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愛知見聞録1 長篠城跡 なハナシ

2024年09月22日 | 23_愛知見聞録

愛知県にある日本百名城は4つ

岡崎城、名古屋城、国宝の犬山城、

そして長篠城

 

今日は、その長篠城へ行って来ました

 

長篠城は、永正五年 (1508年)に

今川家の武将である菅沼元成が築城しましたが

戦国時代の変遷の中で、

今川家→徳川家→武田家→徳川家と

仕える先が変わっています

時代に翻弄されたんですね

 

当時の建物は取り壊されているので

お堀だけが当時の面影を残しています

 

敷地のすぐ横を飯田線が通ってますね

 

線路向こうにも、当時のゆかりの場所があるようです

 

本丸跡です

 

鳥居強右衛門 (とりいすねうえもん)

磔(はりつけ)の場所

 

長篠の戦いと言えば

織田信長が鉄砲を使って、武田軍の騎馬隊を撃破した

ぐらいしか記憶にありませんが

改めて調べてみました

 

1573年の武田信玄死去後、

後を継いだ武田勝頼は

「自分の死去後三年間は戦いをせずに国力増強に努めるように」

信玄の教えに背いて

天正三年(1575年)5月1日、

長篠城に攻め入ります

武田軍その数15000人、

対するは、長篠城主・奥平貞昌以下わずか500人の兵

それでも幾度となく防戦するも、兵糧庫を奪われ

落城寸前となった状況で

5月14日、岡崎城の家康に援軍を求めて走ったのが

鳥居強右衛門でした

 

織田徳川が援軍に応の約束を取り付けて

無事援軍依頼の役目を終えたその帰りに

強右衛門は、敵の武田軍に捕まります

味方に「援軍は来ない」と言えば

助けてやると言われながらも

「援軍は来るから、あと二、三日守れ」と叫んだことで

武田に磔にして殺されました

長篠の戦いで、織田徳川連合軍が

武田軍を打ち破ったのは承知の通り

長篠の戦いで、鳥居強右衛門の果たした役割はとても重要で、

この人が頑張らなかったら

歴史が変わっていましたね

自分の身を犠牲にしてでも自軍を守った義士に

尊敬の念で逸話が語り継がれています

 

こちらは、資料保存館

撮影不可でしたが

長篠城をめぐる、長篠の戦い前後の資料が展示されていました

 

歴史の地を直接巡ると、

歴史の史実に改めて関心がわきますね (^3^)/


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