平成7年1月17日午前5時46分のショックは、今でも動揺します。この日の未明は、今年のように寒い一日でした。けれども風邪を引く間もないほどの緊張感が続きました。
その後の人々の生活力のエネルギーや人々の心の繋がりは、又と得られないもののように思います。
各自治体でも、今もって鎮魂の催しが行われ、多くの人が三々五々集まって、犠牲者を慰める企画があります。
夕方に昆陽池の会場を覗いて見ました。すべてボランテイアで行われます。
公園のサザンカは終期でしょうか。カラスの濡れ羽色と言いますが、ほんとに黒い。目玉が見えていますが、それも黒い。
伊丹空港から、ANA便とJAL便が交互に飛び立つ時間帯です。
その後の人々の生活力のエネルギーや人々の心の繋がりは、又と得られないもののように思います。
各自治体でも、今もって鎮魂の催しが行われ、多くの人が三々五々集まって、犠牲者を慰める企画があります。
夕方に昆陽池の会場を覗いて見ました。すべてボランテイアで行われます。
公園のサザンカは終期でしょうか。カラスの濡れ羽色と言いますが、ほんとに黒い。目玉が見えていますが、それも黒い。
伊丹空港から、ANA便とJAL便が交互に飛び立つ時間帯です。
早いものですね
あの朝起きてテレビを見たら異様な状況だったので
私もあの日の事はハッキリ憶えています
信じられない出来事に、何が映っているのかも暫くは判りませんでしたよ。
その時、ラジオでは被害状況は死者10数人でした。すでに8時を回っていた頃でした。
現地の皆さんは本当に大変でしたね。
もう16年経つのですね。改めてご冥福をお祈りします。
JALとANAは、こんなに接近して飛ぶのかとびっくりしましたよ。上手く合成してありますね。安心しました。
しかし、この時に政府の官邸には、報告が届いていなかったようです。死者10数名という発表では、むべなるかな。
真先にしたことは、家の周りをぐるぐると回って、異常がないかを見ました。この時異常無しだったのですが、その後の余震で瓦がずれていきました。
家の中は、掛け時計が部屋の中をすっ飛んで、本棚は半分以上が倒れ、棚でよかったことは、本がばらばらと先に落ちてから棚が倒れたことでした。布団を被ってもぐりこんでいた上に本が全部落ちて助かりました。
暫くそのままで、じっとしていると、家内がしきりに呼んでいました。
台所の水屋が、ゆれの方向の関係で扉が開かなかったことも幸運でした。
犠牲者6434人にもなると、知り合いの人も4-5人います。
不思議な感情ですが、自宅が倒れなかったのが、皆さんに悪いという気分が湧いたことでした。いっそのこと自宅も潰れると気が楽になるような気がしたことでした。
当時鎌倉に住んでいましたが、父と電話が通じたのは3日後でした。
その4日後万難を排して関西入り、息子たちの手を引いて・・・・
変わり果てた故郷を見て、涙も出ませんでした。むしろこれだけの被害があったのに、人々が助け合って立派に生きていることに感動しました。
人によって色々な思い出が錯綜するこの日ですが、関西の人たちは自分たちを誇っても良い、本当にそう思っています。
阪神の魚崎から、阪急の御影まで歩いている時、何から手をつけていいか判らない絶望の空気の中、震災で廃墟になった街並みで、道行く人たちに提供されていたコーヒーの一杯がどれだけ励みになったことか。
悲しさなのか、人の心の支えあいに嬉しいのか、涙ぐんだものでした。
繰言を書いてしまいました。