![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/6c/c48851cbbb26a01bb83c2029dbd04bc1.jpg)
自作の1984年の舞台劇をリメークした御大。
「昨日、悲別で」が「明日、悲別で」。
「明日、悲別で」
北海道の過疎の村を描いた作品だが、今回のバージョンでは舞台は福島。
原発事故で帰郷できなくなった人たちが主役の反原発モノのようだ。
そして倉本さん、昨今は脱原発論者として北海道のメディアによく登場している。
あれ、この人は東電から法外なギャラを貰い、福島事故後も東電擁護のプロパガンダを流したんじゃなかった?
東電も経産省も文科省も学者も文化人も誰も責任を取らないし問われない。
責任は取らず転向する。
「自分たちも戦争はダメだと思ったが言い出せる空気ではなかった」
極東裁判で裁かれたA級戦犯たちの弁解だ。
あの戦争の時も芸術家たちも熱に浮かされたように軍部を礼賛して士気高揚に協力した。
国会事故調の言った日本の文化の問題か。
集団無責任体制。
事故は再発しますね、この国。
しかしこの転向ぶりは見事というか。
なかなかできることではありません。
富良野に隠遁しながら時流には乗り遅れない。
所詮カネが一番、ということか。
罪深い話ではないだろうか。
人相悪いよ。
以下、2011年5月12日の「国鉄フライヤーズ」より。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/48/4a9327c599ef77d1bf44ad1b3353c962.jpg)
脚本家の倉本聰氏の弁。
「日本人、わけても東京電力の電力供給管内に住む関東の人々は、おごりすぎていたんじゃないでしょうか。
これだけ豊かな生活を毎日享受しているんだから、事故が起きた時のことは覚悟しなくちゃいけない。
それなしに遊びほうける資格はない、と僕は思うんです。
日本人はそこを無視してしまった。砂上の楼閣ですよ。
今回ほど『砂上の楼閣』という言葉が、言葉通りの意味で現れたことはなかったんじゃないかなあ」。
ちょっと聞くと尤もらしい。
原発の危険性について無知だった事は事実だ。
無知は率直に反省すべきだ。
快適な生活も享受した。
勿論割高な独占電気代を支払ってだ。
しかし不十分な安全対策で原発を運転した東電の責任が小さくなるわけではない。
今回の原発事故を文明批判にすり替える文化人。
何だか自分は違うんだという高みからの発言も気になるなあ。
「みんなの責任」論はデジャブだ。
戦後すぐの「一億層懺悔」と同じ。
で責任の所在をあいまいにするだけだ。
連合国による裁判でしか裁かれなかった軍部という官僚たち。
大本営発表を垂れ流し国民をミスリードし続けたメデイア。
開戦の通告を怠った駐米大使館。
誰も裁かれない。
原爆や無差別空爆で数十万人の民間人と虐殺した米国。
彼らに対しても抗議するどころか、自らが「間違いは二度と起こしません」という卑屈な反省。
責任者無し、ということで丸く収めてきた。
利便性の享受と安全管理は別問題。
きちんと責任を取らせることが再発防止になる。
騙されてはいけない、と思う。
電力会社は原発擁護の言論に過大な報酬を払うことで知られている。
独占企業だから絶対に儲かる。
金はいくらでもあるんだ。
なんだ、倉本某も放射能汚染されていたのか。
玉木正之もみうらじゅんも小さな仕事(4コマ漫画とか)に500万円の
オファーを受けた。
彼らは断った。
変だと思うだろ、普通は。
まともな感覚があれば断るはずだ。
引用
東京電力株式会社
朝日新聞で倉本聰氏による童話を連載したシリーズ広告「未来の子供たちへの童話」を
2000年1月からスタートしています。
倉本先生の自然と文明の現実的なバランスを見極める鋭い洞察力や考えを、
童話という表現形態をとることにより、直截的なメッセージで伝えるよりも、
様々な想像力を働かせる余地を残した広告表現で伝えることで、「地球環境の限界を知り、
量的な満足から質的な発展への転機を図る」という東京電力の企業姿勢を、
継続的な展開によって浸透させるとともに、次の世代を担う子供たちとその親たちが
エネルギー問題や環境問題について語り合う場をつくるとともに社会全体で
考えるきっかけを提供しています。
引用終わり