おはようございます。
教科書がやっとどうにかでき、売店に並びました。大手の書店にも。私は原稿料から微々たる必要経費を引き算し、残った分で自分の新刊を色々なところで購入しました。もちろん、金額的に有利だった出版社から一番買いました。色々なところを訪問するとき、自分の本を手土産にしました。お茶菓子代わりでした。お菓子を買うなら、その分、自分の本を買って、売れ筋の本のように見せたかったからです。売れ筋演出は出版社の手だと富士通の先輩から聞いていました。でも、私の本は売れ筋になりませんでした。効果のある冊数は、私が買えた冊数の100倍程度かも、と思いました。大手と個人は勝負になりません。
早速、新学科長に本を届けました。彼女は著者略歴を見て、富士通にいたことがあるのですね。どのようなことをしましたか、などなど。私はシステム開発、周辺機開発、小型機開発に所属した、と。色々ある大会社の部門の中で、研究ではなく、各種の技術開発担当部だけに所属していたのだと初めて気が付きました。面白い仕事をさせていただいていた、誘ってくれた師匠、中村洋四郎様のお陰だと話しました。
すると、学科長は私も富士通の重役の奥様、芦屋婦人を知っている。東大の看護学校の同級生、だと言いました。私は関西工場に勤務していた。富士通の営業関係会社は何度か訪問した、あったことがあるかもしれません、などなど、いろいろ話しました。似た話はあるものだ程度で、気にかけていませんでした。
連休明けに、富士通高専を訪問し、当時は校長だった師匠にほやほやの本を届けました。概要を口頭で説明しました。とても感心してくれました。読むよ、読んで感想を伝えるから外で食事をしようなどなど、とても喜んでくれました。富士通の同僚や先輩や功績の話はほとんど書いた覚えはありません。むしろ腐していたかもしれません。家電と事務機だけだった会社の話が主でしたので。システムの天才から褒められるとは思っていませんでした。
後日、ホテルで食事をご馳走になりました。そして師匠は言いました。うちの奥さんは看護婦だった、東大の看護学科、だから師匠は生きていられたのだと。それ以外、その日何を話したか良く覚えていません。面談が終わり、奥様が車で登場。奥様にお礼を私は言いました。そして看護学校だったのですね。今の大学の学科長も看護学科卒です、と。すると、奥様は口を押さえてコロコロと笑い出しました。実は私は彼女と同級生です。この間も同窓会でお会いした、芦屋に住んだことはありますが、芦屋婦人ではない、そうです。何と何とびっくりしました。本当に奇遇でした。
そして翌週、大学に行ったとき、学科長にこの話を伝えました。彼女も、似た話があるものだと思いながら聞いていた、でもまさかと思い、言わなかったそうです。
実は本に纏わる奇遇は他にも2つあるのですが、一番の奇遇を書けたので、これで奇遇の紹介は終わります。次回から本の内容紹介にやっと戻れます。今日はここまでにします。