安達の伯母は生まれて間もない弟を「よその家へ出しては」と母に言ったという。母は泣けて、泣けてしかたがなかったと後日、私に語ってくれた。
あの時のかなしみは、わすれることはない。近所の魚屋、後藤菊次郎さんの所へ嫁に行っていたいとこのおすぎ姉さんが居てくれたので、弟の光は他家の人にならず、今は丸尾家の大事な人である。
あのとき早速にかけつけてくれたのは、おすぎ姉、続いて弟の千代松さん、 . . . 本文を読む
明治41年5月10日。私は本郷区元町2丁目で丸尾佐吉、しげの間に生まれた。
しげは後妻で次男芳造から下、6人が生まれる。
長男芳造、長女キミ、スズ、ラク、えいいち、秀がいた。
父の職業はきまっていなかったようだ。私の知るかぎりでは、ろてん商であった。
だから昼は仕入れして夕方から牛込の神楽坂で商いをしているので、あまり記憶がない。
思い出にあるのは雨の降る夜 . . . 本文を読む
いつのまにか光男はいなくなった。進退窮まった松さんは、光男の最後の学年を本郷の中村金太郎に住み込みの条件で、その条件で同家に”奉公”させてしまっ
たのである。
大正6年(1917年3月)だったろう。
辰雄はいつも、つる女の側で、何をするでもなく暮らした。
来客との対談では口癖のように
「コレ(辰雄)が一番可哀想なんですよ」
と述懐していた。
それにはいろい . . . 本文を読む
家庭史の資料をあれこれ整理している中で、今から29年前の辰雄叔父からジッタン(当時30歳)宛ての書簡綴りが出てきた。この中には関東大震災以前のわが家族3兄弟の歩みが綴られていた。 . . . 本文を読む
「当時、幾十年後でなければ東京は廃墟のまま残るだろうと、庶民の間で噂されたその東京には、僅か4か月で『ウチは焼けても江戸っ子の意気は消えない 見
ておくれ、オヤ、まあ、アラ、まあ忽ち並んだバラックに夜は寝ながらお月さま眺めて ええぞ ええぞ・・・・』と云う街頭演歌師の唄に象徴されるまでに
「復興」したのである」(辰雄回想記)
各地に散っていた関東大震災被災者が続々と東京に戻りはじめた。
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当時の状況を「辰雄 回想記」のほうから眺める。私は、長尾家で朝6時起床・夜12時作業終了、その間、製品の名古屋駅への荷車での運搬、また屋根だけが
在って、三方開放の庭の一隅での、ハンドプレス・足踏みロクロでの旋盤作業に心身をすり減らしていた。一か月の小遣い銭20銭では、市電5銭の時代では、
なにも買うことも出来なかった。」
「親戚の家は名古屋に三か処在った。
大伯母 . . . 本文を読む
18歳の光男は藤塚町の近くの理髪店で働くことになる。この店は後家さんが一人で切り盛りしている狭い店だった。子供も数人いる。光男が驚いたのは、この後家さんの仕事の速さである。
津川理髪店の親方は丁寧な仕事をする人で、和剃刀扱いの名人だったが、この後家さんはスピードが特長。
客に取り掛かって散髪、洗髪、顔ずり、仕上げの各動作がまるで早撮りフィルムのようで「東京の半分の時間、40分ぐらいだと . . . 本文を読む
関東大震災で被災した当時18歳の光男(ジッタンの父)は海路から、13歳辰雄(ジッタンの叔父)と松次郎(ジッタン祖父)は避難列車でそれぞれ母方の親
族が集まる名古屋へ一時疎開。丸尾キミ(14歳ジッタンの母)は被災後、実家へ帰り、東京銀座の富士アイスに勤務。この名古屋編の基調を辰雄の回想記
から原文のまま紹介し、これにキミさんからの聞き書きをジッタンメモとして添える。82年前の震災後から昭和初期を . . . 本文を読む
地元のNPO法人の理事長さんから誘われ江戸川近くのFURUYA村へでかける。
ここには広大な畑やみどり青々とした竹林があり、今は使われなくなった牛舎をきれいに改造した家がある。
2年間、休みのたびに集まったNPOの仲間がトンテンカンと日曜大工の器用な腕前を披露し、牛舎を男たちの「隠れ家」に作り変えた。
青竹の天井、青竹の壁
は集ってくる人たちの気持ちを不思議になごませ、 . . . 本文を読む
光男と津川理髪店一家は巣鴨で共同生活をはじめた。隣の葛篭屋も一緒である。震災後の無灯の生活の中では光男が浅草で求めたローソクが非常に役に立った。
葛篭屋では乳飲み子がいて、暗がりのおしめの取替えのときなど、このローソクでずいぶん助かっている。
この赤ちゃんの出産時の手伝いに静岡から来ていた17歳の愛くるしい娘がいて震災に遭遇した。
光男とは一つ違いであり、そこは若いもの同士、同じ家に . . . 本文を読む