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漢字の書き分けと熟語

2008-07-21 23:31:10 | 言葉と文字

 「怨恨」という熟語を国語辞典で調べると「うらむこと、うらみ」となっていますが、この「うらみ」は漢字で書き分けてはいません。
 そこで「うらみ」という言葉を調べると「恨み、怨み、憾み」などと書き分け方が示されています。
 「憾み」は「怨恨」とは字の上でも共通点が無く意味も違うので、「恨み」あるいは「怨み」が近い意味になるのでしょうが、どちらか一方に決めるわけにはいかないでしょう。
 一方を取ると他方が棄てられてしまいますから、「怨恨」という熟語の意味は「うらみ」とヒラガナにするしかなかったようです。
 そうすると「うらみ」という語の漢字による書き分けは「怨み」「恨み」「憾み」のほかに「怨恨」があることになり、辞書を改定する必要がでてきます。
 実際は「恨み」「怨み」「怨恨」などをどう違うのか説明するのはむずかしく、ヒラガナで「うらみ」と書くほうがよいということになるでしょう。

 日本語を漢字に書き分けるというと、より正確な表現になるように思われ、書き分けの規則がきちんとあるようにいわれていますが、中国語のために出来た漢字が、そのように出来ていると考えるのは不自然です。
 「つく」という言葉も辞書による書き分けでは「着く、付く、、」となっていますが、それでは「つく」を漢語表現した「付着する」は「つく」とは翻訳できないのかという疑問がでてきます。
 「付着」は「付く」でも「着く」てもないので「つく」と訳すわけにはいかないということになるからです。
 こうした現象はいわゆる漢字の書き分けが行われる言葉について頻繁に見られる現象です。

 書き分けに使われている漢字を組み合わせた二字熟語がある場合、そうした熟語の意味はどうなっているのかという問題があります。
 普通に考えれば二字熟語は二つの漢字の合成語なので、一つ一つの漢字の意味を超えた意味を持っているはずです。
 たとえば「変換」は「変」も「換」も訓は「かえる」ですが、「変」は「状態をかえる」、「換」は「とりかえる」意味で、「変換」は二つをあわせた意味ですから複合語としての意味を持っています(ただし「カナ漢字変換」というときはカナの部分を漢字に置き換えるので「カナ漢字置換」のほうがよさそうな気がします)。
 そこで「上昇」は「上」や「昇」とは違う意味を持たなければ、わざわざ「上昇」という言葉を作る意味がないはずです。
 したがって「のぼる」を「昇る、上る」と書き分けして、「上昇」を「のぼる」と翻訳したのでは辞書の役割が果たせません。

 「おさめる」は「収める、納める」として「納める」は「納税」のように「相手に入れる」「収める」は「収税」のように「相手から取って入れる」の違いがあるとされています。
 しかし「出納」という言葉では「出し入れ」は主体が同じですから、「納」は「相手に入れる」のではありません。
 また「収納」は入れたり出したりではなく、単に取り入れてしまう意味です。
 漢字の用法が整然と区別されていると考えると、意味が分らなくなったりすることもあるのです。
 
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音読みの読みわけ」

2008-07-15 23:33:58 | 言葉と文字

 漢字の大部分はいわゆる形声文字と呼ばれるもので、意味を表わす部分に加えて音声を表わす記号が組み込まれているので、知らない文字でも読み方の見当がつくといわれています。
 たとえば「戔」を」センという音符と知ると、淺、踐、賤などを音読でき、さらに付箋、附牋といった字も音読は出来ることになります。
 ただし棧橋はサンバシ、殘念はザンネンで一筋縄ではいきません。
 読み方が二通りぐらいならば、まだ良いのですが何通りもある音符があるので、日本人にとってはとても厄介です。

 圭という字は「玉器」という意味の字で、基本的にはケイと読むのですが、これを音符として使った字はケイと読めばいいのかと思うとそうはいかない例があります。
 佳作、佳人、佳境などという熟語を思い出せばわかるように、佳はケイでなくカと読むことになっています。
 桑田圭祐、小椋佳などの「佳」はは「カ」と読ませずに「ケイ」と読ませていますが、これを間違いだときめつけられても納得は出来ないでしょう。
 桂馬とか罫線という用例を見ていれば、「ケイ」という読み方が確かにあるのだから既成の熟語から外れた単独の漢字としては「ケイ」と読んでもいいのではないかとも考えられるからです。
 圭を音符に使った読みかたの例としては他に占いの卦(ケ)、蛙はの音読みで「ア」というのがあります。

 矜持という言葉は「キョウジ」と読むのが正解とされ、「キンジ」と読むのは百姓読みとして軽蔑する人もいます。
 音符の「今」が「キン」と読め、衿(襟)の字に似ていることから「キンジ」と読んでしまったのが一般化したのでしょう。
 矜持の矜は衣偏ではなくて矛(ほこ)ですが、形が似ているので衿と勘違いしたのでしょう。
 矜という字じたいは「キン」という読み方があるので、「キョウジ」と読むのだと学習しない限り、「キンジ」と読んでもしかたがありません。
 「今」を音符とした字はほかに「ネン、ガン、ギン、タン、イン」など何種類もあってどういう場合はどのように読むか見当がつきませんから、個別に読み方を覚えるしかありません。
 
 漢字の読み間違いとしてよく挙げられるのが、「垂涎」(スイゼン)ヲ「スイエン」と読んでしまう例です。
 延は「延期」という熟語がポピュラーなので、「延」が入っている熟語を見れば「エン」と読んでしまうのは無理からぬことです。
 しかし誕生という単語は「エンショウ」と読まず「タンジョウ」と読めるのですから、垂涎はなんと読むのだろうかと踏みとどまっても良いはずです。
 ただ「涎」をみて「ゼン」と読むというのは思いつくものではなく、奈良って覚えるしかありません。
 それにしても「よだれをたらす」というのは「強くほしがる」という表現としてもよい表現とは思えません。
 いまどき「垂涎の的」などと表現されても、イメージを浮かべるとだらしが無い感じで感心しません。
 
 漢字の読みは、訓読みの場合は漢字の和訳になるので、いくつもあることは当然なのですが、音読まで何通りもあるので、記憶の負担が大きく、間違いが多いのも当然です。 
 中国語の発音の変化につれて日本でも読み方の変化が起こっていれば、それほど混乱は無かったかもしれませんが、日本に漢語が入ってきた時期の発音が残ってしまったりsいているので、新旧ごちゃ混ぜの読み方が並存しています。
 したがって読み方の正当性を厳格に決めることには無理があるのです。
 


漢字の読みわけ

2008-07-14 23:05:42 | 言葉と文字

 漢字の書き分けが日本語の漢訳にあたるとすれば、漢字の日本語訳が漢字の読み分けにあたると考えることができます。
 本来なら漢字は中国語のものですから、中国語式の読み方だけあればよいのですが、漢字を日本語の中に取り入れたため、漢字の日本語訳つまり、漢字の日本語読みのようなものができています。
 英語の単語などがカタカナ語などの形で日本語の中に入ってきているといっても、アルファベットの綴りが日本語として表記のなかに入り込むということはありませんが、漢字は日本語にまとわりついているので厄介です。
 
 たとえば漢字の「子」という言葉は、中国語としての読み(音読み}は「シ」ですが日本語の中で使われるときは「こ」と読みます。
 これは、たとえば「こども」という日本語の「こ」の部分に「子」という漢字を当てはめて書くために起きるからで、ひらがなで書くならば生じない問題です。
 訓読みする日本語の場合はカナ書きでよいという考え方もありますが、親子を「おやこ」とするような場合は良いとしても、不便な場合があります。
 「親方」に対する「子方」は「こかた」とか「親株」に対する「子株」を「こかぶ」としてはピンときません。
 犬の子を「こいぬ」と書くと小さい犬の「こいぬ」と区別がつかないというようなことも起きますから、単純にカナ書きすればすむわけではありません。

 「親」の場合は「おや」のほかに「したしい」「みずから」「ちかしい」などの読みわけがありますが、「みずから」、「ちかしい」の場合は「自ら」「近しい」といった別の漢字が当てられるようになっています。
 「近しい」と「親しい」は「ちかしい」を書き分けたようですが、どのように意味が違うのかわからないので、読みやすい「近しい」が多用されるようです。
 (辞書には「近しきなかにも礼儀あり」という句も「親(した)しきなかにも礼儀あり」と両方あって意味を同じとしています。)
 ところが「みずから」の場合は「自ら」が一般的に使われますが、「親書」とか「親展」といった熟語が普通に使われているので「親ら」も棄てにくい状態です。

 「上」という字の場合は「あげる」「のぼる」といった読み方の場合は「あげる」は「上げる、挙げる、揚げる」などの書き分けがあり、「のぼる」には「上る、昇る、登る」などの書き分けがありますが、「あげる」「のぼる」というかながきですみます。
 ところが「うわて」のように「上手」としか書きようのない場合のほうが漢字を必要とします。
 「うわに、うわね、うわば、うわぶみ、うわまい、うわみ、うわや」などは漢字がないとわかりにくくなります。
 それでも「上手」と書くと「じょうず、うわて、かみて」と読みが三通りあり、「上米」とあれば「じょうまい、あげまい、うわまい」と三通りあるので読みわけが必要です。
 「親(した)しい」と「親(ちか)しい」のように読みが違っても意味が同じであれば良いのですが、多くの場合は同じ文字でも読み分けによって意味が違うので、漢字の多用はどうしても記憶の負担が大きいのです。


漢字と英語の書き分け

2008-07-13 22:52:15 | 言葉と文字

 日本語はあいまいなので、漢字によって書き分ける必要があるとされていますが、もともと日本語と中国語は違うのですから、完全に書き分けるということはありません。
 たとえば「わらう」という言葉を漢和辞典で引くと、听、咳、咲、哂、嗤、笑などという字がありますが、日本で一般に使われるのは笑、嗤、咲ぐらいで他の字が使われることはめったにありません。
 それでは日本人の「わらう」という言葉の意味がごく狭いのかというとそういうことでもありません。
 
 日本語では「わらう」という言葉の意味は「声を立てて笑う」という意味のほかに「あざ笑う、にっこりする、ほほえむ、しのびわらう、ほくそえむ、にやりとする」などいくつかの笑い方があります。
 これらを漢字で書き分けようとするとどうしてよいか分らなくなりますが、英語なら和英辞典を引けば、laugh,sneer(jeer,scoff),beam,smile,giggle,chuckle,grinなどと書き分ける(英訳する)ことができます。
 漢字で書き分けるというのは、和語を漢訳するということで、英語で書き分ければ和語の英訳となります。
 両方やってみると、この場合は漢字による書き分けよりも英語による書き分けのほうがうまくいくような感じです。

 日本語での笑いの表現は「思い出し笑い、含み笑い、苦笑い、高笑い、馬鹿笑い、愛想笑い、つくり笑い、薄笑い、しのび笑い、大笑い、追従笑い,あざ笑い、泣き笑い」などいくつもの表現がありますが、「わらい」の部分はすべて「笑い」でとおしています。
 漢字の「笑」にはこれらの「わらい」をすべてカバーする意味があるわけではありませんが、日本語のほかの表現と結びついたときは、「笑」の意味が日本語の意味に引きずられて大幅に拡張されているのです。
 「あざわらい」のような場合でも「嘲嗤い」とムリにする必要はなく、「あざ笑い」でもよいのです。

 「ひざがわらう」とか「手がわらう」のように、力が入らなくなっていうことを聞かなくなる場合に、「わらう」というのは日本語特有の表現ですが、これを表現する漢字というのは思いつきにくいでしょう。
 そこで「膝が笑う」とか「手が笑う」と書くのは本来はおかしいのかもしれませんが、このように書かれていても違和感を感じません。
 漢字には意味があるといっても、意味が変ったり拡張されたりするのです。
 日本語として使われる漢字の場合は、日本語と中国語の違いがあるために日本語の意味に引きずられ、漢字の意味が一部無視されてしまうこともあります。
 この漢字の意味は本来こういうものだと言ってみても、日本では日本語用の文字記号として使われる限り、日本式の使い方が通用するのです。


象形文字と擬音文字

2008-07-12 23:17:30 | 言葉と文字

 犬という漢字は象形文字ですが、読み方の「ケン」というのは犬の鳴き声をまねたもので、擬声語(擬音語)です。
 猫という漢字は、けもの偏に苗で、これは象形文字ではありませんが、読み方の「ビョウ」というのは猫の鳴き方をまねたもので、擬声語です。
 虎、馬、牛などは象形文字ですが、読み方の「コ」「バ」「ギュウ」というのは擬声語ではありません。
 犬や猫が擬声語なのに、虎や馬や牛が擬声語でないというのは一貫性がないような感じがします。
 文字の出発点が象形文字であると考えると、音声言語の出発点は擬声語ではないかと素人考えでは思うのですが、必ずしもそうではないようです。
 
 日本語では擬声語というと、大体は幼児言葉で、犬なら「わんわん」、猫なら「にゃあにゃあ」、牛なら「もうもう」といった具合ですが、大人用の言葉は「いぬ」「ねこ」「うし」のように擬声語から離れています。
 英語でも鳴き声は「bowwow」「mew」「moo」ですが名前は「dog」「cat」「ox」で擬声語ではありません。
 言葉の始まりは擬声語あるいは擬音語であろうという予想に反して、日本語でも英語でも身近な言葉で擬声語はあまりないのです。
 したがって語源意識でも擬音語あるいは擬声語がさきに来るわけではないのです。

 したがって「猫」という字を見ても。けもの偏であるから獣の一種であることはわかっても「苗」が何を意味するか見当がつきません。
 「猫」が意味が「ねこ」、音読みガ「ビョウ」あるいは「ミョウ」だとわかってもなぜ「苗」が「ねこ」に結びつくのかわからないのです。
 日本人は猫の鳴き声が「にゃあ」だと思い込んでいるので「ビョウ」と読む字を見て「ねこ」のことだと考え付かないのです。
 同じように「鴨、鴎、鶴、鵞、鴉、鶏」などの文字は鳥という字が入っているので、鳥の一種であることはわかりますが、何という鳥のことなのかは字を見ただけでは分りません。

 音読みが「コウ、オウ、カク、ガ、ガ、ケイ」だと分っても、まさかこれらが鳴き声であるとは思いつきません。
 たとえ鳴き声だとわかっても、「コウ」といえば「かも」、「オウ」といえば「かもめ」、「カク」といえば「つる」というふうには思いつきません。
 中国人の感じる鳴き声と日本人の感じる鳴き声がちがうので、漢字が鳴き声を表わしているといっても日本人には分らないのです。
 ニワトリの鳴き声をムカシの中国人は「ケイ」と聞いたのでしょうが、日本人は「こけこっこう」と聞きなしているので、「ケイ」が何を意味するかわからないで、単に文字の読み方が「ケイ」だと思うだけです。
 中国では鳥がすべて鳴き声にあわせて名前がつけられているかといえば、鷲や鷹、雀、鵜などは違いますから、字面を見ただけで分るというものではありません。
 やはりそれぞれについてその文字が何を意味しているかを記憶しなければならず、記憶の負担が大きいのです。


耳覚えの単語

2008-07-08 23:37:45 | 言葉と文字

 漢字は意味を表わしているので、知らない単語でも文字を見れば意味が分かるといわれていますが、逆の場合もあります。
 単語の意味は知っているけれども、文字を見ても文字の意味が分からないか、文字の意味と単語の意味が結びつかない場合があるのです。
 北朝鮮による日本人の拉致問題というときの「拉致」などは当用漢字でないから「ら致」などとされてもやはりわかりにくいでしょう。
 図は日常に使われる言葉で、単語の意味は分かっていて、文字も難しい字でないのに、文字の意味から単語の意味を説明しようとすると難しいという例です。

 味方の「味」という字は普通は「あじ」という意味で使われていますが、それでは何のことかわかりません。
 強盗の一味というような場合と同じ使われ方で、「なかま」の意味ですが、身方という書き方もありこのほうがわかりやすいのに、味方のほうが使われています。
 自首も「自分の首」では意味がわかりませんが、これは「首」が「白状するという意味なので、首を警察に持っていくということではありません。
 自白の白は白状の白で「もうす」の意味で「しろい」という意味ではありません。
 残酷の残は残るという意味だとは思わなくても、残酷という単語の意味自体はすでに知っているので、文字の意味から単語の意味を考えずに使ってしまっているのです。
 
 冷戦の「冷」は温度は温度のことではなく「動きのない」ことです。
 革命の意味は知っていても「革」という字に注意が向かわないのでなぜこの字が使われているのか不思議に思わなかったのです。
 「経済」はeconomyの訳ですが、経にも済にもeconomyの意味があるわけではないのに、全体としてekonomyを「経済」と書くことを知っているのです。
 報道の道も「みち」と漢字の意味を考えたりすると、意味がかえって分からなくなります。
 手紙なども現代中国語ではトイレットペーパーの意味だそうですが、そういわれてみて注意して見直せば、そのほうが自然な解釈です
 文化や科学はそれぞれ、cultureやscienceの訳語ですが文字から意味は想像できません。
 操縦は縦に操るという意味ではなく、陽道も太陽が動くではなく、野心はのの心でなく、横暴は横に暴れるという意味ではありません。

 こうした日常用語は漢字の意味を知らないままに覚えられているので、なかには読むことができても書き方がわからないものもあります。
 耳から言葉を覚えていて、漢字でどう書くかということを覚える前に音と意味を覚えているのです。
 こういう場合は音を聞いてそのまま意味を理解しており、漢字を思い起こすことで意味を理解するというようなことはありません。

 


漢字の書き分け

2008-07-07 22:49:40 | 言葉と文字

 漢字の書き分けの問題ですが、Aは正しくないのはどれかという問題です。
 答えは「室内を温める」としたもので、正しくは「室内を暖める」というふうになっています。
 広辞苑などの辞典では「暖」は気温、空気などに、「温」は身体、料理、気持ちなどに使うことが多いとしています。
 気温、空気のときは「暖」だというのはどういうことか文字そのものの意味としてそうなのか、慣例としてそうなのかハッキリしません。
 たとえば「温気」という言葉があり、これは「暖気」とおなじ意味です。
 温室は空気を暖めているのに、暖室とは言いませんし、冷蔵庫に対するのは温蔵庫で暖蔵庫とは言いません。
 冷房に対しては暖房ですからこの場合は温房とはいいませんが冷風に対しては温風で、暖風とは言いません。。
 冷水に対する言葉は温水で、暖水ではありませんが、冷水塊に対する言葉は暖水塊です。
 また酒を温めるは酒を煖めるとも書き、煖は暖と同じですから、空気や気温でなくても暖は使われています。
 暖衣飽食という言葉はあっても温衣飽食という言葉はありません。

 要するにこういう場合はこうというような原則があるようには見えないのです。
 暖は空気や気温の場合で、温は身体、料理、気持ちに使われることが多いといっても例外がたくさんあるので、字の意味から使い分けられているわけではないようです。
 そうすると慣例としてこうなっているということになるのですが、室内を温めるという風に書く人が多いのなら、しいてこれを誤りと決め付ける理由はありません。
 漢字は意味を書き分けるといっても、もともと漢字は日本語ではないので、日本語をキッチリと書き分けるということはありえない話で、書き分けといったところであいまいな部分があるのが当然なのです。
 厳密に書き分けようとするとわけが分らなくなるということになるのです。

 Bはどれが正しいかという問題で、正解は「火を付ける」だということになっています。
 点は「ちょっとつける」、着は「くっついてはなれない」で、火付けという言葉があるように、「火を付ける」が正解だというのです。
 「付ける」は二つのものを離れない状態にするということなので、火を燃えるものにつけるということから、火を付けるが正解だといいます。
 点火(テンカ)や着火(チャッカ)という漢字熟語はありますが、付火(フカ)という熟語はありません。
 「付け火」とか「火付け」というのは日本語なので、日本語としては「火を付ける」が正解ということになるのでしょう。

 しかし火を付けるのは火というものを、燃えるものにくっつけるということだとすれば、科学的には間違いです。
 火というものがあるという考え方は、前近代の考え方で、むしろ点火とか着火を日本語訳した「火を点ける」「火を着ける」のほうが理にかなっています(「火を放ける」というところまで当て字すると付と放で意味が反してしまいます)。
 漢字の意味に忠実であろうとしてこだわっても、社会常識が変化すれば漢字の元の意味にこだわらないほうがよくなるのです。
 漢字の書きわけというのもほどほどにすべきなのです。


漢字の意味の整合性

2008-07-06 22:27:41 | 言葉と文字

 白米は精白された米で、玄米は精白されていない米です。
 玄米は黒米とも書き、色が黒いから玄米と呼ぶとも言われます。
 しかし白麦は精白された麦、玄麦は精白されていない麦ですが、黒麦は蕎麦のことで黒い色をしている麦ではありません。
 玄米は黒米と同じでも、玄麦と黒麦は同じではないので、意味の統一性がないのです。
 白米と玄米のときは白米が精白されていて、より手が込んでいるのですが、白人(素人)と玄人の場合は、玄人のほうが技術レベルが上ですから、意味が逆転しています。
 さらに玄人の場合は黒人とは意味的なつながりは全くないのですから、玄イコール黒というふうに流用は出来ないのです。

 大西洋という言葉があれば、漢字的に対応する言葉としては大東洋のはずなのですが、実際は太平洋となっています。
 太平洋はパシフィック.オーシャンの訳語が太平なので、太平洋だというのですが、それでは大西洋はアトランティック.オーシャンの訳語かといえばそうではありません。
 中国が自らを中華と称したため、中国から西方を西洋としたことから大西洋という表現が出たらしいのですが、それなら太平洋は大東洋とするのが自然なのに、パシフィックの訳語を取ったというのは一貫性を欠き、しまらない話です。

 机案といえば机の上で考えたアイデアのようなイメージを持つかもしれませんが、これは単に「机」の意味です。
 「案」という字に木が使われているのは、案が本来は「机」の意味だからです。
 現在では「案」は考えとかアイデアの意味がポピュラーになっていて、「机」の意味があまり知られていないので、「机案」という熟語を見ても単に机を意味するとは思わないのです。
 案は安に通ずるのか案堵は安堵と同じで「やすんずる」の意味がありますが、思案のときは「心配する」という意味ですから、逆の意味になっています。
 漢字は意味を持っているから、漢字熟語は全体の意味を知らなくても個々の漢字の意味から推理できるといってもそうはいかないのです。

 たとえば「料理」ということばは広く一般に使われていますが、ここの感じの意味からすれば「はかりおさめる」で、単に処理するという意味でしかなくクッキングという意味はありません。
 これは「材料調理」の略なのだというような説もありますが、材料は食料とは同じではなく、調理も字義的には処理する意味で、クッキングにはなりません。
 材料調理というのは調理をクッキングとして覚えているために考え付いたあと知恵で、略し方も材調とすべきなのに料理と強引に略しているのです。
 
 このように矛盾した形で漢字熟語を記憶しているのは、熟語を全体として意味を記憶しているためで、個々の漢字の意味を組み合わせて覚えていないからです。
 漢字も漢字熟語も特定の人々によって発明されたわけではないので、きっちりと整合性があるというものではないのです。
 したがってあまり合理的に考えようとするとかえって混乱してしまうのです。


漢字の意味のズレ

2008-07-05 22:40:07 | 言葉と文字

 アサリ、ハマグリ、シジミは漢字では浅蜊、蛤、蜆と書きますが、どれも虫偏になっています。
 これらの文字を覚えたとき、なぜ虫偏なんだろうかと疑問に思った人はあまりいないと思います。
 漢字には意味を現す部分があるので覚えやすいとか、見れば意味が分かるなどといわれますが、必ずしもそうではないようです。
 虫が合わさってハマグリとか、虫に見るでシジミというのでは、納得するどころか混乱するだけです。
 ハマグリは蛤と書き表わすということを単純に覚えただけのことで、疑問を持たないまま覚えこんでいるのです。
 クジラが哺乳類なのに鯨と魚偏になっているのは、見かけが魚だったためだと納得できますが、貝類やエビ、タコ、カエル、ヘビなどが虫偏になっており、コウモリでさえ虫偏なのは、現代の日本人に馴染まない感覚です。

 漢字が偏や傍などで意味分類をしているので便利だといわれますが、社会変化によって意味分類が適合しなくなる場合もあります。
 駐車場と表記されていても。現代では馬をとめると考える人はいません。
 人が足をとめるという場合も駐という漢字を当てますが、別に馬に乗っているわけでなく足で歩いているのです。
 ウッカリ偏に主と書いてしまっている例もあるそうですが、現代の感覚からすればこの方がわかりやすいことになります。

 上の図はウソ字ですが意味からすればこう書くべきだろうという例です。
 城という字はは土偏ですが、ヨーロッパの城をイメージすれば石造りなので石偏のほうが妥当です。
 駅も現代では停車場であっても、馬つなぎの場所ではないので、車偏にでもしたほうがよくなっています。
 飛行機でも木で出来ていたのではとても危険ですから、現代常識では金偏でなければならず、輸出は日本では車でなくて船でやっているので、船偏のほうが感じが出ます。
 関西汽船、東海汽船など蒸気船は使っていないのですから、油船とでもしたほうが実態を表わします。
 大砲の弾は石ではないので、金偏のほうが良いのにそのままです。
 金偏にすると鉋(かんな)となって具合が悪いのですが、石器時代にカンナが作られていれば砲となっていたはずで、鉄砲伝来のとき金偏の鉄鉋となっていたかもしれません。。
 碇泊も碇は碇のマークからして金偏のイメージのはずですし、学校の校舎はもはや木造のものはありません。

 日常触れるものについて、漢字の表記が実情に合わなくなっている物はいくつもあるのですが、そんなことに気がつかないままこれまでの漢字をそのまま使っているというのは、字の組み立てに気を使っていないからです。
 ちょうどチンパンジーが図形文字を覚えるように、理屈ぬきに覚えて使っているので、矛盾があっても気にならないのです。
 不合理な部分があっても、また理に合わない部分が出てきても、以前のまま使っているのですから、漢字の合理性のようなことを過大に評価することは出来ないのです。


漢字の解字と論理性

2008-07-01 23:39:17 | 言葉と文字

 漢字の解字というのはなぜそのように書くのかという説明をして、漢字の意味をあきらかにしようとするもので、解字ができるということから漢字は透明性があるなどといわれることがあります。
 漢字を見ると文字の構成要素から意味がわかる、つまりその文字の構造が見えるというので透明性があるというのです。
 たとえば、漢和辞典を引けば「寺」は「寸(手)+之(シ)(あし)」という構造の文字で「時」という字は「日+寺」で日が進行することだとなっています。
 この場合は寺が「いく(進行する)」という意味で、日が進んでいくのが時だというふうに解釈されます。
 なるほどと分ったような気になりますが、日中は日が進むのはよいとして、夜は日が進まないのでどう考えるのだろうかと心配になります。

 それは良いとしても、寺のつく字では待、持、恃のように「ジッと止まる」という意味を持つ字があって、この場合は寺は「進む」という意味と反対の意味になっています。
 待は「じっと止まってまつ」という意味ですし、持は「ジッと手にとめる}とか持ちこたえるという意味です。
 痔はヤマイダレに寺で、ジッととまってとれないという意味だとかで、持病の代表が痔だったとでも言うのでしょうか。
 特はオウシの群れの中でジッと直立して目立つ種牛のことで、そこから特に目立つ、特出するという意味だといいます。

 さらに寺の部分は心の進むままを表わしたもの(叙情詩)、心の中に留まった記憶を言葉にしてとどめたもの(叙事詩)の両方の意味を含むものとして「詩」という文字があると説明されています。
 また手足を動かして使われる人という意味の侍もあります。

 これらの字は文字の意味に関連して文字の構成が説明されるのですが、文字を見ただけでは「寺」の部分がどの意味となるのか分りません。
 「いく」の意味か「止まる」の意味かそれとも他の意味か、文字自体の中には手がかりがありません。
 持のときは「止まる」の意味だということは「持」の意味が分かっているからわかるのであって、「持」ということばを知らないで字だけを見たのでは分りません。
 ヤマイダレに寺で、寺の部分が進むという意味だと考えれば、痔はガンのことかと考える人もいるかもしれません。
 ガンではなくてジつまり痔だということは、痔ということばを知っているから「寺」の部分は止まるほうの意味だと解釈できるのです。
 
 さらには音として使用されていて寺の部分自体の意味を持たない塒、等のような字もありますから、解字というのはあまり論理的なものではないということが分ります。
 漢字は一人の人が一時期に完成させたものではないので、首尾一貫性はないのですが、字源解釈などはあとからこじつけたものが多いようです。
 字源解釈自体には意味があるかもしれませんが、全体的な一貫性はないので、こうしたものを鵜呑みにすることは、論理的な思考力を失わせるので子供には勧められません。
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