるかもしれません。
 漢和辞典のあちこちにこれらの文字は散らばっているため、文字の関係が一覧できない状態なので偽家族が入り込んだり、家族関係が離れていったりごちゃごちゃになって分りにくいのです。

 


漢字と意味の多義性

2008-09-11 23:53:24 | 言葉と文字

 「靴」とか「鞄」と書くと革製品でなければならないような感じがしますが、布製鞄やゴム靴であっても漢字の部分は布にしたり、ゴムにしたりはしません。
 革のカバンを鞄と書き表すようになったときは、うまく表わしていると思われたでしょうが、布製のカバンやビニル製のカバンが普及してくると、文字が体を表わさなくなります。
 これがバッグとかシューズのようにカタカナ語であれば、革でも布でもビニルでも矛盾はしません。
 漢字が表意性があるために見ればその意味が分かるというのは、便利なようで不便なところもあるのです。

 「駅」という単語でも、現在では馬を置いているわけではないので、文字と内容がずれてしまっていますが、「ステーション」なら馬がいなくても問題がありません。
 そればかりか「駅」は鉄道の駅に変わっただけですが、ステーション(station)はサービス拠点という意味から「宇宙ステーション」、「放送ステーション」のようにも使われるようになり、意味が広がっています。
 馬を置いているときは「駅」は文字から意味が伝わる要素があったのですが、駅の内容が変化してしまうと名は体を表わさなくなってしまいます。
 カタカナ語のほうは名が体を表わしていないので、文字を見て内容が分るということはありませんが、、内容が変わっても差支えがないのです。
 
 図に示しているのはポピュラーな果物について、英語と漢語の意味の広がりの違いです。
 見れば分るとおり、英語は多義的で日本人の感覚では単純に思われるものでも、いくつかの意味を持っています。
 「リンゴ」といえば日本人の場合ならリンゴの実のことと受け取られ、リンゴと聞いてイメージするものが人によって違うのは、赤いリンゴか青いリンガかとか、西洋リンゴか和りんごかといった程度です。
 英語の字典を引くと、「大字典」といった詳しいものでなくても、いくつもの意味がのっていて、国語辞典や漢和辞典とだいぶ様子が違います。
 
 桃とか梅とか書くと木偏が付いているので、特定の植物をさしていることは、意味を知らなくても推定できます。
 どんな植物を表わしているかは、兆とか毎のような表音要素からでは分りませんが、植物であるということだけは分ります。
 英語のほうは文字面からだけでは何をさしているか分りません。
 木偏のようなものが付いているわけではないので、これらの単語を知らなければそれが植物かどうかの見当すら出来ません。
 その反面限定要素がないので、図のように多義化することができています。

 このように漢字で名詞を表現した場合は意味が限定される傾向があり、英語と比べると多義化しにくいように見えます。
 どちらがよいかは一概に言えませんが、表意性があるから漢字が便利だと断定するのは考えものです。
 漢字は字の形で意味を表現しようとする傾向があるので、、出来たときはよいのかもしれませんが、内容が変化したときついていけなくなるので不便なのです。
 機械は木製でなく金属製なのが普通ですが、そうしたことには目をつぶって使わなければなりません。
 字の構成などに気を使わずに、文字を処理しなければ不便になり、かといって字の構成に鈍感になっててしまうと漢字の特性が無意味となってしまいます。
 意味の変化が速い時代は漢字にとっては難しい時代なのです。

 


旧字体と新字体

2008-09-06 22:36:55 | 言葉と文字

 「恋」という字を旧字体では「戀」と書きますが、「心」の上の部分は糸+言+糸という形になっていて、「レン」と読みます。
 ずいぶんややこしい字で、書くのも覚えるのも大変なように見えますが、「戀」という字は「糸し糸しと言う心」と覚えれば簡単だと旧字体を好む人は言います。
 語呂合わせで覚えやすいのですが、意味的にはなぜそのように書くのか分りません。
 新字体は元の形を崩してしまうので、文字の形から意味が読み取れなくなるといいますが、この場合は旧字体にしたところで、たいていの人には意味が分かりません。
 漢和辞典を引けばこの部分は糸がもつれている様子を表わすとありますが、糸の間に「言」が入っているので「もつれる」という意味になる理由が分りません。
 「言」は「けじめをつける」意味だという説明もありますが、なんとなくすっきりしません。
 
 いちおう「糸+言+糸」で「もつれる」というような意味だとして、それでも「恋」は心がもつれた状態だと説明されると、少しおかしいなと感じます。
 別の説明では「もつれる」は「もつれて断ち切れない」という意味で、執着する意味を強調しています。
 それでは同じ部分を持つ「変」という字はどうなるかというと、下の「攵」が動詞とする機能を持って「もつれて変る」という説と、「攵」は「たちきる」意味で、「つながりを断ち切るので「変る」意味となるとしています。
 いずれにせよ文字を見れば意味が分るということはありません。
 「弯」の場合は「弯曲」の弯で「まがる」という意味ですが、上の部分は「いとがまがってもつれること、それと弓を合わせて丸く反る」という説明で苦しい感じです。
 弓を張れば糸はもつれていないと思うのですが。

 「蛮」の場合は「野蛮」などように「未開で文化が開けていない」というような意味ですが、「もつれる」+「虫」でなぜそうなるか。
 「姿や生活が乱れた虫のような人種」だからというのですが、日本人には思いもよらない思考法です。
 以上は新字体が作られている例ですが、これらについては旧字体であることのメリットはほとんどなく、旧字体では字が複雑で読み取りにくく、もちろん書くのも書きにくく不便です。
 このほか「欒」は団欒、「攣」は痙攣、「鸞」は親鸞という例があるので、馴染みのある漢字ですが、文字を見て意味の分る字ではありません。
 
 図の一番下の行はあまり馴染みのない漢字ですが、「糸+言+糸」が「もつれる」という意味だという知識を持っていても、字を見て意味のわかる人はほとんどいないでしょう。
 読みも「恋」がレン、「変」がヘン、「弯」はワン、「蛮」はバン、「欒」、「鸞」はランですから、知らない漢字であればレンと読んでも間違っているかもしれないと自信をもてません。

 「糸+言+糸」は「糸がもつれているようす」という視覚的なイメージを表現しようとしたものなのでしょうが、そこから文字の意味を推測しようとするとかえって難しくなっているのに気がつきます。
 この部分を「亦」に簡略化してしまった新字体では、文字面から意味は全く推測できませんが、「恋」「変」「弯」「蛮」をそれぞれ別に覚えるので、意味にムリを加えないですみます。
 「亦」に意味を感じようとしないのですが、そのほうがかえってよいのです。


頭の漢字

2008-09-04 23:06:03 | 言葉と文字

 「頭」という字は「豆」に「頁」と書きますが、漢和辞典を引くと「頁」が頭のことを指し、豆は食べる豆でなく「たかつき」で容器を意味するということです。
 豆の部分の表わす意味は「ジッと立ったたかつき」とか「あたまの大きなたかつき」という説明でなぜ「たかつき」が組み合わせられるのかピンときません。
 もしかすると「豆」は「トウ」という音を表わしているだけなのかもしれません。
 意味を表わしているのは「頁」の部分で、これがアタマを意味しているのです。
 顔とか頚、額、顎、頬,項(うなじ)などはアタマに関係する漢字ですから、なるほど「頁」は頭のことを意味するのだなと思います。

 「煩」という字は「わずらわしい」という意味ですが、火が燃えるようにアタマがいらいらすることだという説明を読むといちおうなっとくします。
 ところが「顕」という字を見てもアタマとどういう関係かわかりません。
 「顕」は旧字体では「顯」で左の部分は「日」+「絲」で絹糸を日光にさらすことで、「顔を明るみに出してはっきり見せること」というような説明がありますが、分けのわからない説明です。
 順、頑、頽、、以下図に示した例は普通に使われる漢字ですが、普通使われる意味は「アタマ」とは結びつきません。
 「順」は川と結びついていますが、字典では「川の水が流れるように、アタマを向けて進む」ということで「したがう」の意味だとありますが、記憶法としては面白くても、わけの分らない説明です。
 
 「頑」の場合は「元」自体が「あたま」で「まるいあたま」を表わしているとのことで、丸い頭の意味なのですが、これがどうして「かたくな」とか「融通の利かない」という意味になるのか分りません。
 アタマが四角かったり三角だったりすれば、かたくななイメージもあるかもしれませんが、丸い頭が頑固アタマというのはどういうことでしょうか。
 「頽」の場合は「頁」(アタマ)+禿(はげる)で「くずれる」という意味となるというのですが、「アタマが禿げる」ということがすなわち「くずれる」というのはどうでしょうか。
 アタマが禿げていてもエネルギッシュな人もいるので、納得できない人もいるかもしれません。
 「頽廃」という熟語は「おとろえすたれる」という意味ですが、普通の使われ方では不健全なイメージですから、禿げたアタマと結びつけるのはどうかなという感じです。

 「類」の左側は「米」+「犬」ですが、米がたくさんの植物の代表、犬が種類の多い動物の代表で、「アタマ」と組み合わせ、「多くの物の頭数をそろえて区分けする、つまり分類する」意味となるといいます。
 本当にそういうことで作られた文字なのかどうかわかりませんが、あまり必然性を感じない造字法で、あらかじめ意味を知らされていなければ、このも字の意味を推測することは困難です。
 このほかの文字も、字典には「アタマ」との関係が説明されてはいますが、普通の人がこれらの文字を見て「アタマ」との結びつきを考えても、もっともらしい説明はできないでしょう。
 わからないので字典を引いてみても、「なぜ?」と思うような説明で、かえって分らなくなったりします。

 漢字は一人の人が造ったわけでもなく、一時に出来上がったわけでもないので、造字の原理が首尾一貫しているわけではありませんし、作られたときの意味から変っている場合もあります。
 漢字は見れば意味が分かるというような説がありますが、たいていの漢字は丸暗記によって記憶したもので、長期間の学習で獲得したものです。
 普段使っている漢字でも、なぜそのような意味になるかとアラタメテ見直すと、分らないものがほとんどです。
 見れば意味が分かるのではなく、意味を学習したから分るのであって、分っていて見るから、見れば分るのです。  


漢字の古い字体

2008-09-02 23:59:20 | 言葉と文字

 園芸という意味で使われる「芸」という字は「藝」という字の略字で、「芸」という字自体は本の虫除けに使う香草だということで別の字だそうです。
 旧字体でなければいけないという人は、「芸」の読みは「ウン」で意味も違うのだから園芸や芸能の意味の「ゲイ」に略字として「芸」を使うのは間違いだと主張します。
 ところが漢和辞典を引くと「藝」の元の字は草冠と下の「云」の間の形で、それだけで人がしゃがんで木を植えている形の象形文字で、草冠と「云」はあとから加えられたものだということです。
 「藝」という字自体もさかのぼれば誤った字で、声高にこれが本来の文字の形だということはできないのです。
 略字はダメで繁体字でなければいけないといっても、「法」という字も略字で「ホウ」という読み方はないのに、繁体字で書こうとする人はいません。
 漢和辞典の説明では元の形は、サンズイにの島の中にいる鹿に似た「タイ」という神獣の形で、行動を抑制するワクを表わすといいます(他の解釈もあるようですが)。
 略字の「法」はこの神獣の部分を取り去っているので、元の意味との関連を失っているのですが、だからといって不足を言う人はいません。

 「芸」にしても元の意味では園芸の意味に限定され、現在のように芸術、遊芸、工芸、技芸のような意味はありませんから、「藝」という字にするとかえって不都合です。
 「藝術」と書けば園芸の技術に解釈され、アートとはいめーじがてしまいます。
 「法」にしたところで、現在は生活を規制するワクの意味だけでなく、作業や製造の方法、物理化学の法則、魔法、仏法など超自然の法則など広い範囲で使われるので、元の字義はかえって邪魔になります。
 言葉の意味が変化すれば文字の形と、意味のつながりが薄れていったり、あるいはつながりを失っていきますが、そのほうがかえって好都合なのです。

 発音は変化しても文字の形は変化すべきでないという人は、いわゆる旧字体が初めからあったような印象を持っているわけではないかも知れませんが、時代をさかのぼればさかのぼるほど正統であるという感覚を持っているのでしょうか。
 元の形を維持すべきだということなら、漢字は現在の楷書でなく、甲骨文とか金文にあるものはそこまでさかのぼるべきだということになります。
 そうすると、たとえば「斉」のように、現在とは全く違った形にもどらなくてはならなくなってしまいます。
 甲骨文や金文になると現代の感覚からすると、文字というよりは図形で、そうなると意味の解釈はどうしても感覚的で、連想主体になります。
 たとえば「斉」の源字の三つの図形はこれだけ見ては何のことが分りません。
 ある学者はこれらを簪とみて、三本の簪が髪にそろって刺さった状態だと考え、また別の説では穀物の穂先が出そろった形だといいます。
 両方とも「そろう」という意味だとしているのですが、イメージは違います。
 また「男」という字は普通には、「田」+「力」で力仕事をするということで男を意味するというのですが、甲骨文では田の横に描かれているのは力でなく土をすき返す道具だといいます。
 意味はどちらも男の意味だというのですが、これは意味が分かっているので「男の意味だ」と結論するのですが、あらかじめ意味を知らなければ「オトコ」だという判断に行き着いたかどうか疑問です。

 図には載せていませんが「取」という字は耳の横にある「又」は手の意味で耳を取ることを意味しているということです。
 ところが意味の解釈となると一説では動物の耳を手でつかめば、動物にかまれずに制御できるということから出来た字だとしていますが、別の説では戦功の印として敵の左耳を切とって持つという意味だとしています。
 耳は二つあるので左耳を切取るという説が合理的のようですが、いかにも残酷で本当にそんなことが行われたのかと思いますが、豊臣秀吉のときに日本兵が朝鮮兵の鼻を切り取って軍功の証明とした例もありますから、そういうこともありえます。
 いずれにせよ文字の形からではどちらが正しいともいえないので、漢字の字源解釈というものは学問的にはともかく、実用的には意味がないのです。
 取るという字を読んだり書いたりするする上で、耳を手でつかんだり、切り取ったりというイメージは邪魔でしかないからです。


字面を見て分る漢字の長所と短所

2008-08-28 23:17:16 | 言葉と文字

 子犬や子馬を「仔犬」「仔馬」と書くことがありますが、犬や馬なのになぜ人偏をつけた「仔」の字を使うのか気にかけていないようです。
 本来「仔」は人間の子供の意味だったはずですが、小さいとか細かいという意味にも使われ、仔細というような熟語も出来ています。
 「仔細」というような言葉になれば、「子供」という意味は消えていて、単に小さいという意味になっています。
 「仔犬」や「仔馬」の場合は、「小さい」という意味と「子供」という意味が残っていますが、「人間」の意味は残っていませんから、文字のなかの「ニンベン」という要素は無視されています。

 漢字は字面を見れば偏などによって何にかかわる言葉なのか見当がついて、意味が類推しやすいということになっていますが、そうとばかりはいえません。
 よく使われる漢字でも意味が分かっていても、あらためて文字の構成要素を見ると、かえってわけが分らなくなるものもあります。
 たとえば「黙る」という字でも、黒い犬とどういう関係があるのか辞書には説明があっても、納得のいく説明ではありません。
 「突」は新字体では穴に大ですが、旧字体では穴に犬で、穴から犬が跳びだしてくるという意味だなどと説明されていて、面白くはあってもご無理筋の感じです。
 たいていの人は黒犬とか穴から犬などと思わずに、単純に漢字を覚えていて読み書きしているはずです。
 
 図は人偏を使った漢字の例で、どれもよく目にするものですが、なぜニンベンかと、あらためて考えるとハテナということになり、合理的な結びつきが思い浮かびません。
 ニンベンは人の意味ですが、これが「変化」「化学」の「化」とどう結びつくのか、直感的には分りません。
 漢和辞典では、「物の代表としての牛と、牛を引く人からなる」というような説明ですが、意味不明で「件」の意味を知らなければ、字の説明を見ても意味が分かりません。
 「什」のように「ムカシの軍隊の十人一組の単位」ということから派生して「数多い物品」という意味だというのは一応納得できますが、現代では「什器」という場合の使われ方が主で「日常の器具、道具」の意味ですから、ニンベンとは結びついていません。
 
 「低」は背の低い人を示す文字ということになっていますが、現代では「低」だけで背の低い人を表わす用法はなく、ただ「ひくい」という意味ですから、ニンベンが付いていても「人」の意味が意識されることはありません。
 ニンベンに注意すればかえって戸惑うだけです。
 「併」は「并」が合わせるという意味で、これにわざわざニンベンがついているのですが、偏がついていることで意味が変るわけではありません。
 したがってニンベンが付いているからということで、「人」の意味が意識されるわけではないのです。
 
 漢字は一字で一単語となっていて、意味を持っているのですが、言葉の意味というものは別の意味に変化したり、拡大あるいは縮小したりします。
 意味が変化したり拡大あるいは縮小したからといって、それに応じて漢字の形が変化するわけにはいきません。
 漢字が意味を表わすような形で作られていれば、意味が変化したとき漢字の意味と形は
ズレを生じてくることになります。
 あまり使われない漢字であれば意味の変化も少ないので、形と意味のズレは少ないかもしれませんが、よく使われる漢字は多義的になったり、意味が広がったりするのです。
 「漢字は字面を見れば分る」というのは長所をいっているようですが、矛盾を含んでいることを表明しても入るのです。
 


簡体字の例

2008-08-12 23:23:41 | 言葉と文字

 図は中国の簡体字の例です。
 「態」という字は「能」という部分が音を現し、「心」が意味の分類を表わしていて、「心構えとか、すがたの様子」という意味の漢字です。
 この字の音読みは「タイ」ですが、音を表わす部分が「能」ということは、「能」は「タイ」と読めるということです。
 そこで漢和辞典を引いてみると、小さな漢字辞典では「ノウ」という読みしかのっていませんが、ある程度詳しい辞典には確かに「タイ」という読み方も載っています。
 発音の違う言葉が同じ文字に同居しているのですが、「タイ」という読みで「能」という字が使われる熟語というのは見かけません。
 したがって「能」が「タイ」と読むなどということは、よほどの学者でないと知りません。
 しかし「態度」という熟語を見て「ノウド」と読む人はまずいないでしょうから、普通の人は理屈ぬきに「態」は「タイ」と読むと覚えこんでいて、「能」が「タイ」とも読むと思っているわけではないのです。
 おそらく中国でも「能」という字を見て「タイ」と読める人は少なくなっていて、「太」という字をあてがったほうが分りやすいので造字したのでしょう。

 「願」は音を表わす部分が「原」、意味を表わす部分が「頁」ですが。、「願」と「原」は日本語では「ガン」と「ゲン」でちがうので分りにくいのですが、中国語では両方とも「ユアン」で同じですから、音を表わす部分が「原」だと分ります。
 意味を表わす部分の「頁」は「あたま、くび」の意味なので、それよりも「心」を使ったほうが「願う」という意味にふさわしいと考えたのでしょう。
 (日本人の場合は「願」を「ガン」と読んでいて「原」と読みが同じだとは思わないまま「願はガンと音読みして願うという意味だ」と理屈ぬきに覚えているのです。)
 ところが「愿」という字はべつにあるので、同じ時に別の意味が同居してしまうことになるのですが、もとの「愿」の字はあまり使われることがないのか、「願う」という意味に母屋を取られた感じです。

 「驚」の場合は音符が「敬」で意味を表わす部分が「馬」ということですが、そういわれても、どうしてここで馬が出てくるのか驚いてしまうのではないでしょうか。
 字典では「敏感な馬がハッと緊張することを表わす」などと説明していますが、何となく腑に落ちません。
 「驚く」のは心の問題だから意味を表わすリッシンベンに、音を表わす部分は同音でもっと簡単な「京」にしたほうが分りやすいということで造字したものと思われます。

 「護」の場合は右側が音符なのでこれを同音で簡単な「戸」に変え、意味の部分は「言」では分りにくいので手偏にして動作を示すようにしたものです。
 これらの文字はよく使われる文字なのに、どうしてこのように書くのかと改めて考えると分らなくなってしまう文字です。
 もう既に覚えてしまっている人にはどうということはないのですが、初めて漢字を覚えようとする人には理屈ぬきで覚えなければならないので、記憶の負担が大きいのではないかと考えられます。
 中国では文盲率が高かったので、ともかく覚えやすく書きやすく合理的な文字に変えようとしたのでしょう。
 簡体字のなかにはやりすぎで、おかしなものもあるようですが、日本で導入してもよいものもあると思います。