蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

狼少年ロベール Le loup ! Le cas de Robert 5

2022年09月07日 | 小説
(2022年9 月7日)ラカンが持ち込んだフロイト用語は
1 « refoulement » 抑圧 2 « surmoi » 上自我 3 « idéal du moi » 理念の自我
各用語への部族民解釈を述べたい。さらにこの解釈を土台として、精神の裏には心理の構造が潜むと喧伝されるラカン精神分析学に、レヴィストロース構造主義の手法を借りこの肉薄すると試みる。
少し脇道に迷うが構造主義とはで一言述べたい;
実態と思想が対峙する。見える触れる実態は客体であって、見えない思想が主体、本質。これをまとめると;
1 異質性状の2者、
2 主体客体の対峙関係
上記1,2がレヴィストロース主唱となる構造主義である。構造を扱うが「主義」にならない例は:建築物を設計する技師は構造設計に従事する。構造と建築物は同質である、両者とも位置の思想(建築)に統合され、対峙していない。建築家は構造主義者ではない。中根千枝は「縦社会の日本」を執筆した。社会構造の解析と云える。縦構造というモノがあって職位者がそこに収まるという現実を記したが、この構造は何とも対峙しない。異質の主体(レヴィストロースにしてそれは思想)を解明する論調には進んでいない。そこに縦構造が設えられていて、人々が己の位置の梯子段に座っているだけである。故に中根は構造主義者と呼ばれない。
ラカン構造主義はレヴィストロースのそれに近似すると人は解釈する。部族民にして同意。実態は「見える聞こえる人の言動」、対峙する異質は「精神のうごめき」としよう。言動が客体、精神が主体である。
以上を前提として、ラカン用語の解説から始めよう。
1 « refoulement » 抑圧。


高等師範学校で開催されていたラカン精神分析セミナー。本日(1954年3月10日)は「精神は3の心理の構造体なのじゃ、それら規範同士の葛藤の表現が人の言動なのだ」と教えた。


写真はネットから。

動詞refoulerの名詞。意味は押し返す、押し込めるなど。精神分析での用法は「願望、熱望を実行したいと気が逸るけれど、行動に移すに自身の理念、倫理判断から好ましくないと無意識下で押し止める」。フロイトは「一旦は押し留めたとしても無意識域に懇望(instance)がわだかまる、夢あるいは精神の発症などを契機としてそれは亢進し、抑圧との葛藤が再発する」と教える(ラカンから孫引き、部族民はフロイト原典を読んでいない)。« Refoulement » が活動する舞台は個のそれ « ça » イド。この構造性について後述。
2 « surmoi » 上自我(私訳)。この概念は分かりにくい。文献を色々ネット参照するがそれぞれが異なる説明を主張している。そこで部族民の勝手解釈をまずまとめ、この後にこの解釈を構造に展開する。定訳では「超自我」となるが、「超」は理解しようとする頭を混乱させる、 « sur » に「超」の意義はあるがこれから離れ、第一義の空間位置としての「上、上部」を当てる。よって上自我。
ラカン自ら説明の « surmoi » を本文から引く;
Le surmoi est contraignant et l’idéal du moi exaltant(118頁)上自我は強制する、理念の自我は発奮する。
Le surmoi est un impératif. Comme l’indique le bon sens et l’usage qu’on en fait, il est cohérent avec le registre et la notion de la loi, c’est-à dire avec l’ensemble du système du langage, pour autant qu’il définit la situation de l’homme en tant que tel, c’est-à-dire qu’il n’est seulement l’individu biologique.
訳:上自我は命令的。良識が示すところと理解されている範囲で法と結びつく。人をあるがままの姿に、すなわち単なる生物的個体ではない、と上自我が規定するに合わせて、言語システム全容と連関するのである(法は規則、社会の取り決めと理解)。
Le surmoi a un rapport avec la loi, et en même temps c’est une loi insensée, qui va jusqu’à être la méconnaissance de la loi. C’est toujours ainsi que nous voyons agir chez la névrose le surmoi.
訳:上自我は法との関連を持つ、同時にその法とは行き過ぎる傾向を持つ法であり、法の無視にまで行き着く。神経症者にその兆候が認められる。
Le surmoi est à la fois la loi et sa destruction. En cela il est la parole même, le commandement de la loi, pour autant qu’il n’en reste plus que la racine. (引用はいずれも119頁)
訳:上自我は法であり破壊でもある。内部に言葉が宿るからに、そこには最早その根しか残らないほどにして法の命令者でもある。
4の引用から;上自我は思考を備え言語を駆使し、理念の自我と対話し命令する。法に則るが拘るわけではない、時に法を無視する。破壊者でもある。
以上を聞いて皆様は何を思い浮かべますか。上自我が優勢になる、限度を超えると人は「自制」の効かない(理念の自我が制御として働かない)乱雑な言動に走ります。ロベールが分析治療にみせた反抗態度はこの類型。
「理念の自我」が己の基準にそって、横紙破りを撥ねつければ個の行動は社会規範から外れない。しかし「理念の自我」を確立できていない精神は、上自我の押さえつけに屈服する。破れかぶれ個の言動は、心の中の対話が危険水域に入っていると報せる。
両の自我のせめぎ合いは人の言動を規定する。
上と理念の自我の葛藤が心の内で繰り広げられていようとも、他者には見えない。他者に映る素面の個とは「彼」「彼女」の外見のみである。言葉を選びつつ個は、他者と対話し反応を気に留めながら一般には行動する。それは規則 « loi » を尊ぶ理念が心を支配し、その範囲からはみ出さず自律する場合である。そうした安定均衡の外見の個を観察すると、格好と風情、言動から「あいつは蕃神ハカミかもしれない」とか特定できる。自己葛藤が逸脱し上自我が « impératif » に過ぎると「統合失調のハカミだ」とされる。

狼少年ロベール Le loup ! Le cas de Robert 5の了(2022年9 月7日、次回9日は本連続投稿の最終回)

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