ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

昭和家庭史 名古屋編(4) 東京に戻る 槌音高く帝都復興 

2005年11月11日 | 昭和家庭史
「当時、幾十年後でなければ東京は廃墟のまま残るだろうと、庶民の間で噂されたその東京には、僅か4か月で『ウチは焼けても江戸っ子の意気は消えない 見 ておくれ、オヤ、まあ、アラ、まあ忽ち並んだバラックに夜は寝ながらお月さま眺めて ええぞ ええぞ・・・・』と云う街頭演歌師の唄に象徴されるまでに 「復興」したのである」(辰雄回想記) 各地に散っていた関東大震災被災者が続々と東京に戻りはじめた。


東京市誌などによると11月にはすでに11万戸が焼け跡に戻っている。
いたる所で建設の槌音が響き、バラックが建てられた。
 大正13年の正月。光男の手紙によって長兄の宗太郎が東京から名古屋へやってきた。
 父松次郎も京都から名古屋へ戻った。
光男も姿を見せて4か月ぶりに親子は再会した。
家族協議の末、辰雄は「宗太郎の弟子」という形で東京に戻り本郷の中村硝子所で働くことになり松次郎と一緒に戻ることになる。光男と宗太郎もほどなく東京へ戻る。
名古屋で被災の翼を休めた感じの兄弟は東京でそれぞれの歩みを刻んでいく。
 名古屋編の結びにあたって、3人に同情しながら静かに行く末を見守ってくれた松次郎と親族との最初の出会いを記録しておきたい。
明治35年に松次郎はつる女との婚姻届けを本所吉岡町に出している。
同年、宗太郎が出生。
3年後に光男、5年後に辰雄が本所三笠町で生まれている。
つる女が事情があって東京本所方面の餅菓子屋に勤めていた時に、近くに住んでいた松次郎が見初めた。
つる女の家は厳格な浄土真宗の寺であり、長兄は僧侶である。
当時、宗派を別にした婚姻などはもってのほかの時代でもあった。
ところがつる女に惚れた松次郎は歴代続いてきた法華宗をたちどころに改宗して俄か門徒になりすまし、つるとの結婚にまでこぎつけた。
だが大正6年(1917年)の4月に病弱で寝たきりの状態になっていたつるはカリエスで死去。
当時の光男は小学校に通いながら丁稚奉公として中村硝子所に勤め、弟の辰雄は寺島の小学校へ入学したばかりだった。
震災での疎開先の地の名古屋はつるが育った地であり、一家が頼る場所は名古屋以外にはなかったのである。

 彼らが戻った当時の東京事情の一断面を俯瞰する。
 震災直後から「帝都復興事業」という名の都市計画によって復興が始った。
その陣頭指揮には大風呂敷という異名をとった後藤新平があたった。
焼け跡の「土地区画整理」対象区域は、麹町、神田、日本橋、京橋。芝、本号、下谷、浅草、本所、深川などで東京市が50地区、国が15地区の区画整理をこの時実施した。
後藤は帝都復興計画では30億円という予算を要求したが、大蔵省による削減、議会の反対により5億円強になったため、その構想は当初よりは小型なものとなってしまったが、いまの内堀通り、靖国通り、昭和通りなどの目貫通りは実現しその後の東京の骨格を形成した。
虎ノ門事件(大正12年12月27日)により内閣総辞職となり、後藤新平の在任期間はわずかであったが、震災復興への彼のもたらした影響は大きかった。

 この虎ノ門事件とは難波大助というアナーキストが摂政宮裕仁(昭和天皇)を虎ノ門付近において狙撃した事件である。
弾丸は窓ガラスに3センチほどの穴をあけたが天皇は無事だった。
関東大震災では大杉栄暗殺や、朝鮮人虐殺、亀戸事件などのテロの嵐が一方にあり、それに憤激したアナーキストが報復によって抗議をしようとしたもので犯人の難波の父は衆議院議員でもあった。
天皇狙撃の責任をとって山本権兵衛内閣は即日総辞職。
湯浅警視総監は懲戒免官。
また警護の連座責任を負わされた正力松太郎警務部長も免官となった。
正力はこの後、震災で瀕死の状態になっていた読売新聞の経営を預かることになる。
読売を立て直した正力の事業企画の一つにラジオ版の新設があった。
新聞と競合する同じメディアを宣伝することに社内には多くの異論、反対があったがしかし正力はこれを抑えて断行、狙いはあたって部数は急伸した。
後述することになるが光男がNHKラジオドラマ応募当選となった時のドラマの作品紹介と光男への探訪記事が読売新聞であったことはこのことと無縁ではない。


 今後、東京に戻っての昭和家庭史は光男編、キミ編、辰雄編を別々に綴りたい。
光男編は主にキミさん(光男 妻)の回想を、辰雄編は彼自身の回想記を主軸にしながら再構成してみたい。
帰京後の光男は同人誌「嘴」(くちばし)に参加するなかで、もの書きへの関心を高め、築地小劇場へも通い演劇などにも深入りしながら生業は理髪店においている。この間、キミとの新婚生活もある。

キミについては、形見などの整理から
「私の事でんを書き残しておく」というのが出てきたので、これは原文のまま 彼女の生い立ちや光男との結婚までなどを綴りたい。
耳タコのすがすがしい”恋愛秘話”も紹介したい。


一方の辰雄は結核療養からやがて非常時共産党(松本清張はこの時期を新生共産党と名づけている)の一員となり赤旗配布の全国責任者として非合法生活に入りやがて逮捕、投獄となる。
ある時期の共産党私史になりそうだが貴重な回想録があるのでこれも原文のまま紹介し、ジッタン・メモで補いたい。

ともあれ、昭和初期を歩んでゆく二人の兄弟の人生交錯は、その生きる姿勢と基本的な力量において学ぶ点が多々あると思うので、後世の我が係累のみなさんは、しっかり読んで欲しい。

一庶民の昭和家庭史をご拝読いただいた方には感謝申しあげます。ありがとうございます。

 写真は 昭和5年頃の銀座付近(「帝都復興写真帖」 東京市発行)

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