蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

続ラカンとレヴィストロースの接点4 個と集団 最終回

2022年04月25日 | 小説
(2022年4月25日)本連続投稿の初回(続のない接点1、3月18日)で予告した提題の4番目は:個と集団は「全く同一」。このラカン指摘に対するレヴィストロースの返答は;
<C’est bien là qu’il y a eu hier soir quelque flottement dans la réponse de Lévi-Strauss à ma question. Car, à la vérité, par un mouvement fréquent chez des gens qui introduisent des idées nouvelles. Une espèce d’hésitation à en maintenir tout le tranchant, il est presque revenu à un plan psychologique>(43頁)
昨夕の話だ、私の質問に対した時のレヴィストロース答えにはなにやらぎこちなさが感じられた。 それもその筈、新しい理論を導入しようとする人は、時にこんな動きを見せるものだ。理論の刃先を研ぎつめて振り上げる。こうした状況下でも一種の躊躇を感じる、心理学理論が彼にも応用される証明ですね。
この一節でラカンの元(パリサンタンヌ病院)にレヴィストロースが訪ねたと分かる。セミナー日付は12月1日とあるから1954年11月30日。きっとレヴィストロースは構造主義そして執筆中の悲しき熱帯を語ったと思われる。そのレヴィストロースを「ダンビラかざして寄らば斬るぞ」の戸惑いと描写する。ラカン先生、余裕があります。レヴィストロースへの質問とは;
<Quelle solution pourrait-il attendre du mot de collectif en cette occasion, alors que le collectif et l’individuel, c’est strictement la même chose ?>集団と個は厳密に同一であるとの指摘に対して、集団なる語はいかなる意味合いになるだろうか。


レヴィストロースに「集団と個は同じじゃよ」と講釈したラカン(写真はネットから)


質問するラカンが答えを用意している。集団と個を同一とする「とある一つの起動因」があって、それが象徴化能 « Fonction symbolique»とラカンは主張しこの持論を展開する、レヴィストロースの返答を待たずに。まさにセミナー教授のノリです。
<Si la fonction symbolique fonctionne, nous sommes à l’intérieur…>象徴化能 が起動すると我々はその内部に潜り込む。(fonction symboliqueの議論は前回22日投稿と重なる部が多いが、文脈の流れに沿って紹介するのでご容赦)
人が思考の内部に入ってしまう、どのように理解するのか。
<Dans une grande partie des problèmes qui se posent pour nous quand nous essayons de scientifiser, c’est-à-dire de ,mettre un ordre dans un certain nombre de phénomènes, au premier plan desquels celui de la vie, c’est toujours en fin de compte les voies de la fonction symbolique qui nous mènent, beaucoup plus n’importe quelle appréhension directe>(43頁) 例えば生命現象など色々と重なる事象を一つの秩序にまとめる、これをして科学的手順と言えようが、このときの問題とはいかなる直接理解よりも、象徴化能を通して、この科学的手順を用いることが多いのである。
直接理解とは事象、現象をありのままに解析する「科学的」手法。解析にはそのありのままは不要で、根源となる思想を探りそれを通して論を進めるべきとラカンが諭す。
これまでは社会を採り上げていたが、この文で精神に視点を移した。すると前文の<思考の内部に>が紐解ける。それを精神分析で語る深層心理と理解する。患者は自らの心の内部に沈みこむ。そこは象徴化能の島である。故に精神分析医はその現象を用いて患者心に肉薄するーと読んだ。しばらく精神分析の技法説明が続くので、その文節を飛び越える。
ここでHyppoliteが質問する。精神分析論から抜けでて、形而上の切り口を見せるから大変興味深い。

<Vous avez opposé l’univers au générique, en disant que l’université était liée au symbolisme même, à la modalité de l’univers symbolique crée par l’homme. Mais c’est une pure forme. Votre mot « université » veut dire qu’un univers humain affecte la forme de l’université, il attire à une totalité qui s’universalise>(47頁)あなたは宇宙(文化)と生殖界(自然)を対峙させた。宇宙は象徴に、すなわち人が形成した象徴宇宙の具体形となるが、それに繋がるとの言い方を採った。それは単に形を述べているだけではないか。あなたの語る宇宙性とは人のとある宇宙が、宇宙の形体に影響する。その宇宙の形体とは何がしかの総体があって、それは宇宙化する方向を持つ、それだけではないのか。
精神分析技法を云々する議論から、禅問答に昇華してしまった。クセジュ文庫を思わせる迷訳ではなんのことか分からない。Hypolitteの言い分を部族民なりに解釈すると;自然と文化を対峙させるのは当然だ、そこに象徴化を持ち込んでいるが、これは文化を熟成させるだけのもので、そこに特異性はない―と。
ラカンの返答<C’est la fonction symbolique>それが象徴化能である。
Hyppolite<Est-ce que ça répond à la question ? Ça nous montre simplement le caractère formel que prend un univers humain>それは答えになっていない。あなたの言い分とは人の宇宙が採るべき形式的性格を語っていると思えるが。「宇宙が採るべき...」の言はHypolitte がラカン説を延伸解釈している。いわば助け舟だったのだが、ラカンはその示唆には乗らず、
<形式的とおっしゃたがそれは2の意味がある>とかわす、1にformalisation mathématique数学的形成を例に出す。「数学的...」を気にすることはない、ラカン一流の修辞でこれが一般に膾炙される形式的。彼は2番目の概念を出す<Au sens gestaltiste du terme, par contre, la forme, la bonne forme, est une totalité, mais réalisée et isolée>ゲシュタルト哲学ではこれとは逆で、形とは良い形でしかない。良い形は必ず実現する、かつ孤立している。
Hyppolite<Est-ce ce second sens qui le vôtre, ou le premier ?> その2番目だがあなたの解釈なのか一義のそれか。
ラカン<C’est le premier, incontestablement>否定の余地もなく第一義である。持説の水平線を広げるために「自然哲学と対立するのだ」と大見得を切る。この鼻っ柱の強さがラカンの持ち前なのです。
とうとう出てきたゲシュタルト思想。ラカンはそれを形の哲学とし、形は目的を必ず達成する「良い形」であるとした。自然哲学la philosophie de nature(集体は一元で構成される)、自然的心理学(Mannoniの質問をラカンが遮って否定的に答えたゲシュタルト心理学、これを指すと前投稿で推理した)、究極律finalité目的論の、ラカン思考の中での繋がりが明確となった。いずれもそれらを否定するのだが、その理論背景に人が形成し関与する象徴化能をおいた。
この心理分析の思想を社会に置き換えてレヴィストロースに「個=精神と集団=社会、は同一だろう」迫ったのが1954年11月30日だった。直接の返答は結局、本セミナーで叙述されていない。そのことをして « flottement »戸惑いを当てたのかもしれない。
続ラカンとレヴィストロースの接点4 個と集団の了(2022年4月25日)最終
(続接点は4をもって最終とする。近親姦淫に対する両者の違いが残るが、これは別の投稿で語るつもりです。しばらくは「読む楽しみ=徳永 恂」に専念します。蕃神)

コメント
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