大阪城の南大門からまっすぐに南へ下がると、四天王寺に至る。
徳川家康がこの近くの茶臼山に本陣を構え、豊臣家を滅亡させようと夏の陣を挑んだのがこの高台である。人はその高台を上町台地という。
そして、ここから見る夕日は西方浄土につながるものとして、極楽を夢見る場所となった。夕陽丘(ゆうひがおか)である。
聖徳太子は蘇我・物部の戦いで勝利を治めるなら寺院を立てて仏教を崇めようと誓いをたて、ここに大きな寺院を建てた。四天王寺である。
四天王寺の建立当時は、寺の直ぐ西は大阪湾に望み遣唐使船などが出入りをしていた。外国の使節のための玄関でもあった。
南紀で世界遺産になった熊野詣での古道は、ここ四天王寺から出発する。
左:四天王寺式伽藍で仁王門・塔・金堂・講堂と南北に直線に並ぶ。
右:仁王門の前に玉垣に囲まれて、石灯篭が立っている。熊野権現を遥かに望んで遥拝するところである。
北鐘堂の前の丸池に臨んで桜紅葉である。池の中の小さな白い点は、クロモの花である。
池の手前にあった桜が見事であった。今年ほど桜紅葉を意識したことはなかった。
西重門と極楽門との間の空間にあって、この立派な公孫樹はいまだ青年期の樹齢だろうか。
四天王寺の極楽門を西へ行くと、勝蔓院(しょうまんいん)通称「愛染さん」がある。
愛染(あいぜん)明王は愛欲煩悩そのものが悟りである事を表す明王といわれる。全身赤く、三つの眼・六本の腕で忿怒の相をして、弓矢を持つ。密教である。
いわば、悟りに近付くのに、仏と人の間を愛をもって成し遂げようというものである。
本堂にしな垂れ懸かる楓が赤い。愛染さんから見る夕日が古来から美しく、日想観を夢見るビューポイントであったという。
日想観とは、沈む夕日に西方の極楽浄土を念じ続けると、やがて目を閉じても、瞼には浄土の光景が焼き付いてくるという教えで、本blog11/11永観堂の項に詳しい。
この台地から平地に下がる何本かの坂道がある。愛染坂もその一つである。「坂のある風景」とか洒落ているが、坂は足が痛い。大阪で坂のできる唯一の台地だろう。
徳川家康がこの近くの茶臼山に本陣を構え、豊臣家を滅亡させようと夏の陣を挑んだのがこの高台である。人はその高台を上町台地という。
そして、ここから見る夕日は西方浄土につながるものとして、極楽を夢見る場所となった。夕陽丘(ゆうひがおか)である。
聖徳太子は蘇我・物部の戦いで勝利を治めるなら寺院を立てて仏教を崇めようと誓いをたて、ここに大きな寺院を建てた。四天王寺である。
四天王寺の建立当時は、寺の直ぐ西は大阪湾に望み遣唐使船などが出入りをしていた。外国の使節のための玄関でもあった。
南紀で世界遺産になった熊野詣での古道は、ここ四天王寺から出発する。
左:四天王寺式伽藍で仁王門・塔・金堂・講堂と南北に直線に並ぶ。
右:仁王門の前に玉垣に囲まれて、石灯篭が立っている。熊野権現を遥かに望んで遥拝するところである。
北鐘堂の前の丸池に臨んで桜紅葉である。池の中の小さな白い点は、クロモの花である。
池の手前にあった桜が見事であった。今年ほど桜紅葉を意識したことはなかった。
西重門と極楽門との間の空間にあって、この立派な公孫樹はいまだ青年期の樹齢だろうか。
四天王寺の極楽門を西へ行くと、勝蔓院(しょうまんいん)通称「愛染さん」がある。
愛染(あいぜん)明王は愛欲煩悩そのものが悟りである事を表す明王といわれる。全身赤く、三つの眼・六本の腕で忿怒の相をして、弓矢を持つ。密教である。
いわば、悟りに近付くのに、仏と人の間を愛をもって成し遂げようというものである。
本堂にしな垂れ懸かる楓が赤い。愛染さんから見る夕日が古来から美しく、日想観を夢見るビューポイントであったという。
日想観とは、沈む夕日に西方の極楽浄土を念じ続けると、やがて目を閉じても、瞼には浄土の光景が焼き付いてくるという教えで、本blog11/11永観堂の項に詳しい。
この台地から平地に下がる何本かの坂道がある。愛染坂もその一つである。「坂のある風景」とか洒落ているが、坂は足が痛い。大阪で坂のできる唯一の台地だろう。