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蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

レヴィストロース構造人類学番外 ヒトの由来 下

2025年04月26日 | 小説

(2025年4月26日)ヒトの由来 番外 の上のあらまし:神話はヒトの思想=表象=の反映である。Œdipe エディプス神話の主題は「人の生まれの由来」フロイトによって繰り返され、北米プエブロ族にも同様の神話が報告されている。レヴィストロースはこの「由来」を発展させる)
« Nait-on d’un seul, ou bien de deux ? ― et le problème dérivé qu’on peut approximativement formuler : le même naît-il du même, ou de l’autre ? » (239頁)人は一人から生まれるのか、二人からか。この問題は絶妙の近似で以下に公式化される、人は己から生まれるのか、他者からか?
レヴィストロースを続けます。
« L’expérience peut démentir la théorie, mais la vie sociale vérifie la cosmologie dans la mesure où l’une et l’autre trahissent la même structure contradictoire. Donc, la cosmologie est vraie »
経験は理論を否定できる。しかし社会生活では宇宙論が前者(一人生れ)にしても後者(二人生まれ)も同じ構造体の逆向きであると検証している。よって宇宙論が正しい。
部族民:この論理展開が本節の核心であり、最も分かり難い文でもあります。宇宙論(思想)の「正」向きと現実の「逆向き」は本質として同格であり、「思想」が示す向きが常に正しいのはなぜか?ヒトは女の股から生まれ落ちる、これが現実。宇宙論ではヒトは大地から這いずり上がる。落ちると上がるの対極が目指す中心は「ヒトの己の生き様」です。現実は宇宙論に組み入れられる、よって宇宙論が正しい。
次の数節は「宇宙論」神話の追加解説; « Ouvrons ici une parenthèse, pour introduire deux remarques On a pu négliger une question qui a beaucoup préoccupé les spécialistes dans le passé : l’absence de certains motifs dans les versions les plus anciennes (homériques) du mythe d’Œdipe … » (page 240)
ここで2点に留意するために括弧を設ける。最古のエディプス神話(ホメロス期)には幾つかの筋道が欠けているーこれが神話研究者を悩ませていたのだが、その問題「起源の神話とは何か」を(上記の構造主義的視点を採れば)無視できる。
« La méthode nous débarrasse… à savoir la recherche de la version authentique ou primitive » この進め方(もともとの正統的神話とは何か)は私を困惑させる…言ってみれば起源を探す試みだが、それは原初の神話でしかない。


東京日野市の七生丘陵、遊歩道沿いの斜面。ツツジが花盛り。この週末にでも散歩すると気持ちいい。撮影日は投稿と同日。


フロイト論を確認しよう; « Ce principe est bien illustré par notre interprétation du mythe d’Œdipe qui peut s’appuyer sur la formation freudienne, et lui est certainement applicable. Le problème posé par Freud en termes « œdipiens » n’est sans doute plus celui de l’alternative entre autochtonie et reproduction bisexuée. Mais il s’agit toujours de comprendre comment un peut naitre de deux »
Œdipe神話の我々の解釈はこの原理(神話は宇宙論の同時的反映)で説明できるし、これがフロイト公式に重なりその説を補強する。エディプスコンプレックスとは「大地生まれ」と「両性が世代を再生産する」の択一ではない。ヒトはなぜ二人から生まれるのか、如何にしてこれを理解するかに行き着く。
(宇宙論を信奉する族民、プエブロ族はこれを理解しないと注釈している=前述)
故にヒトは己から生まれる。宇宙論 « cosmologie » 思想が正しい。
レヴィストロース構造人類学 Anthropologie Structurale ヒトの由来 番外 (4月26日)
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レヴィストロース構造人類学 Anthropologie Structurale ヒトの由来 番外 上

2025年04月24日 | 小説
はじめに;(過去のBlogを別サイトに移動させる作業に時間をかけている。当初Gooの指示通りにDLした記事を、そのままにコピペするつもりだった。しかし2の不満が噴出した。1記事添付の写真が画像表示ではない、アドレスが貼ってあるだけ。記事を読む側としたらTextを読んでいて関連写真はこちら(http….)に目を止めても誰も開かない。逆に「怪しいサイトに誘導する手口」と警戒される。2昔の記事に目を通すと文の構成、伝えかけの至らなさが気になるー。そこで読み返し、改訂すると決めた。その過程で本稿をしたためるに至った)

(2025年4月24日)レヴィストロース構造人類学 Anthropologie Structurale IX章は神話を主題とする。エディプス神話と北米プエブロ族神話を比較している(別投稿で解説を予)。それら頁から主題「ヒトの生まれの由来」を構造主義から展開する幾節を採り上げた。

1 神話はヒトの頭の中の表象から生まれる。 
上には異論はないかと思う。翻るとこれは起源神話の追求は意味をなさない、となる。レヴィストロースは « le mythe reste mythe aussi longtemps qu’il est perçu comme tel » 永く語られるままに神話は神話としてあったーと語る。
Œdipe神話が今も語られるとしたら、古代ギリシャのソフォクレスの心中に、今21世紀の解釈を重ね合わせてもたわみなど生じない。実際にフロイトが新たな概念「コンプレックス」を持ち出して、エディプスの心の内を解析した。« On n’hésitera pas donc à ranger Freud, après Sophocle, au nombre de nos source du mythe d’Œdipe » エディプス神話の資料としてソフォクレスに続いてフロイトを採り上げる、ここに躊躇はないと思うが。(240頁)

レヴィストロースの論点は: « Ce principe est bien illustré par notre interprétation du mythe d’Œdipe qui peut s’appuyer sur la formation freudienne, et lui est certainement applicable. Le problème posé par Freud en termes « œdipiens » n’est sans doute plus celui d’alternative entre autochtonie et reproduction bi-sexuée » (240頁)これを基本とすると我々のエディプス神話解釈(人の生まれは砂の芥か女の股か=部族民注)はフロイトの説明と重なり合うし、きっとそれを基本としての展開は可能であろう。さらにはフロイトが「エディプスコンプレックス」として提唱した課題は、もはや砂の生まれ(autochtonie)か女の生まれ(bi-sexuée)かを超えている。

部族民:エディプス神話がヒトの生まれの由来、この解き明かしの手段を提供してくれる。問題点は(人は「大地からか女か」ではない)一人で生まれるのか二人からか。これを起点として浮かび上がる次の提題は「個は己から生まれるのか、他者から生まれるのか」。これが問題(一人か二人か)を結ぶ架け橋(pont)となり、問題を解決できる策を与える。この進め方を採ることで、とある連関性が浮かび上がる。緊密すぎる血縁関係と疎遠な血縁関係を向かい合わせると、男は大地生まれから抜け出ようとする呻吟努力を重ねるが、達成できない行きがかりに対峙する。

« Mais il s’agit toujours comprendre comment un peut naître de deux : comment se fait-il que nous n’ayons pas un seul géniteur, mais une mère, et un père en plus ? » (同)一人の男がなぜ二人から生まれるのか、それを如何にして理解するか、一人女の胚ではなく母と父の種で生まれるかーなぜそんなことが起こるのかが課題なのだ。

部族民: Œdipe神話のフロイト解釈では男は一人で生まれる。Pueblo神話では「族民」は地底に住む惨めな「己」が地上に上った。自己に成るべく(ヒトらしき姿に生まれ変わるために)試練を経る。この過程はヒトは己から生まれるを教える。ここでレヴィストロースは「ヒトの生まれは己からか」他者からの葛藤に向かう。
レヴィストロースをさらに聞こう ;
« Que signifierait donc mythe d’Œdipe ainsi interprété à l’américaine. Il exprimerait l’impossibilité où se trouve une société qui professe de croire à l’autochtonie de l’homme de passer, de cette théorie, à la reconnaissance du fait que chacun de nous est réellement né de l’union d’un homme et d’une femme. La difficulté est insurmontable » (239頁)


出生コホートの投稿で用いた図。

生まれの様を1生物学的実際 2神話に影響を与える宇宙論の大綱に分けて、それぞれが二人(男と女)、一人(フロイト世界) 己(レヴィストロース世界)発展段階を経緯する図式

アメリカ風に翻訳されたエディプス神話(プエブロ族神話)は何を伝えかけるのか。男の生まれは大地からと信じる社会には、この論理を乗り越え我々の誰もが一人の女と男の結合から生まれ出るとの(現実に合致する)認識にはたどり着かないであろう。乗り越えられない困難がここに横たわる。
部族民:時空隔たる二の部族が男の砂生まれを伝える。これが「乗り越えられない困難」の傍証とレヴィストロースが諭している。
« Mais le mythe d’Œdipe offre une sorte d’instrument logique qui permet de jeter un pont entre le problème initial ―naît-on d’un seul, ou bien de deux ? ― et le problème dérivé qu’on peut approximativement formuler : le même naît-il du même, ou de l’autre ? Par ce moyen, une corrélation se dégage : la surévaluation de la parenté de sang est, à la sous-évaluation de celle-ci, comme l’effort pour échapper à l’autochtonie est à l’impossibilité d’y réussir »

しかし視点を替えればエディプス神話が、解き明かしの論理手段を提供してくれる。そもそもの問題点は(人は「大地からか女か」ではない)一人で生まれるのか二人からか。これを起点として浮かび上がる次の提題は「個は己から生まれるのか、他者から生まれるのか」。これが2問題を結ぶ架け橋(pont)となり、現実に立ち向かう困難を解決できる策を与えてくれる。この進め方を採ることでとある連関性が浮かび上がる。緊密すぎる血縁関係と疎遠な血縁関係を向き合わせ見ると、男の大地生まれ(の信心)から抜け出ようとする努力が、それなど達成できるはずのない不可能さに対峙する(諦観)と同じである。

ヒトの由来 番外 上 の了

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引っ越し作業 中間報告

2025年04月16日 | 小説

(2025年4月16日)Gooblogの会員で他ブログへの引っ越しを計画中の皆様、

投稿子(部族民)は早速過去投稿を引き出して(Gooblog様のご指示通に、登録電話で通知された暗証番号を返して、モノの数秒)他ブログに移動させた。

試したブログ ハテナ(Gooご推薦、TextとImageが確認できた)
Note (ご推薦ではなかったがハテナと同じで成功)
Blloger(Imageは認識してくれない)

ご参考になれば。

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ヘーゲル精神現象学 IIの部 知覚モノと幻影6回目(IIの部の最終)

2025年04月16日 | 小説
La Phénoménologie de l’Espritヘーゲル精神現象学 IIの部 LA PERCEPTION OU LA CHOSE ET L'ILLUSION知覚モノと幻影 6回目 (IIの部の最終)
(2025年4月16日) 本文の前に。Gooblogの終了案内を受け、1~2月中に他ブログサイトへの引っ越しを計画しています。2~3の候補を選びました。無料会員に登録して使い勝手、反応などを待つ段階に来ております。決定しましたら皆様に投稿にて連絡いたします。引き続いて部族民通信のSNS活動にご支援をお願いします(部族民通信一同)。


精神現象学を仏語訳したJean Hyppolite (1907~68パリ)。哲学者、ソルボンヌ、高等師範学校哲学教授などを歴任。


投稿の元本、1948年出版、Aubier社Monteigne文庫。 

« Mais avec cela aussi le simple et le vrai que je perçois ne sont pas un milieu universel, mais la propriété singulière pour soi, qui ainsi cependant n'est ni une propriété, ni un être déterminé ; car elle ne réside pas maintenant dans un Un, et elle n'est pas en rapport avec d 'autres. Propriété, elle l'est seulement dans un Un, et déterminée elle l'est seulement en rapport avec d'autres. » この段階になっても(原初に「個」が具有していた)単純と真理は、この普遍の野に住まうのではなく、対象そのモノに向き合う個別の特性に移行した。それは特性でも、決定されているのでもなくなる。なぜならこの特性は「個」に住まず、他特性と連関していない。なぜならこの特性はただ「個」の内に居るだけ、かつ他の特性と関連付けされているのみ。
部族民:特性の性状が突然、排他から内籠りに変化した。それは決定されておらず、他特性を排他せず、ただ「個」の内に身を置くだけ。次文がこの特性の素性を明らかにする。

« Comme ce pur rapport à soi-même, n'ayant plus en elle le caractère de la négativité, elle reste seulement être sensible en général ; et la conscience pour laquelle il y a maintenant un être sensible est seulement une visée du ceci, c'est-à-dire qu'elle est complètement sortie de la perception et est retournée en soi-même. » (99頁) それ 自身(個)とのみの単純な関連を持ち、否定の性状は持ち込まず、ただ感じ取られるだけの存在。悟性はそれを感じているが、一つの視界としか見えていない。すなわち、悟性は知覚から離れ自身に回帰したのだ。
弁証法の3(止揚):(個)とのみの単純な関連を持ち、否定の性状は持ち込まず…
« Mais l 'être sensible et la visée du ceci repassent eux-mêmes dans la perception ; je suis rejeté au point de départ et entrainé à nouveau dans le même circuit…La conscience parcourt donc à nouveau nécessairement ce circuit » そこに見えている存在も視界も、知覚を通り過ぎる。悟性は、出発点に打ち捨てられた、この周回をはじめからやり直す (同)。

本章(悟性)のこの部(知覚、そしてモノと幻影、IとII部)を締めくくる最終の文節は;
« Ce qui est maintenant présent, c'est l'expérience d'après laquelle la chose se présente sous un mode déterminé à la conscience qui l’appréhende, mais en même temps est en dehors de ce mode déterminé de présentation et est réfléchie en soi-même : on peut dire encore qu'il y a en elle-même deux vérités opposées » (102頁)
今見えていることは、悟性がモノを捉えるとする、モノはある決まった様相で自身を表現する。同時にこの決まった自己表現に加え、自身のなかでモノの中で反照する。余は加えてさらに、モノはそれ自体が2の対立する真理で構成されると述ぶる。
部族民:最終文の前半はII部で説明したそのもの(モノは種々の特性を備え、それぞれがモノとの関わりを持ち、特性同士は無関心)=塩の例の説明。後半の2の真理とは特性が抱えるUn(排他)、Aussi(それもまた)の2の性状である。この真理は当然、弁証法の否定肯定を裏打ちしている。

Hegel La Phénoménologie de l’Esprit ヘーゲル精神現象学
第二章 LA PERCEPTIONOU LA CHOSE ET L'ILLUSION 知覚、そしてモノと幻影 I、II部の了(4月16日)

後記:本書II章Perception知覚は第III部が控えます。この題名は « vers entendement »考える力に向けて、魅力的です。先に「III部は採り上げない」と明言したのですが、撤回し近々に投稿開始する計画です(部族民蕃神ハカミ)
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部族民オワタ、GooBlog終了の悲報

2025年04月15日 | 小説
(2025年4月15日)昨日、GooBlogからサービス終了の報せが飛び込んできた。驚き腰をぬかした。Gooは本年9月末日で新規投稿の受け入れ停止となる。引っ越ししてBlogを続けますが、まだ受け入れ元が決まっていません。前倒しで5~6月までに次期のBlog配信先を決めます。まず2~3の候補を選び、無料会員になって仕組みを調べ、部族民通信の立ち位置と重なるサイトを選びます。皆様には後日当ブログで連絡いたします。

部族民通信ブログのこれまで。
6009日経過
少ないときには8~9人。
最近は1W~10日おきに訪問が殺到する(写真)



昨日(4月14日)には375名が訪問した。苛立つほど真面目、やばいまでのこのガチンコブログにこれほどの訪問があるものだ。終了する訳にはいかない。


当初はエッセイ、身辺雑記。
レヴィストロースを採り上げ、代表の4著作解説をした(構造人類学、悲しき熱帯、親族の基本構造、神話学=生から調理へなど4冊)
ラカン(精神分析)、ルロワグーラン(民族考古学)なども紹介。
ここ8ヶ月はヘーゲル精神現象学に集中している。

フランス語文節を引用するけど当初はアクサンをつける手口を知らず、英語風フランス語だった。2020年からワードで言語デフォルトをフランス語にして、キーボードもフランス語(第二の選択)して対応した。

Youtube, Xと連動する。
第一回の投稿をコピペした。2009年10月1日の投稿

 「東京日野市の新選組歴史館で開かれている「程久保小僧・勝五郎生まれ変わり物語」に行って来ました(十月一日)。展示目的が明確である事、平田篤胤の一級資料が用意された事などすばらしい展示になっています。
中野村(現在八子市東中野)勝五郎少年がある日ふと姉に語った話、それは「生まれる前は程久保村(日野市程久保)の九兵衛の子藤蔵(とうぞう)だった」と驚くべき内容でした。初めは姉と兄とだけの秘密だったが、両親に知れ、村中に知れ渡りました。文政五年(一八二二年)のことです...中略...白髪の黒衣老人が手招きしてあの世に行った。篤胤はこの老人を産土神(うぶずなかみ)として注目した。死霊をあの世に導くのは産土神だった訳ですね」


以上、Blog配信サイトは1~2ヶ月で新たになりますが、皆様にはより多くの機会にご訪問をお願いする(部族民)。
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ヘーゲル精神現象学IIの部 知覚モノと幻影の2 

2025年04月14日 | 小説
ヘーゲル精神現象学として通算5回目の投稿となります。
本章Perception のII部に入ります、部の題名はLa perception contradictoire de la choseモノと矛盾する知覚

前回(4月12日):本書のII章Perception知覚の第一回。モノは特性を持つ(塩は白い、立方体...)特性がモノ普遍を表現し、それらをしてChoséitéものそのモノを形成する。このChoséitéは否定される(乗り越えられる、止揚)。止揚への運動の様がII部で語られる。
 
(2025年4月14日)悟性がモノを知覚する、モノには対象(ものそのモノ)と特性が同居する。それぞれが性状を変えながら(弁証法)活動を進める。その果ては「止揚」に進み、そして原初の(特性同士の無関心)に戻る。知覚に観察されるモノの対象と特性の様が、今回投稿の一節に説明される。まさに本書のサワリです。少々長い(引用文は98頁の全頁と99頁の上半分)けれど一気に(2回の投稿)紹介。

まずは導入の文節(原文引用無し):いかにしてモノと特性の絡まり運動を悟性が掴むのか、畢竟それは対象の実質の動きと悟性の対象への働きかけになるのだー以下に続く。
« Ce sera seulement le développement des contradictions qui y sont présentes. L'objet que j'appréhende se présente comme purement Un : en outre, je suis certain de la propriété qui est en lui et qui est universelle, et par là outrepasse la singularité. » この流れには基調として「対立」が表出する。悟性が採りこむ対象は純粋のUn「個」であり、更に、特性に「個」が内包されており、それは普遍であると悟性は知る。それによって「個」が本来抱える個別性が「個」からはみ出る。

« Le premier être de l'essence objective, comme d'un Un, n'était donc pas son être vrai ; l'objet étant le vrai, la non-vérité tombe en moi, et l 'appréhension n'était pas juste. Je dois, à cause de l'universalité de la propriété, prendre l'essence objective plutôt comme une communauté en général » 対象実質の原初状態は、(個別性が抜け出たから)「個」としてあるわけなので、真実ではない。真実であるべき対象を、悟性が掴んだ原初の対象には、真実(個別の実質)が欠けていた。故に悟性は対象を理解できない。特性が覆う普遍性ために対象「個」実質ではなくなった。これを一種の集合体(個と特性の混淆)として悟性が見てしまう。

部族民:原初の「個」は単純 (purement)で排他性は持たない、特性には普遍がもともと備わっているから、それに対峙する「個」に普遍が優勢になって、結果、個別性Singularitéがすり抜けてしまう。それが欠如する「個」を悟性は覚知できない。対象を「個」及び特性の集合体と見てしまう。

弁証法の1(肯定):原初の段階、「個」の不明。個別とは真理で実質であるが、普遍を帯びる特性が「個」に対して優位に立つ。塩の例を振り返ろう。対象として塩の実質は「塩そのモノ」だがそれは知覚には見えない。白い、立方体などの特性を通して塩を覚知する。塩そのモノと特性の混淆を知覚が見ている。

« Je perçois alors maintenant la propriété comme déterminée, opposée à un autre et excluant cet autre. Je n'appréhendais donc pas justement l'essence objective lorsque je la déterminais comme une communauté avec d'autres ou comme la continuité, et je dois plutôt, à cause de la déterminabilité de la propriété, briser la continuité et poser l 'essence objective comme un Un exclusif. Dans l'Un ainsi séparé, je trouve beaucoup de telles propriétés qui ne s'affectent pas les unes les autres, mais sont mutuellement indifférentes » 今、特性は決定されている(普遍を獲得した)と悟性は見ている。それはもう一方のモノ(Un個)に対立し、排斥する。悟性は対象の実質を、他者(特性)との集合体とか、それと連続しているとか見てしまい、正しく捉えていなかった。悟性は、特性の決定力を鑑みて、この連続を断絶し、対象の実質を排他的「個」に置くべきだった。(特性から)分離した「個」に多くの、このような(普遍)の特性を悟性が見出し、それらは互いに関与せず、無関心の状態を取り戻す。
弁証法の2(否定):「個」と特性の分離、特性は「個」排する、かつ相互に無関心。

« je ne percevais donc pas l'objet justement lorsque je l'appréhendais comme quelque chose d'exclusif, mais comme il était initialement seulement continuité en général, ainsi maintenant il est un milieu commun universel dans lequel de multiples propriétés, comme universalités sensibles, sont chacune pour soi, et chacune en tant que déterminée excluant les autres. »


タンポポの群生(花と花は互いに無関心、今弁証法での否定段階にタンポポは原野に生きる)

(原初の) 対象を何やら排他性を抱えると判断したことで、悟性は正しい理解に達してなかった。実はその原初の時点でのみ、特性との繋がりを維持していた。そして今(モノ対象は)共通普遍の野(弁証法の舞台)と生まれ変わった。その上は多くの特性が宿り、それらは(対象から隔離されたので)互いに排他する関係が生まれる(排他しなければ特性は自己表現できない)。

弁証法の2_2(否定の続き):対象が普遍の野(milieu commun et universel)を特性に提供する。普遍の野で弁証法活動が進展する。

ヘーゲル精神現象学 IIの部知覚モノと幻影2の (4月14日)
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ヘーゲル精神現象学  II章知覚モノと幻影 4

2025年04月12日 | 小説
La Phénoménologie de l’Espritヘーゲル精神現象学 知覚モノと幻影 
II LA PERCEPTIONOU LA CHOSE ET L'ILLUSIONそのI部 4回目の投稿

これまでのあらまし:ヘーゲル精神現象学本文、そのII(知覚)の前半を3月31日から4月4日にかけて3回投稿しました。その内容は知覚とは(モノ内部での同時性の、対象と特性の拮抗。それを覚知できる精神作用)、特性には共通性のAussi(それもまた)が付帯し、対象は個別性Un、「個」括弧付きの個と訳します、の性状を持つ。それらがモノ内部を形成している。これを « Choséité » モノそのものと訳す、の説明をした。II章のI部の途中からの再開となります。

なお1~3投稿はYoutube動画となっています、アドレスを下に貼っている。


ここから4回目です(2025年4月12日)もし特性が互いに無関心であって、それ自身がモノと対峙しているだけなら(今までの説明、これがAussiです)、それら特性は確認されない。
« si les multiples propriétés étaient entièrement indifférentes les unes aux autres et se rapportaient ainsi seulement chacune à soi-même, elles ne seraient aucunement propriétés déterminées » 累層する特性が、それぞれ他者に完璧に無関心であり、ただそれ(モノ対象)との関わりを維持するのみであれば、それら特性は特定されている(弁証法に参画できる)とは言えない(96頁)。(なぜなら特性とは他者と対立することで自身を区別しているのだからーが続く)

« Celui-ci n'est donc pas seulement un Aussi, unité indifférente, mais encore un Un, unité exclusive. L’Un est le moment de la négation en tant qu'il se rapporte à soi-même d'une manière simple et exclut autre chose ; de cette façon la choséité est déterminée comme chose » (96頁)
それ (この場=前文のmilieu) はAussi(それもまた)複数の無関心特性ではない。Un(大文字のUn, 「個」と訳す)の排他性、も息をしている。Unは別の特性を排除するという単純作用で他者と交流する。

Hyppolite:Passage de l'unité positive à l'unité négative, de la choséité à la chose. 肯定的組から否定する組、モノである事からモノ自体、への移り替わり。
部族民:Aussiのままでは弁証法に向かわない。何やらの仕組み(Unに他者を否定する作用の追加=後述)を持ち込む。その過程は探るに、他者に無関心で肯定のみの場milieuが原初にあった(弁証法での肯定)。それは「モノであること」、しかし無関心だけでの存立は特性には不能で、各自が己を特定する運動に入る(塩の白特性が、明確に白と自己定義する)。すると排他となる。


日本タンポポ(撮影25年4月10日、東京日野市七生丘陵)

(理解できていない部族民が)この辺りを尋ぬるとヘーゲルは優しく箇条書きで教えてくれる;
Ce sont ; a) l'universalité indifférente et passive, le Aussi des multiples propriétés, ou plutôt des matières. まず無関心で受け身の普遍性が(場を支配していた)。累層する特性「それもまた」の構えであるが、それ以上に(弁証法の)素材と言えよう。
b) la négation non moins simple, ou le Un ; l'exclusion des propriétés opposées. Un「個」の性状は否定でその性状は対立特性を排除する。

c) les multiples propriétés elles-mêmes, le rapport des deux premiers moments, la négation se rapportant aussi à l'élément indifférent et s'y répandant sous la forme d 'une multitude de différences, le point focal de la singularité s'irradiant en multiplicité dans le milieu de la subsistance. 累層する特性がうごめく、2の要素の原初の出会いは、無関心を装う対抗者にも、関与を重ね否定を仕向ける。かくして個別性(互いが否定し合う)の核が幾重もの光条をこの実体内部に放たれる。否定を起点とする弁証法が始動する(96頁)。
Iの部最終文は: « quand cette universalité sensible les rassemble l’un avec l'autre ; ce rapport de l'universalité sensible aux purs moments essentiels accomplit seulement la chose » (97頁)

この感じ取れる普遍性(前文、肯定の組み合わせunitéと否定するそれが両立する、モノ宇宙milieu)がそれらを抱え込み、その普遍(弁証法)が、実質特性の交流する狭間において、モノが成就する(アウフーヘーベン、dépassé超えられたモノとなる) 。

I部のまとめ。「モノchose」と「モノであるchoséité」ことを述べる。モノは特性を持つ、塩は白い。モノであるとは、それら特性は互いに無関心であり、弁証法の野に放たれて他者を排他する。この否定される状況は知覚perceptionのみが、それを認める。肯定から否定へ、弁証法の発動と近くによる現認である。

La Phénoménologie de l’Esprit精神現象学ヘーゲル 知覚モノと幻影 II LA PERCEPTIONOU LA CHOSE ET L'ILLUSIONそのI部 4回目 了 (4月12日)


(II章 1~3のYoutubeアドレスは  https://youtu.be/i3y-9wSf1tw)
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ヘーゲル精神現象学 第二章 知覚そしてモノと幻影 そのI部Youtube投稿

2025年04月08日 | 小説
Hegel La Phénoménologie de l’Esprit ヘーゲル精神現象学
II LA PERCEPTION OU LA CHOSE ET L'ILLUSION そのI部の初回のYoutube投稿案内です。

(2025年4月8日)24年8月から精神現象学(La Phénoménologie de l’Esprit, Hyppolite訳フランス語版)の紹介を続けております。前回 (2月25日)は第一章「感じる蓋然」を投稿しました。蓋然では覚知できない同時性の弁証法運動、肯定否定、止揚、モノ自体の内部活動として同時に発生している、この様を知覚が捉えます。


Youtube動画のサムネ


本章を解釈する予備知識 ;1 Perception知覚、能動性、モノを同時性で知覚し(percevoir)、規定する(indiquer)。前章のCertitude sensible感じる蓋然は受け身、経時変化を見る。これと対比される。
2大文字で始まるAussi「同じに」とは:モノの特性の性状を表す。一のモノには様々な特性が含有されるが、それぞれは他の特性に無関心。この性格はいずれの特性にも同じ立ち位置(無関心)Aussi(also)を与えている。一方、他を否定する特性 « Un » も用意される(後述)。
3 Choséité(choseモノの派生語、辞書にはないので「モノであること」と訳す)はAussiと絡み合い、多元特性、特性それぞれの孤立、変遷の同時運動。モノ世界を表す。
Youtubeアドレスは  https://youtu.be/i3y-9wSf1tw

部族民通信はホームサイトを運営しています。Yourube 動画で使用したパワーポイント(PDF版)、Textの頁、ショート動画(X向けのシャクタン2分)にも接近できます。
ネット住所 : www.tribesman.net
よろしくご訪問を…
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La Phénoménologie de l’Esprit精神現象学ヘーゲル 知覚モノと幻影3

2025年04月04日 | 小説

II LA PERCEPTIONOU LA CHOSE ET L'ILLUSIONそのI部 

(2025年4月4日) « « Le dépasser présente sa vraie signification double que nous avons vue dans le négatif. » (94頁) 越える (止揚) dépasserは複合する2の意味を、先に説明した通り、否定として表出する。
« Il a à la fois le sens de nier et celui de conserver ; le néant, comme néant du ceci, conserve l'immédiateté et est lui-même sensible, mais c'est une immédiateté universelle » それ(前文の dépasser 越える)は否定すると合わせて保持する両の意味を持つ。無とは「このモノ」の無であり、それでも即座性を保ちその無は視認される。それは一種の即座性の普遍である。

Hyppolite脚注:越えるdépasserはドイツ語 « Aufheben » アウフーヘーベン。(邦訳では弁証法の止揚)
脚注2: La propriété, le ceci sensible dépassé, est le véritable objet de la perception, qui, dans son développement, donnera naissance aux deux moments extrêmes, à l'Universalité de la choséité, à la singularité absolue de la chose. 特性とは畢竟、越えられるモノとして表現され、それが知覚対象の真の姿である。この特性は運動する際に2の対極を生み出す。「モノであること」の普遍、そして「モノの絶対個別」である。
部族民:ヘーゲル修辞を解釈:個体のモノは実質、個別の存在として「在る」。個別であるゆえ「絶対」である。一方、モノであることchoséitéは多層する特性(塩なら白い、辛い…など)を内包し経時的に同時的にも否定をうける。この肯定否定の特性は実質になり得ない、「普遍」。知覚はそれら特性(肯定否定を)覚知できる。
部族民2:アウフーヘーベン止揚とは dépasser 超えられた状態で、モノは無néantに陥ると語る。しかしそれは感じ取られる無である。消え去った無を知覚が認識する。「ceciモノそのもの」の絶対個別が否定され無に果てても、「モノであることchoséité」の普遍が知覚には見えている(ここの解釈は苦しい)。

Propriété特性は複層する、しかし互いには相混じらない。特性の運動に何らかの決定因が後付されて、決定素déterminabilitéとなる。この主張の一文は: « Etant exprimées dans la simplicité de l'universel, ces déterminabilités, qui deviennent vraiment des propriétés seulement par l'adjonction d'une détermination ultérieure » (94頁) 単純である普遍のなかで運動するそれら決定素(モノの性状を決定する)は、(能動的特性に)後付される決定因détermination ultérieureの作動により真の特性(否定する特性)となる。
これがl'une la négative de l'autre他方を否定する特性である。塩の例では白いという特性には、すでに白くないとの非特性la négativeを有する。この対の肯定否定が塩を止揚する。白と辛さは互いに無関心なので、白辛が拮抗する運動ではない。
この弁証法が展開する個、そのモノを « le milieu » 場という。 « Ce milieu universel abstrait peut être nommé la choséité en général ou la pure essence ; il n'est rien d 'autre que l'ici et l e maintenant, tels qu'ils se sont montrés » (95頁) この場はまさに抽象の普遍であり、これをして「モノであること」、あるいは純粋実質と呼ぶ。それは前章で語った(介在が無関心と否定に緊迫する)ココ、今である。

この後に最初に引用した塩の話が開陳される。« Ce sel est un ici simple et, en même temps, est multiple ; blanc, sapide, de forme cubique… » 前出ここに置かれる塩は単純にして複層する…。
特性の特質Aussi 「それもまた」に論が進む。


モノと思考をまとめ手書き図にした。弁証法が活動するのはモノ世界。しかしヒトはそのモノ実質の運動を捉えられない。キミは「朝でも夜でもないイマ」を知覚できるか?「家も木もない空虚なココ」を視覚できるか?できまい。この空っぽの実質を介在、特性、乗り越え(止揚)など普遍を付着させて、ヒト理性はモノを理解に至る。

弁証法とは、畢竟、モノ世界運動を普遍にしおとしめ可視化する仕掛けです。

« Mais l‘être est un universel, parce qu'il a en lui, la médiation ou le négatif ; quand l'être exprime cela dans son immédiateté, il est une propriété distincte et déterminée. Alors sont posées en même temps beaucoup de telles propriétés, l’une la négative de l'autre »
しかし存在は普遍である。なぜならそれは介在とその否定を内包するから。存在がその状態を即座に表現すると(今は朝と表現する)その時点で分離、特定できる。そして同時にこうした多数の特性が存在に据え置かれる。一の特性は他者の否定となる。
« Vraiment des propriétés seulement par l’adjonction d'une détermination ultérieure » (95頁)決定因の後付けによって正しく特性となる。

上の引用2文は何が何やら分からない。そこでこう考えた;本章は経時的弁証法から抜け出し、同時性の弁証法を解説している。経時は分かりやすい(今は夜が、時間の経過で朝に)、同時性の弁証法は分かりにくい。ましてヘーゲルの主張は「特性は累層するが干渉しない」。一体何が同時弁証法の起動因となるのか。

La Phénoménologie de l’Esprit精神現象学ヘーゲル 知覚モノと幻影3 の了(4月4日)

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La Phénoménologie de l’Espritヘーゲル精神現象学 知覚モノと幻影2

2025年04月02日 | 小説
IIの章  LA PERCEPTIONOU LA CHOSE ET L'ILLUSION、知覚モノと幻影 そのIの部 

Hyppolite(ドイツ観念哲学を仏語圏に紹介、ソルボンヌ哲学教授、高等師範学校長など歴任、本書の仏語版は名訳と知られる、1907年~68年フランス、写真)のヘーゲル精神現象学の紹介を続けています。


晩年の映像、高等師範学校の正面玄関を背にする

(2025年4月2日)« L'universalité étant son principe en général, sont aussi universels les moments se distinguant immédiatement en elle : le moi comme moi universel, et l'objet comme objet universel. » (同)
普遍性は存在するモノの原理、他の2の要素も普遍である。それらは私(モノに潜む個の私)、そして対象である。
(son principe のsonはl’étant存在=前文。 momentsを要素とした。前文にある特性 propriété と同一と見るが、肯定否定など弁証運動を発動する特性にこのmoments要素を用いる。Introduction導入章では弁証法の節目と訳した) 。

« les deux moments qui tombent en dehors l'un de l'autre seulement dans leur manifestation, à savoir : l'un, le mouvement d'indiquer, l'autre ce même mouvement, mais comme quelque chose de simple ; le premier, l'acte de percevoir, le second, l'objet » 2の要素が、自己表現を見せながら、互いに離れて浮かび上がる。曰く前者はモノを規定する活動、後者はその活動自体である、単純に言うと前者は知覚の行動、後者は対象。

« Selon l'essence, l'objet est la même chose que le mouvement. Le mouvement est le déploiement et la distinction des moments, l'objet est leur rassemblement et leur unification »
対象の実質を見ると、それは運動そのものです。その目的は要素を分別し展開させる、ゆえに対象は要素を集合し統一している。
続いて; « Pour nous ou en soi, l'universel comme principe est l'essence de la perception, et en regard de cette abstraction les deux moments distingués, le percevant et le perçu, sont l'inessentiel » (同)理性あるいは悟性そのモノ( Pour nous ou en soit直訳では我々ないし彼自身の律自。複数「我々」を理性、「単数」は悟性に部族民は意訳する)にすれば、知覚の実質は原理として普遍である。更に抽象を進める(知覚を運動させる)と2の要素が浮かび上がる。それは「知覚する」と「知覚される」となる、これらは非普遍である。

部族民:ヘーゲルはモノと思考に取り巻く属性を実質真実、普遍個別の概念に色分けする。モノは実質で真実。思考(理性、悟性)は本来的には(原理として普遍=前文)実質ながら、抽象化を進展させると(考え始めると)、その思考過程は非普遍(現象)に変身する。
我々、個が(脳みそに)持つ理性悟性は実質、考え始めると対象が浮かぶ。その浮かぶ対象は非実質です。前文の訳「知覚の実質は普遍、原理として」これが、知覚活動に入り非実質l'inessentielにすり替わる。
実質の知覚が行動(indiquer指し示す、抽象化する)すると「le percevant 知覚する、 le perçu知覚されるモノ」が現象の野に出る、それらは現象故に非実質l'inessentiel。
Introduction導入章では悟性が考えるとは「現象の野に己の基準を浮かべる」と説明されています。実質ながら考え始めると非実質の過程に歩を進めるーこれと同じ工程を本章で繰り返します。
次の文章が考える非実質のからくりを明らかにする。 « le percevoir comme le mouvement est quelque chose d 'inconstant qui peut être ou ne pas être, et est l'inessentiel » (94頁)運動としての知覚は、なにがしか継続してはいない。それはありうるかも、ありえないかもしれない。故に非実質じゃ!(ここに表題の知覚と幻想の意味合いが浮かんでくる)
« La richesse du savoir sensible appartient à la perception, non à la certitude immédiate, car c'est seulement la perception qui a la négation, la différence ou la multiplicité variée dans son essence » (同) 知の卓越した能力は即座の蓋然にあらず、知覚に由来する。なぜなら知覚は否定、区別、様々な累層を抽象化できるから。(知覚はモノの同時的な能動特性を峻別できる)

以上;

I部の前文では対象(モノ)は実質。悟性、知覚は人の思考(現象)活動なので非実質が強調される。では非実質(知覚)が実質(対象)を見て、何やらの判断することは可能か?その手法は ? 前文に続くI, II部で論じられる。
第一部 単純なモノの概念 Le concept simple de la chose
« Le ceci est donc posé comme non ceci ou comme dépassé. Par là le sensible est lui-même encore présent, mais non comme il devrait l'être dans la certitude immédiate, comme le sanglier visé, mais comme universel ou comme ce qui se déterminera comme propriété » (94頁) このモノはかくして「無いこのモノ」、「越えられたモノ」として置かれる。無いモノながらそれを視認させ得る能力は残る。しかし即座の蓋然であったらそのように視認するだろうが、個別のモノとして見るのではなく、普遍として、あるいはその特性から特定する形で残ることとなる。

(知覚が対象を見ると、見えるがままの姿として捉えられる。それは必ず越えられる(dépassé)仮の姿なので非普遍なのだ。特性が形成する姿、越えられるコトを前提とする姿を(知覚を発動して)捕らえよとへー減る戦線が教える。なお前文最終文にある「la perception qui a la négation……知覚は否定、区別、累層...抽象化」の意味は、知覚にすれば眼の前のモノの特性には否定され得る普遍性が含まれると読み、その引き継ぎの一文)


La Phénoménologie de l’Esprit精神現象学ヘーゲル 知覚モノと幻影2の了 (4月2日)
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