蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し 4 最終

2022年06月24日 | 小説
(2022年6月24日)« Le principe du plaisir » では衝動が内的に亢進し実践に向かうとする精神作用となる。一方 « le principe de réalité » は現実世界から刺激を受け欲望を感じるものの、すぐさまの実行を踏みとどまらせる精神作用とする。両者は補完して欲望行動のすべて、すなわち実現と踏みとどまりを支配する。
引用した(前回22日投稿)サイトの信用は確かなものであるから、こうした解釈が(仏国の精神分析界隈で)一般であろうと推察したい。欲望と現実の原理が実践と抑制に分化されて、2として補完、一体に働く。これでフロイトの謎掛けが解けた、めでたし、ラカンの解釈、循環弁証法の概念は部分的にも見出されないけれど。
しかしこの解釈は格好が悪い。
とくに « le principe de réalité » 現実原理をこのように形而下に、言い換えれば即物でカタをつける説明は苦しい。 « Ce nouveau principe… » で始まる上の引用(22日)は精神「分析」学としての説明でしょうか、首をひねる。
とっさに行動、向こう見ずへのブレーキならば社会常識、法律あるいは中学校性教育の指導範囲だと思うのです。精神の動きを物として説明するネットサイトのこうした世界とは、全く異なる次元でフロイトは思弁活動を続けていた。心理の累層、体験の重層、下層心理に沈みこむ後ろ向き記憶、それが無自覚に吐出し時として個を苛む。こうした複雑系を心理が抱えるから人が自我を確定できる。自己の気づかない精神の仕掛けが、個の立ち様と行動を支配すると説いてきたのです。こうしたいわば形而上で精神を解き明かそうとする思弁が臨床、病例の説明に影を落としている。
中学校性教育者が諭す教訓がフロイト精神分析ですよと教えられても嬉しさなど感じない(部族民の主観)。
ラカン先生にして他のあまた精神分析家が70年前から唱えていて(上引用の元となった)即物説明の聞き難さを心苦く感じていた筈です。看過許さじの構えで両の原理の対比と相違に(Hyppoliteの指摘を受けて)休み時間に頭を巡らせたのです。


カラヴァッジョ画マグダラのマリアの法悦

ここで<Que devient dans cette perspective le principe de réalité> この視界の中で現実の原理はどんな位置を占めるのか(107頁)=前出、ラカンの自問に戻ります。
まずは<Le principe de réalité est en général introduit par cette remarque…>現実原理には一般的に次の解釈を与えられている。(引用は略)快楽を追求しすぎると身体の変調が起こるなどの実例を挙げ<C’est ainsi qu’on nous écrit la genèse de ce qu’on appelle l’apprentissage humain>こんなところに « apprentissage修得 » の起源があるのだと人が語っているよ、放り投げるかの口調。なぜなら主流だった一般的解釈を記したもので、これをラカンは認めない。直後に<Dans la perceptive qui est la nôtre, cela prend évidemment un autre sens>私たちの見方では、それは全く別の方向性を持つ。
それら主張の趣旨「現実を体験して行動指針を習得する、故に直情には走らない」―は精神分析ではないとラカンがすぐさま否定する、流石に「中学性教育」の言葉は出なかったが。
この « un autre sens別の方向性 » を説明するにGribouille(間抜けうっかり、Gは大文字なのでうっかり氏)の顛末を紹介する。うっかり氏は埋葬に立ち会った「bonne fête立派なお祭りだ」と言った。立ち合い者から罵られた。家に戻ると家族から「埋葬ではお祭りなんて口にしない、Dieu ait son âme神のお助けあれと言うのだ」とたしなめられた。翌日結婚式に呼ばれ「神のお助けあれ」と祝辞を述べたら花婿家族に小突かれた。
<L’apprentissage tel que le démontre l’analyse, et c’est à quoi nous avons affaire les premières découvertes analytiques ― le trauma, la fixation, la reproduction, le transfert. Ce qu’on appelle dans l’expérience analytique l’intrusion du passé dans le présent est de cet ordre-là>(108頁)
訳:この挿話の教訓とは精神分析学が初にしてあらわにした修得となるもので、トラウマ、固定、再生産、転移の組み合わせである。それは過去経験が現在精神に侵入したもので、その順番は上に書き留めた通りである。


ラカンセミナー講師姿(ネットから採取)

部族民なりの理解を記す。
トラウマle trauma、固定la fixation、再侵入la reproduction、転移le transfert。これらは精神分析の学術用語となる、訳は蕃神の私訳なので定訳とは差異があるかと思う。概念を説明するに部族民は全くもって適任でないが、語感から受け止められる意味合いを頼りに挑戦するとトラウマは心傷、固定はそれを思い締め深層に封じる、同様経験に接し心傷の再侵入を許す、つらい思いを別事象に転移するなどとなるー過去は消えず心理の奥に心傷はこもる。この一連の過程、修得apprentissageをうっかり氏が小突かれたりして体験したのである。
ラカンは丁寧にも教育での修得とは何かを付け加えている。
<Qu’est-ce que dévoile l’analyse ― sinon la discordance foncière, radicale, des conduites essentielles pour l’homme, par rapport à tout ce qu’il vit ? La dimension découverte par l’analyse est le contraire de quelque chose qui progresse par adaptation, par approximation, par perfectionnement. C’est quelque chose qui va par sauts, par bonds.
訳:人は生き体験を重ねる、体験と個の関わり合いで、基本行動において過激かつ根本からの不調和を除いて、精神分析は何を明らかにするのか。精神分析が解明した次元とは、適応性を発揮し進展すること、大まかさで妥協すること、あるいは完成を極める努力―このような事柄とは正反対である。それは跳躍や外し飛びで進む何かである。
皆様にはお分かりかと;
« Adaptation, par approximation, par perfectionnement » 適応性を発揮し進展すること、大まかさで妥協する、完成を極める努力―が教育における修得です。 精神分析が主張する « le principe de réalité » とは « Le trauma, la fixation, la reproduction, le transfert » の原理となります。両を対比させると教育での過程は具体、即物的で、精神分析が説く修得は抽象、思弁的であると思います。
ラカン説では「現実原理は精神の裏に働く作用」である。ここで心理の構造性、記憶の累層性との整合が取れた。<Si vous ne pensez pas le principe du plaisir dans ce registre, il est inutile de vous introduire dans Freud. (107頁)快楽の原理をこの脈絡の中で考えない人をフロイト世界に導く意味はないーと大見得を切った訳がわかった。快楽原理と現実原理の補完関係を否定しないとフロイト2大原理の理解に至らないのじゃ。
残念ながらキッカケを作ったHyppoliteはこの時限に欠席していた。彼の反応を聞きたかったのだが(時空間移動で臨席した部族民の述懐)。
ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し4 最終の了(2022年6月24日)

後記:快楽原理は欲望リビドーを起動因としている。フロイトはそれを「性衝動」に収斂しているがラカンは一般性の衝動 « Ne serait-elle pas, cette libido, quelque chose d’assez libidineux ? » (106頁、前出) としている 。個の内面から露出するそれを « affect » とすれば精神から起動し外部対象を象徴 (symbole) として特定する « fonction symbolique » (3月18日投稿)との繋がりが見える。一方、現実原理は外部事象の有様を個が受け止め空想化する、こちらは « fonction d’imagination » に比定できる 。両の原理では精神作用の方向が逆向きになっている。これをして双方向の作用とするとラカンの循環弁証法が理解できる(部族民の私見)。
今後の予定:本稿で紹介したVII章はキルケゴールと精神分析の関連で行を閉じます。近々に快楽のはての続編として投稿します(7月中)。
次にセミナーIのLe Fort女史報告「オオカミ少年」を採り上げます。母親の虐待から「狼」としか話せなくなったRobertの心理とは。精神分析医師はそれを妄想と見立てるがラカンは « sur moi » 超自己なる概念を持ち出します。ここでもラカンの形而上的分析が光ります。ぜひお楽しみに(7月末)
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