義経の屋島での奇襲作戦は、ここから始まった。ここ阿波国勝浦の海岸に上陸した。道の突き当たりに白い碑が建っている。
摂津の国渡辺(大阪北部)から、嵐の中を僅か5艘の船で出帆した義経は、今で言うと小松島市勝浦川のほとりに上陸した。普段なら3日の行程を、嵐の風の為に半日で着いたという。
平家物語によれば、沖に義経一行の船が見えるや渚には平家方の赤旗が見える。
義経判官
「すは、われ等が設けをばしたりけるぞ。渚近くなりて、馬ども追ひ下さんとせば、敵の的になりて射られなんず。
渚近くならぬ先に、船ども乗り傾け、乗り傾け、馬ども追ひ下し、追ひ下し、船に引きつけ、引きつけ泳がせよ。
馬の足立ち、鞍爪浸る程にもならば、ひたひたとうち乗つて駈けよ、者ども」
とぞ下知し給ひける。
五艘の船には、兵糧米積み、物の具入れたりければ、馬数九十余匹ぞ立てたりける。
この後、義経の上陸作戦が功を奏し、渚の百騎ばかりを蹴散らし、棟梁の近藤六(こんどうろく)親家を味方につけ、道案内として屋島へと向った。
上陸の地から100m程のところに、源氏の旗をなびかせた「旗山」が前方に見える。手前の田んぼは、当時は海であったと思われる。
義経ドリームロードの標識は徳島県が立てたものである。丘に上がる石段がある。
丘の頂から、海を見るポイントだが、もうすべて陸地であって海岸線ははるか遠くに行ってしまっている。
義経像がある。足元から頭まで5.35m、弓の先まで6.70m、現存する騎馬像では日本一の大きさと言う。
案内に沿って高みに上がる。
弁慶の岩屋という古墳がある。
村の史跡として護られている。
摂津の国渡辺(大阪北部)から、嵐の中を僅か5艘の船で出帆した義経は、今で言うと小松島市勝浦川のほとりに上陸した。普段なら3日の行程を、嵐の風の為に半日で着いたという。
平家物語によれば、沖に義経一行の船が見えるや渚には平家方の赤旗が見える。
義経判官
「すは、われ等が設けをばしたりけるぞ。渚近くなりて、馬ども追ひ下さんとせば、敵の的になりて射られなんず。
渚近くならぬ先に、船ども乗り傾け、乗り傾け、馬ども追ひ下し、追ひ下し、船に引きつけ、引きつけ泳がせよ。
馬の足立ち、鞍爪浸る程にもならば、ひたひたとうち乗つて駈けよ、者ども」
とぞ下知し給ひける。
五艘の船には、兵糧米積み、物の具入れたりければ、馬数九十余匹ぞ立てたりける。
この後、義経の上陸作戦が功を奏し、渚の百騎ばかりを蹴散らし、棟梁の近藤六(こんどうろく)親家を味方につけ、道案内として屋島へと向った。
上陸の地から100m程のところに、源氏の旗をなびかせた「旗山」が前方に見える。手前の田んぼは、当時は海であったと思われる。
義経ドリームロードの標識は徳島県が立てたものである。丘に上がる石段がある。
丘の頂から、海を見るポイントだが、もうすべて陸地であって海岸線ははるか遠くに行ってしまっている。
義経像がある。足元から頭まで5.35m、弓の先まで6.70m、現存する騎馬像では日本一の大きさと言う。
案内に沿って高みに上がる。
弁慶の岩屋という古墳がある。
村の史跡として護られている。
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