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蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

レヴィストロースの弁証法的理性(サルトル)批判(決定版) 1

2019年01月19日 | 小説
(2019年1月19日投稿)
初めに;
投稿子は昨年(2018年)3月5日から表題のブログ投稿を重ねた(全11回)。読み直すと誤り、至らなさの幾つかに気づいた。初投稿からの月日は隔たるが、この投稿には来訪者が多く誤り放置は小筆として心苦しくここに書き換え、再投稿に踏み切った。
訂正加筆した趣旨とは;
1 明らかな2-3の誤りがあった。例として、serialite(連続性)はサルトル造語で個人体験がとある場で集団体験化する現象を表す。これをして次段階への進展(dialectique)の起爆としているが、レヴィストロースがこの原理を(分析的手法として)批判する。そこまで読み取れなかった。
2 二人の対立は哲学の究極課題「思考と存在」のあり方、解釈の違いに起因している。初回投稿で気づいていたが、説明足らずだった。訪問する方々の理解を得ている感触はなかったので、新たに解説を設けた。
以上です。
初めの投稿に接し、不同意を感じた方に再読いただければ幸甚です。先の投稿分は近々に削除いたします。(投稿子、蕃神)

内容は以下のとおり。
1 きっかけ 
1 反論は無かった
3 思考と存在のあり方の差異
4 歴史は存在か思考か
5 絶対神の弁証法
6 歴史は思想
7 お化粧屋
8 ペーパーナイフも弁証法も不可知
9 生まれ損ないの畸形
10 Cogitoの捕囚
11 誤謬か論理破綻か
(全文は長いので5回に分けて投稿する)

1 きっかけ 

著書「弁証法理性批判(Critique de la raison dialectique)」でサルトルはメルロポンティの知覚の現象論(=phenomenologie de la perception)を批判したが、真の狙いはレヴィストロースへの構造主義であるとされた。(=巷間の説明による。これが正しいかは原書に立ち入らなければならないが、諸々の制約から実行できなかった)。1960年の後半。
レヴィストロースは手際よく、=こうした語を無関係な筆者が使うは不謹慎ながら=一年を経ず、1961年10月に出版された野生の思考(La pensee sauvage)の最終第9章にサルトルへの反論を付け加えた。タイトルはHistoire et dialectique=歴史と弁証法=、8章までの内容は、未開とされる民族の思考を論じたもので、対する9章は内容として異質。本書の執筆開始は1961年6月12日と後書きに書かれるから、筆をとる直前に、サルトルからの批判をレヴィストロースが関知し、本題(野生の..)を論証する傍ら、サルトルへの反論をとりまとめていたと察せられる。

奥付(最終行の記載)で稿了したのは同年10月16日と分かる。「手際よい」この言い回しは、一年も経たずにこれほどの内容で反論した事情を比喩したつもりである。メルロポンティは1961年5月に執務中に急逝された。レヴィストロースが野生の思考を執筆を始める1月前である。二人は「意味」や「存在」のあり方などで互いに影響を及ぼしている盟友。メルロポンティの死まで二人に、どのような会話あったのだろうか。

さて「野生の思考」を手に取った読者各氏は、最終章を読むに驚いたであろう。「批判」の読後感は手際よさではなく完璧さであった。

2 反論は無かった

21世紀(2019年)、レヴィストロース反論に対するサルトル陣営側からの反響とはいかなるか。ネットを通し探ると「実存主義の終了」「反論も出来ず」が主流、レヴィストロースへの好意的な論調がそれらに読める。サルトル側からの「反論の反論」は形成されず、論壇での「論争レベル」には進展しなかった(小筆は同時代人でないからネットで推察するしかない)。
partisans de Sartre、hommes dits gauche(サルトルのパルチザン、左側とされる一派=これら語はレヴィストロースのHistoire et dialectique)から「資本主義追随者のあがき」「歴史法則への無知」などの反論がでたと記事を見るが、弁証法の教条主義者からの反論である。(サルトルに取り憑いた)教条主義がサルトルの墓穴を掘った(ネットで読んだ)。
一般読者からの賛同は得られなかったのであろう。ご本尊からの反論はネットで見当たらない。

さて、レヴィストロース反論の趣旨は
1 実存主義は(非科学、不可知論)である
2 実存主義なる個人経験思想を弁証法に展開する手法に論理矛盾がある
3 サルトル的弁証法は未開社会を非文明とするなど間である
に集約される。

反論を展開できなければ、サルトルは「負け犬」に貶められてしまう。そして、その取り扱いとなった。「手際よく完璧に」裁かれた。
彼は1966年に来日したが、フランスでの論争事情を知らない陽気な「サルトル信者、日本のpartisans de Sartre」の熱烈歓迎に浮かぬ表情を見せていた。彼と彼女(シモーヌボーボワール)の困惑した顔つきはネット写真で窺える。論争負けの影響であろうか。(小筆の邪推も加味されるから、信じないでください)

余談:1950~60年代は60~70年の前。哲学民族学などのフランス出版事情を(ネットで)振り返ると;メルロポンティの「弁証法の冒険」の発刊が1955年(1945年からサルトルと哲学誌を共同編纂していたが1953年に決別した)。レヴィストロースの「悲しき熱帯」は1956年、「弁証法理性批判」(サルトル)は1960年、「野生の思考」1961年、構造神話学の嚆矢の「生と調理」1963年。

第9章に取りかかろう。難解である。
言い換え(前段の数十行を一語の暗喩、換喩で集約する)、論理反転、多重否定などがその源と指摘したいが、これらはラテン語を引きずるフランス語の「宿痾」なので慣れるしかない。我ら一般人にあって脳みその捻り塩梅が捩れのまま、苦しいのは、レヴィストロースがサルトルの語を用いてサルトル歴史観を批判するという2重絡繰りがあるからである。例えばtotalisationは辞書には総計とあるが、文の脈絡で意味が通らない。サルトルが発明した用語となるのだが、原書で読んでいない筆者はこれを「総括」と(勝手に)訳す。
その総括を以下に解釈する。=totalisationは弁証法での段階(categorie)を乗り越えて、次段階に揚がる行動を指すとする=。
それならsynthese止揚をフランス語は用意しているではないか、異議を唱えたくなる。こちらはヘーゲル用語で、語感として機械的、間さ、非個人性が漂う。この響きを嫌ったのが造語の理由かは推察だが、レヴィストロースから曖昧として批判された。

(サルトルは)dialectiqueを(共産化に進む歴史必然の)公理としているのだから、人の意識活動totalisationが集団化(serialite)することも、集団が思考を持ち、一の方向に活動して歴史の進展の起爆となる、このような分析するのは(分析と絶対が住み着く)アンビバレント状況と切り捨てる事情にもなっている。dialectiqueが歴史真理であるならばそれのみで十分に歴史を正当化できるのだから。
(なおレヴィストロースはアンビバレントなる語は使用していない)

余談;彼の地、哲学者は先達の用語を踏襲するも、解釈の差異を顕わにするために、別に用語を編み出し用いるを旨とするところが多々ある。表現力の確かなサルトルにあっては、その権化の相を見せる。

3 思考と存在のあり方の差異

西洋哲学を振り返りこの論争の理解としたい;

1 デカルト;
西洋哲学の流れには、絶対神をめぐり思考と存在の相克が常に表面に出る。デカルトは思考(cogito)が物事の本質(essence)を見極めるとした。さらに、思考は神から授かった能力なので、森羅万象存在のすべても神が創造したのだから、考えれば(cogito)本質(モノ)に迫る事は可能だとする。

2 メルロポンティ現象学では本質は場(milieu、champとも伝える)にあるが、そのままでは探れない(雑景や雑音で見えないし聞こえない)。知覚(perception)を通して混乱の場から秩序(ordre)を探ることで人は本質に近づく。セザンヌはサントヴィクトワール山の本質にキャンバスに描いて迫る。種々の語を選択し組みなおしたランボーが、人の心の本質を謳う。(デカルトの)存在=etreを場=milieuに置き換え、そこに混乱を見せても本質は秩序だと主張した。
(メルロポンティは神が創造物した場に「混乱chaos」の表現を用いない。小筆は不遜にも、場は混乱知覚が秩序と対立させる。理解を速くするためです)
余談:彼は敬虔なカソリックとして生きた。「可愛くて(assez beau)上品な生まれをほのめかす仕草の若者(l’allure d’un jeune home de bonne famille)のtalas=ecole normale superieureのカソリックの学生」と描写されるPradelleなるがメルロポンティ(と聞いた)。ボーボワール「娘時代」の一片。

3 サルトルはデカルトから神を取り上げた。
神がいなくとも物は目に見えるしそこ存在している。神から思考を授けられない人は自身で存在の本質を認識する使命を負うのだ。(無神論、実存主義における存在と思考の相克)
4 レヴィストロースは。

写真は27歳のレヴィストロース、ブラジルマトグロッソで現地調査中。

無神論者です。神を否定し存在から本質を外した。思想と存在の双極性に本質が宿ると考える。犬は神に創造されたモノではない、そこらにうろつく犬に本質が宿るものでもない。尻尾を巻いてワンと吠える四つ足ほ乳類は、「犬という思想」との関連にのみ存在する。人が犬という思想を持ってのみ犬が存在する。思想と存在を結ぶ対称性(reciprocite)に本質がある。構造主義です。

哲学の底流は神(いるかいないのか)と本質(探れるのか)の解明に尽きます。それを1-4で(筆者なりの勝手解釈で)解説した。この理解から始めれば、難文「Histoire et dialectique」の解読は簡単です。

4 歴史はモノか思考か

野生の思考第9章の冒頭を引用します。まず題名のhistoire歴史についての意味合いから。
<dans quelle mesure une pensee, qui sait et qui veut etre a la fois anecdotique et geometrique, peut etre appelee diacletique?>(La pensee sauvage, 第9章)
拙訳:どうやったら思考を計測できるのか。思考とは逸話的で地理的なものなのにどうしたら弁証法的と言えるのか?

上の訳では分かりにくい。語の意味するところから攻めよう。
mesureは長さを計測する事、その器具です。モノ(etre)を計測すること。歴史を長さにして(重さ、ふくらみかもしれない)を計るってどうする?レヴィストロースが問いかけています。
anecdotiqueとは逸話的と辞書に出ている。faits curieux 変わった説明しにくい(辞書le GrandRobert)ともされる。すなわち突発的、系列非依存となる。geometriqueは地域性だから地域限定性としよう。すると<une pensee思考とは系列に依存しないし、地理的にも限定されている。その事を思考は知っているし、そうありたいと願っている。そうした思考を何かの尺度とし計測し、弁証法的と呼ぶにはどうするのか>
別の言い方は「思考とは個別で独立している。それにもかかわらず弁証法になり得るとはどの様な仕組なのだろうか」
一方、弁証法は「系列(時間)依存」「地域非依存」であるとは説明の必要はないでしょう。歴史の真実、物事の原因であり帰結であるからには、地域原則ではなく時間(歴史)原則です。

続いて;
<la pensee sauvage est totalisantnte; elle pretend aller plus beaucoup loin dans ce sens que Satre ne l’accorde a la raison dialectique, puisque celle-ci laisse fuir la serialite pure>( 292頁)
引用文を訳す前に;
キイとなるserialiteなる語は辞書(le GR)に見あたらないから、フランス語として認知されていない。近い語としてserialがでていた。一連のシリーズ映画の一フィルムを指す。寅さんシリーズの一作品「寅さん柴又望郷にむせぶ」はun serial de la serie寅さんといえる。それに=ite=の接尾語をサルトルが加えたから、意味合いは寅さんなら「男はつらい全56巻」となり、言い換えて(系列依存、地域非依存で)「連続して表出した事象の総体」となるだろう。
訳;野生の思考は総括的であるしその方向に進行している。サルトルが主唱する弁証法(dialectoque)論理は、単純な連続性=la seriarite pure=という事象に逃げ込んでいるから、そのこと(野生の思考の総括能力)を認めないだろう。
後段に出てくるが、バス待ち人はそれぞれ個人がserialである。列の全体がserialiteとして 集団化するとサルトルが言う。この考え方を=pure=純粋、単純、あるいは判断、知性の無いとの意味。ここではtotalisationはserialiteと共存する訳がないとのレヴィストロースの見解、これに留意しよう。

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