6日の金曜日の夕方に、ふりかけさんから水沢上(みぞれ)の大崩壊地の跡に行こうと電話が。私は最初、坂本峠を郡上方面に下ると吉田川沿いに見える崩壊地のことと思い、何であんなところへ?と聞いたら、「明宝スキー場からのびる林道から少し入ったところに、戦国時代の大地震があった時の崩壊の跡地と思われる地形がある」いう一言。
これはなんだか面白そうと思い立ち一緒に出かけることにしました。
主体性の無い私は朝の6時に、早朝散歩クラブメンバーのふりかけさんとTさんと合流するまで地図すら見ておらず到着してから目を通しました。
地図に目を通すと明らかに不自然な平坦な窪地上の地形となっていて、どんな世界が広がっているのだろうと好奇心が湧きたってきます。
その一方で、行ってみたらひょっとしたらただの平な地形だったりして?という後ろ向きな考えも浮かんできます。
まぁ、行ってみれば分かるかと複雑な気持ちを抱えたまま現地に向け出発したのでしたのでした。
青色で囲ったところが目的地です
現地に向かう途中に、崩壊によって谷がせき止められ昔池があったという話もしながら一体全体どんな地形が広がっているのだろう?という期待感に胸を膨らませながら地図を頼りといっても、ふりかけさんとTさんのルート工作?にいつものようにくっついていくだけといういい加減さでしたが・・・
地図を頼りに現地に行ってみると不自然な窪地が点在していて異様な雰囲気です。
明らかに水による浸食では出来ない地形で今まで見たことが無い世界だったので帰宅後でネットで色々と調べてみました。
その結果、江戸時代の天正13年11月29日(1586年1月18日)の時に大規模な崩壊が発生し水沢上の金山という集落を飲み込み濁り池と長池という2つの池を作ったということが複数のサイトから読み取ることができました。
池の存在は郡上市白鳥町にある白山文化館の展示の古地図にあるとふりかけさんとTさんが言っていた話と一致します(私は白山文化館へは何回か行っていますがその展示に気が付いていません・・・)のですが、ただの言い伝えでしか無く少々消化不良気味だったので更に調べ続けたところ国土地理院のサイトに「1:25,000都市圏活断層図 高山周辺の活断層「高山東部」「高山西部」「高山西南部」解 説 書」という論文を見つけました。
その中に水沢上の大崩壊地のことが書かれていました。(下段に引用文を掲載しておきます)
そこには吉田川の最上流部(西俣川)の南岸から西岸に崩壊崖の上の標高1,000m付近に平坦地があると記載されています。
まさに早朝散歩クラブで行った現地のことが書かれていました。
その崩壊はかなりの規模で崩壊した面積は98万m2(98ha)で崩壊した土量は2,300万m3に達したとと推定されているのです。
それだけの土砂が崩壊してしまった跡を散策していたことが分かり愕然としました。
今は崩壊の時にできた池は枯れてしまっていますが恐らく文献で推察すると現在の明宝スキー場の駐車場のあたりです。
何回か訪ねたところですが、あの平坦地は山体崩壊して流出して堆積したところなんですね。
今はスキーや様々イベントで大勢の人が訪れますが、かつて池があって金山という集落が埋まっているなんてことを知っている人は限りなく少ないだろうと思います。
まぁ、そんなことを広くアナウンスした来場者が減ってしまうから知る人ぞ知る存在のままとなるのだろうなと思いますが地震というものの恐ろしさをリアルに感じる結果となったのでした。(管理人)
写真だと、ただの紅葉の写真です・・・実際に歩いた時の感覚は写真に現れずでした。
<「1:25,000都市圏活断層図 高山周辺の活断層「高山東部」「高山西部」「高山西南部」解 説 書」からの引用>
5)地すべり・崩壊地
地すべりは,地表を構成する物質に過剰な水が加わり,斜面のバランスを失い,外部からの衝撃(地震動など)が加わって,自重も含めて土塊として下方に移動する現象(マス・ムーブメント)の一種である.広義には,山崩れや岩屑流なども地すべりに含めるが,一般には,明瞭なすべり面をもち,土塊の移動に継続性があるすべり現象を地すべりと考える傾向がある.これらの広域的な分布や性質については,清水他(1999,2000)で取り扱われているが,本図幅では明瞭で大規模なものに限って選定して図示した.
「高山東部」図幅では,V字状をなす河谷斜面の上部や下部が大きく崩壊して,谷底を堰き止めている事例がいくつか認められる.
「高山西部」図幅では,宮川断層や他の活断層沿いの斜面下部に大きな崩壊地が散点的にあるが,山地全体は深く開析されて,起伏や出入りに富む複雑な斜面をしているので,地すべりや崩壊地は相対的に少ない.一方,「高山西南部」図幅では,図北西部・中央部・南部にかなり多く認められ,規模も相対的に大きい.河谷を堰き止めて,谷底平野が急に狭まり,その上・下流側で河床勾配の変化や,沖積面などの発達状態が異なる場所も認められる.
特に明瞭な崩壊地形は岐阜県郡上市(旧郡上郡明宝村)水沢上(みぞれ)付近にみられる.これは実に大規模で,かつ新鮮な崩壊地形であり,すでにいくつかの論文や著書で紹介されている(飯田,1987;井上・今村,1998).この水沢上崩壊は,長良川支流の最上流部吉田川(西俣川)南岸から,その西岸に位置している.
比高約百mの滑落崖は北側を向いており,北方へ移動した崩壊ブロック上には標高千m内外の平坦地があり,その中央部は閉じた凹地をなす.
崩壊の発生時期を,恒石(1980)や飯田(1987)は1586年天正地震(あるいは白川地震)時としている.
また,この崩壊した面積は約98万m2,推定される崩壊土砂量は約2,300万m3に達する(井上・今村,1998).崩壊土砂は対岸(左岸側)の低地まで一期に流下し,土砂が北-東側の谷底部にも認められる.さらに,崩壊土砂によって天然ダムが形成された.
飯田(1987)によれば,濁り池と長池と呼ばれる2つの池が形成されたと言う.また,対岸の斜面上にある標高約910m付近には,「婆岩」と呼ばれる独立岩尖塔があり,その岩に登った人が助かったという伝承がある.
このことから,天然ダムの高さを,婆岩直下だと仮定すると,堰止高は約60mに及ぶと考えられる(井上・今村,1998).水沢上には,鉱山施設と家数60~70軒があったと言われ,その全てがこの時の崩壊によって埋積されたようである.
現河川は両岸にある崩壊土砂を開析しており,河成段丘状の高まりや小丘が形成されている.下流側の東岸が上流に比べて高いので,ここで河谷の塞き止めが起こり,上流側谷底部に堆積が生じたと考えられる.
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地図に目を通すと明らかに不自然な平坦な窪地上の地形となっていて、どんな世界が広がっているのだろうと好奇心が湧きたってきます。
その一方で、行ってみたらひょっとしたらただの平な地形だったりして?という後ろ向きな考えも浮かんできます。
まぁ、行ってみれば分かるかと複雑な気持ちを抱えたまま現地に向け出発したのでしたのでした。
青色で囲ったところが目的地です
現地に向かう途中に、崩壊によって谷がせき止められ昔池があったという話もしながら一体全体どんな地形が広がっているのだろう?という期待感に胸を膨らませながら地図を頼りといっても、ふりかけさんとTさんのルート工作?にいつものようにくっついていくだけといういい加減さでしたが・・・
地図を頼りに現地に行ってみると不自然な窪地が点在していて異様な雰囲気です。
明らかに水による浸食では出来ない地形で今まで見たことが無い世界だったので帰宅後でネットで色々と調べてみました。
その結果、江戸時代の天正13年11月29日(1586年1月18日)の時に大規模な崩壊が発生し水沢上の金山という集落を飲み込み濁り池と長池という2つの池を作ったということが複数のサイトから読み取ることができました。
池の存在は郡上市白鳥町にある白山文化館の展示の古地図にあるとふりかけさんとTさんが言っていた話と一致します(私は白山文化館へは何回か行っていますがその展示に気が付いていません・・・)のですが、ただの言い伝えでしか無く少々消化不良気味だったので更に調べ続けたところ国土地理院のサイトに「1:25,000都市圏活断層図 高山周辺の活断層「高山東部」「高山西部」「高山西南部」解 説 書」という論文を見つけました。
その中に水沢上の大崩壊地のことが書かれていました。(下段に引用文を掲載しておきます)
そこには吉田川の最上流部(西俣川)の南岸から西岸に崩壊崖の上の標高1,000m付近に平坦地があると記載されています。
まさに早朝散歩クラブで行った現地のことが書かれていました。
その崩壊はかなりの規模で崩壊した面積は98万m2(98ha)で崩壊した土量は2,300万m3に達したとと推定されているのです。
それだけの土砂が崩壊してしまった跡を散策していたことが分かり愕然としました。
今は崩壊の時にできた池は枯れてしまっていますが恐らく文献で推察すると現在の明宝スキー場の駐車場のあたりです。
何回か訪ねたところですが、あの平坦地は山体崩壊して流出して堆積したところなんですね。
今はスキーや様々イベントで大勢の人が訪れますが、かつて池があって金山という集落が埋まっているなんてことを知っている人は限りなく少ないだろうと思います。
まぁ、そんなことを広くアナウンスした来場者が減ってしまうから知る人ぞ知る存在のままとなるのだろうなと思いますが地震というものの恐ろしさをリアルに感じる結果となったのでした。(管理人)
写真だと、ただの紅葉の写真です・・・実際に歩いた時の感覚は写真に現れずでした。
<「1:25,000都市圏活断層図 高山周辺の活断層「高山東部」「高山西部」「高山西南部」解 説 書」からの引用>
5)地すべり・崩壊地
地すべりは,地表を構成する物質に過剰な水が加わり,斜面のバランスを失い,外部からの衝撃(地震動など)が加わって,自重も含めて土塊として下方に移動する現象(マス・ムーブメント)の一種である.広義には,山崩れや岩屑流なども地すべりに含めるが,一般には,明瞭なすべり面をもち,土塊の移動に継続性があるすべり現象を地すべりと考える傾向がある.これらの広域的な分布や性質については,清水他(1999,2000)で取り扱われているが,本図幅では明瞭で大規模なものに限って選定して図示した.
「高山東部」図幅では,V字状をなす河谷斜面の上部や下部が大きく崩壊して,谷底を堰き止めている事例がいくつか認められる.
「高山西部」図幅では,宮川断層や他の活断層沿いの斜面下部に大きな崩壊地が散点的にあるが,山地全体は深く開析されて,起伏や出入りに富む複雑な斜面をしているので,地すべりや崩壊地は相対的に少ない.一方,「高山西南部」図幅では,図北西部・中央部・南部にかなり多く認められ,規模も相対的に大きい.河谷を堰き止めて,谷底平野が急に狭まり,その上・下流側で河床勾配の変化や,沖積面などの発達状態が異なる場所も認められる.
特に明瞭な崩壊地形は岐阜県郡上市(旧郡上郡明宝村)水沢上(みぞれ)付近にみられる.これは実に大規模で,かつ新鮮な崩壊地形であり,すでにいくつかの論文や著書で紹介されている(飯田,1987;井上・今村,1998).この水沢上崩壊は,長良川支流の最上流部吉田川(西俣川)南岸から,その西岸に位置している.
比高約百mの滑落崖は北側を向いており,北方へ移動した崩壊ブロック上には標高千m内外の平坦地があり,その中央部は閉じた凹地をなす.
崩壊の発生時期を,恒石(1980)や飯田(1987)は1586年天正地震(あるいは白川地震)時としている.
また,この崩壊した面積は約98万m2,推定される崩壊土砂量は約2,300万m3に達する(井上・今村,1998).崩壊土砂は対岸(左岸側)の低地まで一期に流下し,土砂が北-東側の谷底部にも認められる.さらに,崩壊土砂によって天然ダムが形成された.
飯田(1987)によれば,濁り池と長池と呼ばれる2つの池が形成されたと言う.また,対岸の斜面上にある標高約910m付近には,「婆岩」と呼ばれる独立岩尖塔があり,その岩に登った人が助かったという伝承がある.
このことから,天然ダムの高さを,婆岩直下だと仮定すると,堰止高は約60mに及ぶと考えられる(井上・今村,1998).水沢上には,鉱山施設と家数60~70軒があったと言われ,その全てがこの時の崩壊によって埋積されたようである.
現河川は両岸にある崩壊土砂を開析しており,河成段丘状の高まりや小丘が形成されている.下流側の東岸が上流に比べて高いので,ここで河谷の塞き止めが起こり,上流側谷底部に堆積が生じたと考えられる.
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