蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

続ラカンとレヴィストロースの接点3 Finalité と精神分析構造主義の下

2022年04月22日 | 小説
(4月22日)ラカンが探り出したレヴィストロース社会の形成原理は « une nouvelle fonction »であった。この語を受けてラカンは自身の用語 « La fonction symbolique »を持ち出し精神分析の概念は社会にも応用できると我田引水気味に展開する。
<La fonction symbolique n’est pas nouvelle en tant que fonction, elle a des amorces ailleurs que dans l’ordre humain, mais il ne s’agit que d’amorces. L’ordre humains se caractérise par ceci, que la fonction symbolique intervient à tous les degrés de son existence. (41頁)
この象徴化能は目新しいものではない。人秩序の中で、と言ってもその原初においてのみ、それはきっかけとして働いた。ともかく人秩序なるものの形成とは象徴化能が社会いたるところで介在しなければならない。
<Dès que le symbole vient, il y a un univers de symboles. Si petit que soit le nombre de symboles que vous puissiez concevoir à l’émergence de la fonction symbolique comme telle dans la vie humaine, ils impliquent la totalité de de tout ce qui est humain>(42頁)
象徴を獲得に至れば即、そこには象徴の宇宙が立ち上がる。象徴化能の泉の湧き出し(前述)に認められる象徴の数がわずかであっても、人活動の全体に象徴が働く。
注:単数のsymbole及びla fonction symboliqueを人の持つ根源的思考能力としてtranscendantal(先験、カント用語)と対比させる。複数のsymbolesはレヴィストロース構造主義に於けるidée(思想)に当て、これが実はラカン用語imagination(空想)に当たると理解する。
この時点でラカンは単数の象徴化能と複数の象徴(実は空想)を使い分けるまでに思考を巡らせていない。後の段落でHyppolite(哲学者、高等師範学校長、仏国翰林院など歴任)から「fonction symboliqueとは根源の思考transcendanceだろう。ここを起点とする思索手順にimaginations空想が派生するのだろう」と指摘され「痛いところを突かれたな」と慌てるも「bien sûr, c’est la présence dans la absence…もちろん、それは無いようであるのだ」と言い逃れし切り抜けた(続のないラカンとレヴィストロースの接点で解説) 。PDF図表にてラカン精神分析とレヴィストロース構造主義の接点を改めて確認しよう。





ラカンセミナー今回議論の皮切り役を努めたMannoniの指摘は「社会は精神âmeを具有する」。この発言をラカンが「finalité論に繋がる」否定した。社会は主体sujetではない、象徴化能を入れる容器であるとの立場となる。社会を精神と言い換えればラカン精神分析の理解に近づく。この考え方とは異なる思想に前記のfinalité論が挙げられるが、それは「精神」に機械的運動性を内包するとなる。ゲシュタルト心理学が代表を目される。レヴィストロースはマリノフスキー(ポーランド出身の民族学者)を「機能主義」として批判している。社会を構成する要素には何らかの機能が付随するとの主張である。ここにもfinalitéが伺える。ラカンがゲシュタルト心理学を否定するのと同じ歩調を取ることに留意しよう。
本章の題は「L’univers symboliqueシンボル化の宇宙」。これまでfinalitéを大いに論じたが、象徴化能(fonction symbolique)を究極律(finalité)の解釈(私見)と絡めて、連続投稿の最終段として論じたい。
究極律(finalité)とは何か;
概念はギリシャに始まる;
(以下は各種情報のごった煮、話半分としてくれ)アリストテレスは究極のなんとか、例えば 美とか究極の肉体« finalité physique »を提言した。この概念は中世に引き継がれ究極のナニガシ(騎士道、純愛、王女など色々あった)が語られていた。これは哲学(形而上の論法)の範囲ではない。美学、信仰、思い込みにとどまっていた。デカルトにこの概念は「うざい」と即断否定され、一時日の目を見なかった。
カントの新解釈で復活した。混乱していた概念を3に分けた。1アリストテレスを踏襲する「目に見える究極律(extrinsèque)」2目に見えない(intrinsèque)3継続する(sans fin)。
1を美学、目的論に結びつけると究極の美女は「見えるfinalité」に当たる。2の見えないがカントの新展開で「システム内部のからくり、それが起動してある方向に進む」、けれどその仕組は見えない。美女を形成する人体システムの動きと言える。3の終わりなきで美女とは実は確定判断ができない。感性でも理性でも決めつけられない。靖子と文子はどっちがキレイなんて美女論争は終わりなく続く。この事実をして終わりのない究極律とする。本投稿第1回(4月18日)で究極を相と律に分けたが、実はカントはとっくにそれをintrinsèque 、extrinsèqueに分解していた。
ラカン、Anzieuらは当然カントの解釈を知っている、影響を受けている。1~3の規定で究極を論じていたはず。特に2を社会の主体(意思、女は少なくて良し)として1の見える結果(男女比の不均衡)につなげる(これがAnzieuの解釈)。しかし社会が主体になってはラカンが困る。なぜなら社会の究極律「見えない精神、見える結果」が精神分析に転移してしまうとラカン論と対立する。レヴィストロースにしても、そうした目的論を標榜してないからラカンがnouvelle fonctionを強調し、ついでに自説L’univers symboliqueシンボル化の宇宙を開陳したのである。こう考えています。
続ラカンとレヴィストロースの接点3 Finalité と精神分析構造主義の下の了(4月22日)次回は個と集団4月25日予定。
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