ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔14 七五の読後〕 <読む> 【江戸の備忘録】 磯田道史 文春文庫

2014年02月15日 | 【2014 暮らし雑感】

【江戸の備忘録】 磯田道史 文春文庫

江戸期などの古文書に目を通してそれを楽しめる著者の生活は幸せだ。
読みこなしの能力も羨ましい。

私も「くずし字500選」(柏書房)で、旧漢字をなぞり、古文書を読める生活をと思っているが、存外これが難しい。
しかしネット時代の進展に伴って、国立国会図書館など公の施設で画像にした文書が多くなってきている。
古文書を読む機会は10年前と比べれば雲泥の差だろう。

この狭い日本にいて、同じ日本人としてたかが200~300年ほど前の文書を読めないとは情けない、と自戒して朝40分は机の前に座るようにしている。

この「江戸の備忘録」は古文書をよみこなして書いた肩の凝らない歴史エッセーとなっている。
備忘録なのだから、私も勝手な読後のメモを残そう。

● 脇差を口に咥えた蛇探し
少年信長が大蛇の出るといわれる池の水をくみ上げさせ、自ら池に入って大蛇を探したという。
大蛇の祟りなどあるものか。
持ち前の好奇心が働いた果敢な行動。

叡山焼き討ちも、仏罰などあるものか、なのだろう。
映画「清洲城」にも従者として登場していた黒人も好奇心からの採用か。
本能寺の変にも傍にいたとされるあの黒人はその後どういう運命に弄ばれたのだろうか。

● 鶴松を抱いたその夜にお忍びも

鶴松は秀吉と茶々との間に生まれた長男。
この時、秀吉52歳、お茶茶20歳。
秀吉は鶴松にも茶々にも眼がなかったようだ。
ただ秀吉は信長が蘭丸への如きの趣味はなかったようで、美形の小姓が仕えると
「そちに姉か妹はいないか?」と訊いたという話はなにかで読んだ記憶がある。


● 寅年を卯年に継いだ世継ぎの座

徳川家康の干支は壬寅。
秀忠は卯年生まれで家光が辰年と、ものは順に行っている。
ただ家康が秀忠を継嗣資格としてどう思っていたか。
今川義元の姪であった築山御前との間にできた信康は武将の資質から言っても
目に適う継嗣だったろうし、豊臣家へ養子にいった結城秀康も実質的な世継ぎとして呼ばれていたらしい。

でも、結局、十二支の順番で父から子へ継承となった。
人事というのは、わけのわからないところで決まるとは著者の感想。

● 早起きは将軍、大名、天皇哉

徳川歴代将軍は午前5時には起床していたという。
天皇の起床は昔から午前八時頃だったらしい。

★ 為せば成る、為さねば成らぬ何事も

米沢藩主の上杉鷹山が家臣に
為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」
と家臣に詠み与えた話は有名。
私も幼年時代に、親から耳タコで聞かされた。
似たような言葉もある。
やってみせ 言って聞かせて させて見せ ほめてやらねば人は動かじ
山本五十六の語録。
鷹山は、「してみせて、言って聞かせて、させてみよ」と同じようなことを言っていたようだ。

「やってみせ」て「ほめて」のリーダーが少数派になっている社会のように感じられるが、どんなものだろう。

 捨てる神 拾う神あり金次郎

二宮金次郎は3町八反の地主でもあったそうだ。
私の小学校玄関前にその銅像があったが、薪を背負って本を読む姿から本だけが取り除かれていた。
当時の校長の「こどもの眼が悪くなる」が理由だったらしい。

小田原藩の家老家の財政再建を成功させたり、この人の波乱の人生には教育的逸話は多い。
「くずし字解読辞典」や近世史の大家・児玉幸多に「二宮尊徳」を著した本があることがわかった。
是非、読んで見たい。

● お名前は右衛門、兵衛に佐衛門ら

伊勢崎106人の名前を調べたところ右衛門31% 兵衛12% に 佐衛門11%が名前分布率。
朝廷の衛士官名からお百姓さんが選んでいたようだ。

江戸時代の女児の名では
はる15人 はつ14人 きく14人 はな11人 なつ、とく、まつが10人。
これに比べると今の女児の名前はムツカシイのが多い。

● 内蔵助 院居士 義士はほとんど信士也


戒名「信士」は下級武士のほか、農民、町民。やがての自分もそうなるだろう。
大名になると院殿大居士となるそうだ。

● 百姓は墓に名字を刻んでた

水戸藩は百姓の位牌石碑に苗字書きを認めていた。
「孝道へも拘り候ゆゑ」
尊王攘夷の激派右翼の藩だけではなかったのだ。



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