ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔江戸の古町へ〕(5)【東京百年史】東京百年史〈第1巻〉 その4 古町できはじめ  東京都

2010年04月14日 | 〔江戸の古町へ〕
勤め先の新聞社が、銀座とその後に移った大手町だったから有楽町のガード下や神田駅前の居酒屋などは仕事を終えたときのけっこうなたまり場だった。 あれから40年。 神田には古い地名がいまでも残っているが、江戸の古町とは因縁浅からぬものがあるようだ。



 ■■ 国役と公役町

● 外堀の町屋が移った日本橋
● 城中にあった寶田、祝田、千代田村

江戸城修築のとき、現皇居にあった寶田村や祝田、千代田村が城拡張に伴いそろって移転する。
寶田村があったのは紅葉山文庫と云われた場所で,のちに家康以来の収集した書物や献上本などを所蔵されていたところだった。
古町名主として名高い寶田村の馬込勘解由が村一同といまの小伝馬町辺りへ移る。
ここでは毎年秋に「べったら市」が開かれ浅漬け大根が売られ、あわただしい年末へ向け露店もでて賑わいを見せる。
宝田村の鎮守様を奉安してある宝田恵比寿神社から目と鼻の先のビル一角に私も出向していたので、寶田の名前は懐かしい。
こうして古町は日本橋(大伝馬、南伝馬)京橋(小伝馬)へ移住。
勘解由は三伝馬町の起立に尽力し、古町名主として伝馬役の元締め役だったことはブログに既述。

● 国役は職人町の61町
江戸城修築の時期の古町は国役、公役の負担を負う。 城造りと市街地の需要を満たす職はなんだったのか。
メモ。
御染物、鉄砲、鍛治、研、石工、鋳物、菓子、肴、畳、桶、材木、運送、伝馬など。

● 古町は公役銀を上納し
草創時期の古町名主30人は国役請負者と重複していたという記録がある。
名主は地子(税)を免除された代わりに公役、国役を負う。
江戸近郊の宿場でも本陣などは地子が免除され、代わりに傳馬継人などの公用は義務化される。
いわば税金免除の代わりに商品納品や一定期間労働に従うことがあった。
江戸城内の修築の際、人足を集め徴用したりできない場合は銀納で代替する。
のち享保7年にはこれがすべて銀納となったようで公役銀と言われた。 その対象は当時で728町だったという。

●鍛治町の地名が語る江戸の町
現在のJR神田駅周辺には手業のすぐれた職人が各地から呼び寄せられ職人町が生まれた。
開府当初に家康の本国であった三河や京都から職人を呼び寄せた説もある。
いまのJR中央線の線路の東側の神田駅前繁華街の鍛治町もそのひとつだ。  
高井五郎兵衛(高井伊織)という拝領屋敷を持った鍛治頭がいて多くの鍛冶師、鋳物師、釜師を差配した。  
昭和20年代のここの区画地名には、黒門町、上白壁町、下白壁町、紺屋町、鍋町、塗師町、新石町、竪大工町などの名前がまだ残っていた。これらの名前から累々と歴史を刻んできた職人の町、江戸っ子の町が浮かんでくる。
寛永期までにできた古町は町数300になるという記録が千代田区史(上)にあるそうだ。

● 魚屋もにぎわい見せた鎌倉河岸
地下鉄丸の内線大手町駅を出て、日経社のほうに向って歩くと、外堀に架かる鎌倉橋に出会う。
真上には、首都高が走っていていまや何の風情もない。
たしか、あすこには白い木の札で鎌倉河岸のいわれが書かれたものがあったはずだが・・・。
江戸城の遺構の上にできている皇居はここから近い。
鎌倉河岸というのは西の神田橋から、東の常盤橋の辺りまでを指すらしい。
家康が入府に際して、城の構築用石材を鎌倉から取り寄せてここから陸揚げしたので鎌倉河岸と呼ばれた。
江戸城本丸に近い地の利もあって殷賑を極めた。
「豊島屋」の白酒が名物だったらしいが、河岸で魚屋も繁昌していたようだ。
酒ばかりでなく、荒物屋、金物屋など河岸に並んだ店は、江戸の古町の彩りに華を添えていたようだ。

■■寺社の移転と寺社門前地

● 入府から多くのお寺がお引越し
入府と城拡張ということで城内域にあった寺社は移転しなければならなかった。
 山王社(現日枝神社)は、開府の際には、江戸城の鎮守、徳川家の産神として紅葉山辺りにあったが慶長年間の江戸城拡張に伴い移転。
また吹上御苑のあたりが入府当時は局沢といわれた所で、そこに局沢16寺という寺院一帯があった。
江戸城拡張に伴ってそれぞれの場に移転してゆく。
このなかの本妙寺は振袖火事で有名だが、巣鴨に来る前は丸山本郷にあったはずだ。
巣鴨の本妙寺下の姉の家に私は下宿していた。
それぞれの寺社も変遷があったらしい。
外郭の寺社も駿河台下や下谷方面へ移築。
ただし新寺も天正18年~嘉永3年までに40ばかり起立したそうだ。    

局沢16寺

* 日蓮宗 法恩寺 墨田区太平
* 日蓮宗 大法寺 江戸川区平井
* 日蓮宗 本妙寺 豊島区巣鴨
* 日蓮宗 浄心寺 江東区平野
* 日蓮宗 本行寺 荒川区西日暮里
* 浄土宗 善徳寺 台東区浅草
* 浄土宗 聖徳寺 台東区松が谷
* 浄土宗 浄土寺 港区赤坂
* 真言宗 地蔵院 台東区元赤坂
* 真言宗 多聞院 新宿区弁天町
* 天台宗 東光寺 台東区西浅草
* 禅宗  祝言寺 台東区松が谷
* 禅宗  青雲寺 荒川区西日暮里
* 禅宗  祥雲寺 豊島区池袋
* 禅宗  宝泉寺 中野区上高田


● 浅草寺 徳川家の祈願所に
 
浅草観音で慕われている金龍山浅草寺は古刹だ。
天正18年(1590年)、入府の家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えたという。
入府の頃の百姓地からだんだん門前町に変化していった。


■■ 沽券地の発生

● 町奉行 膝下においた町並地
江戸城城下町整備後には常磐橋から浅草橋にかけて奥州街道沿いに本町通りができた。
こうした江戸近傍の百姓地の町並みの人別は、町奉行が管轄し、年貢は幕領であれば代官へ、私領であれば領主へ収めた。
幕府は、こうした市街地にある町並屋敷には売買譲渡に関し制限を設けなかった。
永代売買の公許地でもあった。
その売買証文に年寄・五人組が加判したものを「沽券」といったことからこれらの地は沽券地とされたそうだ。
もう死語に近いが、わたしたちが子供の頃まで「沽券に関わる話だ」というようなことばが大人の会話にあったことを思い出す。
この町並屋敷 → 沽券地 → 町屋敷売買は慶長期(1596~1614)から行われていたから開幕の頃から定着しつつあったようだ。
各町ごとに一枚の絵図とし道路や上水などを記し、個々の町屋敷ごとに、間口、奥行寸法、沽券金高(売買価格)、地主名、家守名などが記入されていたそうだ。
無論、大名や旗本の拝領屋敷、御家人や御用達町の拝領屋敷などは非沽券地だから売買はできない。
四谷伝馬町の古記録があったのでメモ。
 「其後追々 家持共及困窮 地所売渡、沽券町屋敷ニ相成」

● 似非五人組手形で屋敷売買も
明暦2年の町触には 「町中で家屋敷を買った者があれば、名主、五人組がよく調べて加判し沽券状を受取れ」 と、偽の手形が出されたことが出されたことで注意があった。
古今変わらぬ悪質不動産業の横行があったか。
この沽券地がひろがって新地主層が増えたという。







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1 コメント

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公役銀上納の筋道 (黒岩博之)
2012-05-14 20:08:53
江戸期の国役・公役が体系的に説明された資料がありません。千代田区史上巻702頁に麹町12丁目公役銀上納について、143間3尺、1ヶ年15遍勤めの積もりとして子の人足300人、此の賃金600目、2割割引として、銀160目、一年に3度ずつ、奈良や御役所へ上納とあります。その先、勘定奉行、勘定吟味役が確かに受け取ったとの記録が見つからないのです。分かりましたらお願いします。
kuroywa@mb.infoweb.ne.jp
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