蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

続ラカンとレヴィストロースの接点2 Finalité と精神分析構造主義の上

2022年04月21日 | 小説

(4月21日)前回(18日)最後の行、« une dynamique naturelle » 自然的な動態、この文脈の中でこうした語が用いられると « finalité » 究極律が浮かび上がる。親族構造を語るレヴィストロースを理解するに自然を持ち込んだら不能、これが文意になるとして、社会は自然の宿命(dynamique naturelle 、究極相の言い換え)とは「無縁」、ここ「自然と無縁」にラカンが落ち着かせた。
社会を統治するのは文化であって「親族の基本構造」主題がここにある。社会での究極率finalitéの否定からからズバリ核心「文化」に切り込んだラカン先生の論法はさすが、脱帽。
「親族の…」序章でレヴィストロースは親族構成を「系統」対「同盟」に分けた。この峻別を通して系統内部婚姻を近親婚と忌み下げ、その間柄の婚姻を認めない通婚の「文化」制度を作った。嫁婿は外部社会から手当するしかないが、行き当りばったりで息子と娘を交換する仕組みを文化と呼ばない。交換する相手部族を特定することで同盟が形成される。系統同盟を骨格とする社会がここに成立するとの主張です。
(この仕組が族民社会に定着したのは新石器革命以降とレヴィストロースは主張する。すると彼が述べる人社会の「自然」とは旧石器以前の状態を指す。自然を猿社会と想定してはならない。後の作品「野生の思考La Pensée Sauvage」で人は新石器革命以降に思考(具体科学)を獲得したとする主張とラカンの歩調が合う)
社会に意思が付随し自らが設定する目的(これが究極律)へまっしぐらに、この目的論をレヴィストロースは排します。ラカンの語る家族親族を系統同盟をと読み替えて、社会文化の萌芽の仕掛けと解釈する彼の指摘はまさに正鵠を射た。
彼の本貫の精神分析学では、
本書の主題は自我 « le moi » の確立。この内容でレヴィストロースを引用する目的は構造主義による社会形成と、精神分析の自我の確立が同じ流れをたどるとの主張を正当化するためと見る。人の空想(imaginations)、その経時の流れを共時として溜め込んだ蓄積に、精神が乗り込んで自我(le moi )を確立する。この考えを展開する過程でレヴィストロースの社会形成論に立ち寄った、これが理由かと判断します。


写真はセミナー第一巻 フロイト診断技術の著作について


レヴィストロース論を続ける;
「近親姦を実行したとて人はなんの嫌悪感も抱かない」おいおい、ムキになるなよ。私が言ってるのでないよ、レヴィストロースの意見なんだ-のアドリブが入って(41頁)、意識のみならず「生物学的に見ても社会が族内婚(系統内婚姻、近親婚)を実施しても何ら悪影響は発生しない。遺伝劣化が生まれても、いずれ排除される」の注釈が続く。この言葉は「新石器革命と同時に栽培植物と家畜の最適化が進んだ。品種改良とは近親交配の賜物である。新石器人はこの利点を熟知しながらも、人の近親婚は厳しく禁止する。人と家畜の婚(交配)の逆進性を説明するのは「文化」でしかない-と主張する「親族の…」序章と対比できる。
<Il n’y a aucune déduction possible, à partir du plan naturel, de la formation de cette structure élémentaire qui s’appelle l’ordre préférentiel>(同)好ましさの規則(婚姻で優先される間柄など、社会状況でのいろいろな選択に際し優先を定める規則)と呼ばれる(社会の)基本構造の形成因の源を、自然の摂理に探ったところでいかなる説明にも行きつかない。
« plan naturel » を自然の摂理と訳した。前回投稿では « science de nature » 自然科学をゲシュタルト心理学をほのめかすとして排撃した。この説では心理を「自然事象の総体」として捉え、その総体は究極相に向かう…となる。ここ「総体」としての機動に破綻が認められる―これがラカン主張である。返す刀で文化にも「究極相」など無いとAnzieuらを諭した。では文化とは一体何か、更にラカンを聞こう。
<Et cela, il le fonde sur quoi ? Sur le fait que, dans l’ordre humain, nous avons affaire à l’émergence totale englobant tout à l’ordre humain dans sa totalité―d’une fonction nouvelle>
この一節は話し言葉で構成されている。文頭のcelaは文語体では見かけない、「今度はこれだ」とした。続くil(彼ないしそれ)は直前の男性単数(人ないし物)を受ける。「好ましい規則」が(文章の並び順で)それに当たるが、かなり前に置かれるレヴィストロースとした。会話体であれば「代名詞の飛越し紐付け」が許されるのだろう(仏文の範囲なので自信はない)。そうすれば続く « le» に「 好ましい規則」を当てはめられ、話の筋が見えてくる。細かい差異にこだわるが解釈に繋がるのだ、許せ。
上引用の訳:今度はこれだ、彼(レヴィストロース)はそれ(優先規則)を何の上に形成しているのか。そこを語ると、人の規則をそれごとひっくるめて抱き込む泉の湧き出しみたいな総体があって、私達はそれと常に関与している(人が社会に入り込む)、そうした事象の中で優先規則を形作っているのだ。これがとある新しい力(une nouvelle fonction)である。

続ラカンとレヴィストロースの接点2 Finalité と精神分析構造主義の上の了(4月21日)次回は22日を予定。
お詫び:昨日はアベノマスク到着を急遽入れました(渡来部寄稿)。投稿予約していた本稿は本日、1日遅れとなりご迷惑をかけました。

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