ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

妙法山阿弥陀寺 Ⅱ

2011-09-09 05:00:00 | 田舎
昔の人が髪を納めたという納骨堂の横の道を通って帰っていったのは長男親子、私は元来た道を戻って、この広い境内を散策します。といえば聞こえがいいのですが、単にブログのネタ探しなのです。

                  

太子堂から戻る坂道を振り返って写しています。苔生した石畳が濡れていて、登りは心配ないのですが降りは滑りそうな気がしてなりません。木の下右手に見えているのが納骨堂です。

                 

奥の院・浄土堂への上り口に建てられた立札、浄土院の謂れ(昨日既報)と、本尊の解体修理が終わって後世に引き継ぐことができるという報告を平成11年の晩秋にしたためていますが、この辺りでは僅か10年でこのように苔生してしまうのですね。

             

最初の写真の碑文はこうです。『人民解放戦士の碑 この碑の下には、明治の末以来将来にわたる、当熊野地方の先覚者達の氏名を記した玉石を納めます。この方々は時の権力の不当な迫害に屈せず、人民の正義と真理を求め、新しい明日を築こうと命がけで努力した人々です。私どもは地球が明るい方向に廻転していることを信じ、この尊敬する先輩の遺志を忘れず後に続こうという思いをこめて、この碑を建てました。 紀州汨友会』新宮の駅前にも似たようなものがありましたね。こうまであると熊野地方って結構権力に反抗する人が多かったというのは本当なんですね。

             

真ん中にある大きな石碑には『戦士の碑』、左下の小さな黒い板を嵌めてあるのが最初の写真、そしてこちらは苔が激しく、線も細くて詠み辛いのですが、署名の荒畑寒村が読めるので、検索しました。『人のため 世のため 立ちて 戦いて 仆れし友 豈忘れめや』とあるのです。

こういう碑までを境内に置いている阿弥陀寺もたいした度量だと思います。

             

初代紀州徳川家藩主・徳川頼宣が勧請したという荒神堂、屋根瓦には三葉葵の紋がありました。今年は11月23日に三宝荒神憤怒像がご開帳されるそうです。

             

朝来た時は閉じられていた本堂の扉が開けられていました。徳川家の家紋が所々に見られ、このお寺が徳川家との深い関係を持っていることが窺われます。

             

このお寺は天台宗なのか、真言宗なのか、昨日も判断がつきませんでしたが、この線香の灰には『南無阿弥陀仏』の字が・・・つまり浄土宗なのかとも思ったりしてしまいます。真言宗だったら『南無大師遍照金剛』の字が残りそうなものです。

この際チョット調べてみました。徳川家の菩提寺である上野・寛永寺は天台宗、芝・増上寺は浄土宗で、徳川家にして宗旨がバラバラ、このお寺の宗派を見極めるポイントにはなりませんでした。

                  

実はこの妙法山阿弥陀寺は後で調べると、真言宗のお寺なのでした。真言宗だったらここは大日如来か、空海の修行像なのでしょうが、阿弥陀寺故の阿弥陀如来なのでしょうか?考えれば考えるほど難しいお寺です。

             

もうそろそろ帰らねば、こんなところで小学生は何をして良いのやら、何を考えてみるものやら全く分らないでしょうからね、などと思いながら帰りかけていると、左側に開けたところがありました。

             

ここからの眺めも晴れておれば素晴らしかったのだろうと思われて仕方ありません。ただ台風12号が荒れ狂った後の今は、水の被害で道路も寸断されおそらく行くことは叶わないだろうと思うけど、登ってみれば下界の景色は一変しているのかも知れません。

             

そうこうしているうちに「いつまで居るン?」と帰りを促す電話、ケータイっていうのは、便利なのか、逆に束縛を受けるものなのか、私はどちらかと言うと後者の方に感じています。南無阿弥陀仏!

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