僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(2019/12/17)父とのこと。

2019年12月17日 10時45分15秒 | 両親のこと、入院のこと
先週の土曜日(14日)に実家に行く。
以前から、父が窓ガラス拭き、冷蔵庫の整理、オーブン等の掃除、押入れの整理など
やってくれないか、と切望していたので、日頃親孝行のできていない自分はその日を
有休にして行くことにしていた。

88歳の一人暮らしの老人。
1人娘はいたとしても、滅多に帰らない。
この字面を見ただけでも「親不孝」のレッテルを貼られるであろう。

最近は、以前のような、自分に自信あり、の姿を見せていない父である。
だが、会えば、またお金の話になるので
その話を避けるように、私達夫婦は仕事が終わって去っていく。

数年前(地震後)、父が大腸癌で入院した時に
看護していた私に、突きつけたことは
「遺産相続の放棄をしてくれ」だった。
父の言われるままに、念書を書き、実印まで押した。
それをもとに、父は遺言書を書き、親類の税理士に相談し、
遺留分だけは渡そう、ということになったらしい。
あの時、父は、私や夫の世話にはならない、とはっきり言った。
「実家」も親類のものになる、ということも先日言っていた。

父の血を引いていない自分、ということを感じた日々だった。
亡き母は、私の生母の妹ということで、幾分か血は引いているが(叔母、姪の関係)
養子縁組をした当初から、生母の負い目があったため(経済的に、病気の私を育てるのが困難だった。子供のできない妹夫婦との
養子縁組の話になった)、小さい時の現在の母親の言葉がいつも突き刺さっていた。
「あんたは、富良野(当時住んでいた所)にいたら、とっくのとうに死んでいたんだ!」

小さいながらも、その言葉はよく理解できた。
が、小さいからどうすることもできなかった。
黙って従って、学校に通っていた私だった。
かと言って、生母を恨むという気持ちにもならなかった。
函館にいた時に
「富良野の母さんは今頃、お金に困っているかもしれない。」と
封筒に10円玉とか5円玉を入れて送ったことがある。
その時の自分を考えると、「優しい子だね。大きくなったら、きっといいことあるよ。頑張って生きるんだよ。」と
声を掛けてあげたい。
実際にそう激励されたら、私はもっともっと人の気持ちを理解できる人間になっていたかもしれない。
だが、現実にそううまく行くものではない。

父は
「もう、今の仕事を引退して、少しはこっちの面倒を見ないか。日当は出すから。」と言った。
あの「お前たち夫婦に絶対世話にならない。」という言葉はどうなった?
私の勤務先の電話を聞こうとするが、「連絡は携帯に。」と私は言った。
まあ、調べればすぐに勤務先の電話はわかるのだが。
先日の「父が階段から落ちて~」の緊急の電話が入った時は私は家にいた。
これから何かあるかもしれないから、というが
父よ、
私の世話にならない、と言ったではないか。
あなたの周りに
たくさん、いざとなったら動いてくれる人がいるじゃないか。
それなりのお金を渡しているでしょうに。
免許返納して、車も知人の息子にやったでしょうに。
すぐ駆けつけてくれるはず。

以前父に会った時に
「下着を買うのにも不便だ。なかなか、サイズがない。」ということで
街の中には大きなスーパーがあるので、「お安い御用」と
私は父の望む下着上下をたくさん買って
先日持っていった。
「日頃、親孝行できていないから、お代は結構。」とプレゼントした。

来年正月にはまた実家に行く。
その、車をやった家族らも参加する。
今から、何を作ろうかと考えている。
夏に、ホタテ炊き込みご飯を持っていったときに
父が、美味しいと食べていたのでそれもまた作って持っていこう。







コメント
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