ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔昭和家庭史〕光男終戦日記(7) 昭和20年10月

2006年12月18日 | 昭和家庭史
10月3日
 今日から大工が入る。
 一日で床と腰板を仕上げる。

10月4日
 終日豪雨。
午前中暑く、午後寒し。
 店工事大分はかどる。 材料不足の爲か、大工、不機嫌。いばり散らす。 癪に障ったがぢっと耐える。
 交番から、呼び出しがあり、身元調査をされる。

10月5日
 今日も豪雨。
大工休む。店の天井を下張りする。

10月6日
 快晴。
 店の造作殆ど出来上り、今日は流しの台と、テーブルにかかる。
 前原さんから万年青を貰ふ。 丸尾からもらった「正木不如丘集」(注1)を八円で売り、「青果全集」(注2)を十三円で買ふ。 是で蔵書として
     ”青果全集 4”
    ”同      8”
   ”久保田万太郎集”
    ”田山花袋集”
    ”志賀直哉集”
    ”岸田国士集”
    ”江戸から東京へ”
合計七冊となった訳だ。いづれも、終生の友とするつもり。

10月7日
小春日和。
 店と奥、大工の手が今日抜ける。四日間で百二十円。チップ十円。その代わり、店は生まれ代わったやうだ。


10月8日
 今日も又雨だ。
 口返し、仕事が拙いとて、苦情を云われる。
お盆前の仕事を今になって云われたのだ。実際、下手な仕事だから云われても仕方が無いが、注射器屋たる亦難き哉だ。
 店が綺麗になったのを機会にいっそ止めて了ほうかと思ったが、この冬を眼前に控えて、一寸冒険でもあり君子、千代子さん、吉田さん等も賛成しないので、思い直す。
但し、将来注射器屋となる希望は、今日限り捨てた。
只、生活の手段として-------。
 昨日、工場の筑波山行に参加しなかった爲、今日土産代として金五円を貰ふ。

10月9日
今日も亦台風模様の雨。
夕方から寒くなる。 店、壁の下ばりとペンキ下塗りを終わる。
是で流しさえ来れば落成届けをするばかり。
 うまく行けば”十二日”開店とならう。
工場も大して面白くなし、店は開店以来の閑散で二人きり。
天気は悪し。
憂鬱なり。

10月10日
 今日も雨。
うすら寒し。 店暇。
 工場に、もといた男が来て、”口返し”(注3)をやって見せる。
肉が薄く、貧弱な形だが、その手際の鮮やかさには感心した。
 一日に千三四百との事だが、上には上があるものだ。
 但し、あのやり方は五CCまでしか應用出来まい。

 10月12日
 今日も口返しの部分注意される。
外見は別に何でも無いのだが、尻から棒を突っ込んで見ると成程と肯はれる。
然し、もう自分にもやり方の自信がついたから、今日は朗らかな気持でゐられる。
    ○ 組合長の所へ君子が中間報告に行く
    ○ 交番へ落成届けを出す。

10月14日
 月曜日。晴。
一日店をやる。
 タイル流し出来て来る。八十円位かと思ってゐたら二百五十円とられたには、実に呆れ返って了った。
 然し、是で店もやっと出来上がった訳である。
夕方、英生と銭湯へ行く。

10月15日
 久しぶりで會社から電球の配給あり。
 今日、最後のペンキ塗りを以って店の工事完了。
     ○ 工場長から肝油一瓶貰ふ。
 映画、”伊豆の娘達”を見る。久しぶりで明朗な映画を見る。
心から楽しめた。
五所平之助健在なり!(注4)

 昭和20年10月17日(注5)
 今日、吉田さんへ支払いを済ます。
流しが予想外に高かったが、吉田氏の方は予想外に安かった。
結局、全部で千円一寸で済んだ。

一、 木材 三百五十円也
一、 大工 百三十円也
一、 ペンキ 五十円也

小計    五百三十円也
一、 椅子 二百円
一、 流し 二百五十円
一、 硝子戸   十円
一、 バケツ  二十円
一、 電球   二十円
一、 紙      十円
一、 カップ   六円
一、 代書    五円
一、 組合長礼  十円
一、 吉田氏礼 十五円

合計 壱千〇五十六円也
追加 洗面器  三十五円
合計 壱千九十円也   

10月18日
吉田さんへ、礼として、下駄、タオル、煙草を持って行く。

10月19日
今日、店の硝子戸の紙を全部はがして了ふ。
もう許可になることが確定したからである。
君子一人で、十八円取った。

10月21日
日曜日。一日中雨。  
店、夕方まで多忙。
釣りも行かず、読書もせず、画も描かず、勤労の一日であったが、大分雑用も片付いたし、店の許可の方も見込みが立って、一安心したせいか、昨夜は宵の口から近来になくよく眠って了った。[
そのせいか、今日は終日元気だった。

10月22日
稲吉へ、知らばくれて、大豆の照會状を出す。
 鉄箒欄へ「砂糖より米」の一文を投書する。(注6)

10月23日
工場を休む。酸素のことで面白くないからだ。
 午前中店一人。二階の壁はり。箱作り等。
午後より夕方まで多忙。十二円五十銭。

10月24日
今日も工場を休む。
一日ゆっくり休養しやうと思ってゐたが、、忙しくて夕方まで働きづめ。見切品の芋一俵五円で買ふ。食べるのが一貫目もあればと思ったのだが、腐っているのは二、三本。大もうけをした。
 店の許可まだ来たらず。
 早崎君、辰雄に返事を出す。

10月25日
 今日も亦、芋の特配一俵六円で買ふ。
二日間で二俵、十一円、二十四貫とは、正に特筆に価する。
是で米一斗五升分位に当たる訳だ。

10月26日
 丸尾より、女児生まるとの報来る。
去る二十二日の由。

10月28日
 日曜日で會社は休み。
店、開店以来の多忙。廿六円。
 夏、心配していたが、この店は、冬は実に暖かく、とても晴天の日は気分が良い。

10月30日
心身共に疲れた。會社を休む。
午前中、店をやる。
午後、鈴木と釣りに行ったが、風が出たので、直ぐ帰って来る。
夕方、英生と駅前の銭湯へ行く。

10月31日
 昨夜熟睡したので今日は元気だ。
 警察へ許可の催促に行ったら今日も駄目。
結局手続きを最初からやり直しとなる。
田舎の警察なんか、実にだらしないものだ。
 兎も角店はどうやら出来上り、奥の方も、幾らか形がつき、炊事用具も一通り揃った。
愈々、明、十一月一日から、眞の意味での更生第一歩の生活である。
思へば感慨無量だ。
 無理せず、悠々とした気持で、明日からの新生活を踏み出さう!。

■■ ジッタン・メモ
(注1)
  正木不如丘(まさき ふじょきゅう)(1887~1962) 小説家・医学博士。医学ミステリ『髑髏の思ひ出』『県立病院の幽霊』(大15)なども書いている。
昭和初期、日本で唯一の『高原サナトリウム』富士見高原療養所の設立に生涯を捧げた人。、
患者の中には堀辰雄など文学 者や芸術家も少なくなかったといわれる。

 (注2)
「青果全集」とは 明治から昭和にかけて活躍した劇作家の真山青果(本名、真山彬 1878-1948)の全集を集めたもの。
 昭和7年、光男はNHKラジオドラマにも応募当選(既記)するなど、特に戯曲に関心が強かったが、フランス近代戯曲劇とともに、国内では青果の作品が好きだった。

(注3)
注射器の円筒形のシリンダーと、可動式のピストンの接合部を「口返し」という符牒で呼んでいたようだ。
 この部分は熟練工でもむずかしく、「震災篇」にも書いたが、徒弟奉公時代にその技術を見聞しただけの光男にとっては「口返し」技能習得は容易なことではなかったはずと推測。

(注4)
「伊豆の娘たち」が正しい。
監督は五所平之助。
配役に佐分利 信、河村黎吉、三浦光子。
東野英治郎や飯田蝶子、笠智衆らの名前もあった。
封切りは昭和20年8月30日。松竹が戦後日本映画第1作として公開した伊豆を舞台にした青春映画。
五所平之助監督はサイレント時代から戦後の全盛期にかけ活躍、
「小民的抒情派の名匠」として知られた。

(注5)
この日付だけ昭和元号が付され、また日記上欄に「開店費明細書」と記されていた。
特別な想いがあったと思う。


(注6)
「鉄箒」というのは東京の朝日新聞に最初にできた投稿欄の名前。
鉄のほうきという意味で、当初は記者が書くコラムだったが、投稿を取り入れるようになって、これが、1916年にはじめて、1917年から一般読者の投稿も採用し始めた1945年まで続けられ、その後に「声」欄に変った。
出典
2000年度立命館大学産業社会学部
  朝日新聞協力講座 ニュースペーパーリテラシー
http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~syt01970/asahi/page052.html



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